#2: 『技研階級からのお裾分け』

 目が覚めると見慣れた天井があった。

 シミひとつない真っ白な天井。視界の端の方で明々と照る蛍光灯。金属の棒から吊り下がる点滴も見える。

 耳を澄ますと、心電図が規則的に、気持ちゆっくりと電子音を奏でているのが聞こえた。後は人工呼吸器が俺の肺に空気を送り込んでいる音もだ。

 此処は……懲罰房。やはりペナルティはきっちり課されるようだ。いつになく物々しいが、一体何をする気なのか。この状態で掘るのは流石に勘弁してほしい。別に痛いのは慣れているが、苦しいのは嫌だ。

 今後の展望、それも絶望的な方面についてぼんやり考えていると、電子音に紛れてドアの開く音がした。コツコツと妙に響く革靴の音は、俺が数回聞いたことのある、しかし懲罰房所属でない男のものだ。


「お前……っ」


 顔を上げようとしたら動かなかった。畜生、殺鼠剤の効果がまだ続いているのか。或いは俺がくたばっていた時間が長すぎたのか。動かそうとする度に痺れるような感覚がするから、多分前者だろうが。

 辛うじて動く手足をガタつかせていると、ひょっこりと足音の主が俺の視界に顔を出した。


「やあ。一度死んだ気分はどうだい」


 くたびれたシャツに緩く首から下がった紺色のネクタイ。にこやかに見えるが目の笑ってない、メガネの男だ。

 名前はかしわ――と、聞いている。彼の性格からして本名ではなかろうが、とにかく俺の直属の上司に当たる。この大陸に於けるヒエラルキーの二番目、技研階級に所属する、生命科学に長けた男だ。

 生命科学研究に力を注いでいるということは、人体の構造について熟知していることとほぼ同値。つまる所、彼は立場的にも自身の技能的にも俺を好きに出来るも同然である。実際中々好き放題に扱ってくる。と言うことで、こいつには憎たらしさと恐怖しかない。こちとら何をされるか分からないのだから、情けないとは言わせない。


「柏……俺を痛めつけに来たのか」

「いいや?」


 信用できるか。俺が懲罰房に入る時はいつもいるくせに。


「懲罰ならさっさと終わらせてくれ」

「だから違うって言ってるだろう。ぼくは様子を見に来ただけだ。貴重な治験適正A+の労働者が死なないようにね」

「懲罰は無いと?」

「あったことはあったけど、君が意識失ってる間に終わった」


 ――終わった? 一体全体何をされたんだ。と言うより、対象が意識のない状態で成り立つ懲罰とは何なんだ。後、終わったなら何で俺はまだ此処にいるんだ。

 言葉を出すのが億劫で、ただ柏を見た。彼はそこで初めて目を微かに緩める。双眸には怪しい色が垣間見えたが、その矛先は俺ではない。


「君が受けたとは言っていない。ぼくが書いた診断書を無視して君にアジテート剤を使った懲罰官に、だ。君が懲罰房にいるのは、単に空きがなかったせいだよ。下水管から遡上のぼってきたネズミに労働者が軒並みやられた」

「…………」


 懲罰官も懲罰房に入るのか。まあ彼らは所詮労働階級でも上位と言うだけで、技研階級に命ぜられたら嫌とは言えない立場なのだが。しかし、それより更に下の治験職たる俺の懲罰内容で揉め、あまつさえ懲罰官が打ち負けた事実には驚く。

 あれこれ考えて押し黙っていると、柏はケラケラと不気味な笑声を一つ喉の奥から転がした。


「アジテート剤でショック起こして死んだらぼくも困るんだよぉ。君のその妙に豊かな語彙と知識と鋭い感受性がぼくの研究には必要なの。それに君だって。平気そうな顔してるけど、これ以上肛門括約筋オシリを虐められるのは精神的に嫌だろ? 君が“猫”だって言うなら別だけど」

「黙れ。いっそどうにでもしろ」

「そう言う状態になられるのが困るんだって言ってるんじゃない」


 ぷんぷんと間抜けなオノマトペが付きそうな顔をされた。

 微塵も嬉しくない。これが年端もいかない少女なら多少可愛げがあっただろうが、柏は二十代の無精髭を生やした男だ。

 重ねて言うが、微塵も、嬉しく、ない。


「……ホント勘弁してくれないかな」


 反応のない俺に柏は呆れたようだ。少し肩を落とし、やおらシャツの胸ポケットを漁る。

 出てきたのは四角い紙箱。タバコやそれに類する嗜好品――ゴミ処理屋の間では"ハーブ"が流行っているらしい――に見えるが、違うようだ。上部を手で破り、柏が中から出したのは、銀紙に包まれた立方体だった。銀紙には何か印字が見えるが、生憎そんな小さな字が見えるほど目は良くない。


「何だそれは」

「美味しいよ」

「信用できるか」


 正体を明かさずに言われたが、技研階級の美味いは世界一信用ならない。それが何であれ、だ。

 技研階級と言えば、その才能によって成り上がった学者の極致。もう少し偏見を混ぜて言うならば、学術を究めることを許された――強制された――階級とでも表現出来よう。

 要するに、技研階級の味覚など死んでいるも同然。必須栄養素だけ摂取できれば、自分の命と知識さえ温存できれば、後はどうでもいいと考えている。そんな奴らの美味いなぞ信じられるか。特に柏は自分の健康すらどうでもいいと思っているような輩だ。絶対に信用ならない。

 俺の意見はさておき、その馬鹿舌の男は俺の態度に少なからず怒ったようだ。眉根を少し寄せ、口をへの字にひん曲げた。


「技研階級に対して物言いが挑戦的だね君。……これ、言っとくけどちゃんと申請して認可済みの治験だから」

「ふぅん。腕から蛍光色の液体を入れるのは趣味じゃないのか」

「もう!」


 いい加減に怒るよ、と柏は目元を引き締めながらひと睨み。しかし、怒られて懲罰が増えたり致命的な治験に回されたところで、今の俺は一度死んで黄泉返った身だ。もう一度死んだところでさしたる違いはない。負けじと睨み返すと、彼は諦めたように肩を落とした。


「強情だな君も。とりあえず美味しいか否かは別として、食べてよね」

「嫌だ」

「拒否は受け付けてませーん」


 言うが早いが、柏は立方体の銀紙を剥いた。自分の研究となると人権を顧みないのが技研階級の特徴だ。死んでもいいが苦しいのは勘弁してほしいところである。

 さて、中から出てきたのは艶やかな焦げ茶色のブロック。あまり嗅いだことのない、甘いような苦いような香りがする。


「経口で摂取する代物なら、せめて何なのか説明してくれ」

「チョコレート」

「は?」


 チョコレート。高級品じゃないか。俺は勿論だが技研階級の連中だってそう簡単に手に入れられる代物じゃない。それを柏が何で持ってる。


「ただのチョコだよ? 他大陸の捕虜が持ってたのを鹵獲した横流し品だってさ」

「……南大陸か?」


 確かチョコレートの原料がそこで採れると聞いた。随分それで儲けているらしいという噂もそれなりに流れている。

 柏はしかし首を横に振った。


「北大陸の旅団だって。何でも手軽で美味しいカロリー摂取手段としてバカ売れしているそうでね」

「何でそれを俺に」

「言ったろ」


 口の端だけを吊り上げて、柏は笑う。


「ち、け、ん。君の感受性と語彙で持って、この砂糖とカフェインの塊が食味に耐えうるか記述してほしい。何せぼくの舌はもうお馬鹿さんでね」

「元からだろ