#5:『ネズミ退治in市民街』
意地になって辛い方のパンも完食したわけだが。辛さばかりが先に立って味はほとんど分からなかった。俺が子供舌でなかったら楽しめたのだろうか。くそっ、絶対克服してやる。市民階級め、待ってろ。
内心の決意も新たに、アリーシャが継ぎ足してくれた紅茶を含む。辛いのはダメだが、苦いのは治験で飲まされる薬で慣れているせいか、それほどの苦にはならない。爽やかな香りを楽しむ途中、あの懲罰官がくれた角砂糖の事を思い出して、中に入れてみた。ふと見た店長が妙な顔をしていたが、気にしないようにして砂糖を溶かし、改めて含む。
……ああ、うん。さっきの苦いのも悪くないが、やっぱりこっちの方が好きだな俺。大人の味ってのはいまいち俺の琴線には響かないようだ。
再び一口。舌の上で甘味と香りを転がしていると――
不意に、店長の目付きが変わった。
「“
鋭い一声に、弾かれたかのごとくアリーシャがカウンターを飛び越える。同時に店の中でくつろいでいた客までもが一斉に席を立ち、窓に向かってテーブルやら椅子やらを押し倒し始めた。咄嗟に俺も皿を全て重ねて退かし、同じように窓を塞ぐ。うん、我ながら良い反射速度だ。飲みかけの紅茶も全て無事だし、食べかけのビスケットも落ちていない。完璧じゃないだろうか。
と、一人悦に入ったりなどしながら、テーブルを窓へ押し付ける恰好で壁に寄りかかる。ふと視線を感じて店長の方を見れば、びっくりしたような目と合った。
「何か?」
「いや……“
「いいえ、何も。ただ、有事には素早く動けるようにと躾けられているだけです」
ほぉ、と感心した風な店長の声を余所に、紅茶を一口。緊迫感のある状況で嗜好品を味わうのもまた乙なものだ。
「緊張感無いねぇ君」
「緊張はしています。だから紅茶で気を紛らわせているだけです。……貴方もどうです? ビスケット、全て無事ですが」
差し出してみるが、呆気に取られたような顔をされただけだった。ううむ。上手い飯は精神衛生に良いんだぞ。あるだけで仕事する気になる。
――と。
此処で、俺の耳が聞き覚えのある忌々しいサイレンを捉える。なるほど、確かにこれは“醸造猫”の出番だ。とは言え、古暦の穀倉の英雄タウザーであっても、あの数は流石に歯が立つまいが。
ともあれ。俺は両手に持っていたビスケットと紅茶をとりあえず椅子の座面に置いて安全を確保し、空いた両手に何か手に出来るものは無いかと周囲をキョロキョロ。
万一この間みたいなことがあったとき、一番やってはいけないのは徒手空拳で何とかしようとすることだ。あれは弱者を的確に見抜き、数の暴力でねじ伏せてくる。余程強力な震脚の使い手でもない限り、どんなに粗末でも何かリーチのある武器があった方が絶対にいいし、俺はそんな便利な武術など何一つ習得していない。
しばらく見回していると、アリーシャが小さな箒を片手に近づいてきた。小学生が掃除の時間に使うような、俺の身長の半分もないような小さい奴だ。一体何の為に置いてあるものかは知らないが、とにかく彼女は、俺の手にそれを握らせた。
「普段は私が使うものですけれど、貴方の方が力がありそうですから」
「それでは貴女は?」
「予備があります」
裏を返せば、予備でも何とかなるということか。店長といいこのアリーシャと言い、ただの市民階級にしては随分と荒事慣れした空気を感じる。……感じるだけだ。何せ市民階級の常識なんてまるで知らない。市民階級とは皆こういうものなのかもしれない。
とにかく、有難く受け取っておいた。いざ構えてみると傘の時よりも不格好だが、真面目にやってるのだから多少ダサくても構いやしない。店内の全員も、手に手にステッキやら日傘やらを構えて自分の直近に意識を尖らせている。それぞれの持ち場を護る体勢のようだ。
ならば俺は。体勢を少し変え、あの時と同じく部屋全体に意識を飛ばせるように陣取った。特に強く警戒するのは、足の悪い店長の近く。ネズミどもが飯より人に喰いつくと言うなら、まず真っ先に狙われるのは五体の不自由な者だろう。
「君――」
「シッ」
店長がなにか言いかけたのを呼気で黙らせる。何かあった時に会話で聞き逃したりすれば命取りだ。
そして案の定、
「そこだッ!」
店長の声に紛れようとしたのだろう、視界の端で素早く床を駆けた影に、俺は全力で箒を振り下ろす。甲高い濁った断末魔が聞こえたが知ったことか。骨の砕ける感触に致命の一撃と知り、出せる全速力で得物を手元に引き戻して、横を抜けようとしたネズミの脳天へ柄の一閃を喰らわせた。
二体目のネズミが床を転がると同時、ザァッと引き波のような音が脳裏にこびりつく。見れば、俺から一メートルほど距離を置いたところから灰色の毛皮の絨毯が広がって蠢いていた。それは見間違いようもなくネズミどもで、しかしやつらはそこから動こうとしない。どうやら俺を脅威であると誤認したらしい。その誤りを改めさせないように、俺も出せるだけの殺気を小動物の大群に差し向ける。
そうして、忌々しきネズミどもと俺の睨み合いが暫し。膠着が十数秒続いたかと思うと、奴等は枯れ葉を踏み砕くような音と共に遠ざかっていった。俺や他の面々に叩き殺されてでも店内の獲物を狙うより、より蹂躙しやすい相手の所に行ったのだろう。
裏を返せば、そういう相手を何処かで捕捉した、ということでもある。
「チッ!」
箒を手にしたまま、俺は一散に封鎖された出入り口の方へ駆け出した。
「おっ、お客様! どちらへ⁉」
アリーシャの慌てた声はスルー。張られたバリケードを、彼女を真似して一足飛びに――越えられず、無様にバタバタしながら乗り越える。そのまま立てられたテーブルとドアの間に足を下ろし、俺が通り抜けらるギリギリの隙間を開け、猫のように身体をくねらせ外に出た。
ところで、殺鼠剤は人間をも殺す毒性を秘めているが、散布の形式は毒餌だ。特にそれらしい装備がなくても食わなければ中毒することはない。そう言うわけで、俺はばらばらと道に散らばる餌を避け、群がるネズミどもを適宜蹴散らしながら、努めて冷静に小動物の流れを追う。
毒餌を一心不乱に貪るやつ、閉ざされた家々のドアを齧るやつ、諸々無視してちょろちょろするやつ――てんでバラバラの一挙一動を大雑把に見やり、ちょろちょろしているのの行き先を辿れば、果たして俺の予想は嫌な方向で当たっていた。
「痛い、痛いっ! 助、助け……嗚呼っ」
「おい伏せるな! 顔を上げろ!」
『ショウビン印の琥珀糖』、そんな看板を掲げた車の傍で、男が一人うずくまっていた。
どうやら移動販売車の類らしい、車の周囲には甘い香りが漂っており、これがネズミを引き寄せている。売り主であろう彼もネズミに食いつかれ、特に酷いのが脚。恐らく地団駄を踏んだりして何とかしようとしたところを喰われたのだろう、真っ先に機動力を潰された男はなす術もなく、俺の勧告も聞こえずに倒れ伏している。
あっちが動けないならこっちが動くしかない。ネズミを叩き殺しながら五メートルの距離を詰め、食いついていた
更に数回、男の上に被さっているやつを男ごと殴りつけ、痣だらけにしたところでやっとネズミが怯んだ。来れるもんなら来てみろとばかり一歩踏み出して睨みつけ、それでも近づいてこようとした奴の頭を柘榴にして突き放す。他の獲物や散布された毒入りの餌を求めて離れていくやつらを尻目に、横たわったままの男を背負った。
死体を蹴散らし、向かってこようとする少数のネズミを踏み殺して威嚇しつつバリケードを慎重に越え、店へ戻る。俺が叩き殺してからネズミどもは此処を標的にしなくなったらしく、店内の床にはさっき撲殺した二匹以外の姿はない。
「お客様!」
「俺は構いませんから。少し椅子を」
両手の空かない俺の代わり、心配顔のアリーシャに椅子を二脚並べてもらい、背負っていた男をその上に寝かせる。どうやら怪我を把握したらしい客の一人がペットボトルの水とタオルを差し出してきたので、ありがたく借りた。一本全部使い切って傷を洗い、傷口以外の水気だけ軽く拭いておく。気を利かせてくれたのか、アリーシャが救急セットを持ってきてくれたが、それは断った。
ネズミに限った話ではなく、動物の噛み傷は思っている以上に深い。それに細菌やウィルスの類が絶対に入り込む。この男は肉が見えるほど食いちぎられたところもあるし、俺までも手酷く扱ってしまった。素人が下手に動かさない方がいい。
「サイレンが終わったら病院へ。市民階級の病院が空いていなければ、技研の診療所を頼ることも視野に入れて下さい。水準は病院と変わらないはずです」
「わ、分かりましたわ」
戸惑いがちの返答を聞いたところで、これはアリーシャに言うことではないと気付いた。だが男の方は水をかけたところで気絶してしまい、今一番近くにいるのは彼女だけ。……まあ彼女伝いに言ってもらうことにしよう。
水浸しにしてしまった床を店の備品のモップを借りて拭き、血のついてしまったタオルはしょうがないのでそのまま返却。後片付けを終えて一息ついていると、おずおずとアリーシャが尋ねてきた。
「……その、本当に労働階級の方ですか?」
「? 生まれつきそうですが」
「そのような知識をどこで? 労働階級の方は、その……あまり、学力の面では」
言い澱むアリーシャへ、大丈夫、と言う代わりに首を横に振った。失礼なことを言っていると思っているんだろうが、労働階級がその他の階級に比べて著しく教養に欠けるのは事実だ。俺だってそんなに頭がいいわけではない。
だがまあ、確かに、あのネズミが風呂場に出てきたときから、何となく本を読む機会は増えたように思う。俺が今し方やったのだって、つい最近ちらと見た応急処置の本に書かれていたものだった。
少し言葉を選んだ。
「この大陸は他より少し恵まれている。それだけのことです」
‡
ネズミが殺鼠剤で沈黙し、その屍骸や生き残りが大方片付けられ、運悪く食い殺されたり怪我をした人間がそれぞれ霊柩車と救急車に回収されたところで、ネズミの騒動はようやく終わる。あちこちを救急車の鳴らすサイレンが行き交う中、俺は例の移動販売車を弄っていた。
道端の真ん中に放置されていたのを動かし、喫茶店の横に寄せる。ついでにまだ仕事途中で荷物が満載のトラックも、少し動かして目の届く範囲へ。エンジンを切って労働階級章で鍵を掛け、丁度近くを通りがかった救急車を呼び止めた。
「労働階級……ふん! お前を載せる空きはない、技研の診療所にでも行くんだな」
「市民階級の男性一名、両脚に咬傷。ネズミを追い払う時に数回脚と背中を殴った。これでも空きが無いと?」
「……何処だ」
分かりやすくて助かる。露骨に不機嫌そうな顔の女を喫茶店に連れて行くと、何か化け物を見るような視線がこっちに刺さった。労働階級ごときが市民階級の店に何事かと、そう言いたげだ。気にせず椅子に寝かせた男の所に引っ張っていく。
女は弾劾したそうに俺をじっと睨め付けながら、それでも何とか平静を繕ったようだった。脚の噛み傷と全身の痣を診て熱を測り、何かの薬を打ったり傷を接着剤でくっつけたり。傷が塞がったら軟膏を塗りつけた上から医療用フィルムと包帯を巻いて痕を保護し、抗生物質らしい薬を打って、やることは終わったと言わんばかりに立ち上がる。
「一週間程度で傷は塞がる。打撲は特に問題があるほどではない。悪寒、発熱、化膿、運動障害、その他異常があれば最寄りの病院へ。以上」
「恩に着る」
「労働階級に着せる恩はない。それでは、私は急いでいるので」
言うだけ言ってさっさと店を出てしまった。最初から最後まで感じの悪い女だ。
そして、俺の方ももう此処に居残るようなことはない。冷めてしまった
アリーシャが引き留めようとしてきたが、それには美味い飯を馳走になった礼だけ言って後は無視。残りの荷物を運ぶべくトラックに乗り込み、少し窮屈な裏路地から大通りへと車を出した。
‡
それから。
青ざめた顔の懲罰官が俺の部屋にやって来たのは、いつになく多い荷物をようやく運び終えて戻ってきた直後のことだった。
「T-389562、お前に届け物だ」
「届け物?」
「住民番号D-58910、市民階級、嗜好品製造職。『礼をしたかったがすぐに出て行ってしまった、会えるのかも分からないので現物のみで失礼』云々、と。礼をされるようなことをしたのか」
「嗚呼……いや、ネズミが取り付いていたのを殴って追い払っただけだ」
「そうか? まあ、いい。とにかく届け物はした。では」
妙にそわそわしながら、そいつは玄関近くの床に携えていた紙袋をそっと置いて、事情を聞こうと声を上げるより早く部屋を出て行ってしまった。バタン、と心なしか乱暴に扉が閉まり、オートロックが掛かる。一旦ロックが掛かってしまうと管理局に言って開けてもらうしかなく、そこまでして引き留めるかと言われたら、俺はしない。どうせ、運搬の仕事が入れば顔を合わせることになるのだ。そこで聞けばいいだろう。
遠ざかって行く足音を聞きながら、拾い上げた紙袋の中身を書き物机の上にひっくり返す。出てきたのは淡い青緑色の紙で包まれた色々な形の何かと、鳥を象った青緑色の瓶、そして“翡翠印の琥珀糖”の印字と鳥の絵が入った名刺大の厚紙一枚。瓶の中身は、驚くべきことに漂白された角砂糖がぎっしり詰まっている。紙包みの中身は分からない――琥珀糖と言うくらいなのだから琥珀糖なのだろうが、その琥珀糖と言うのが分からん――ので保留。
名刺は、裏にメモが残してあった。
『現物にて失礼致しますが、助けて頂いた御礼を致したく存じます。目録はしょうびん印の琥珀糖、及び西大陸産の純白角砂糖。琥珀糖は古来の製菓にありますれば、とくと御賞味あれ。』
あの紙包み、菓子だったのか。
これは嬉しい。甘いのは明確に俺の好みだ、期待が高まる。
だが、その前に――
「はぁ……」
不味い餌の時間だ。
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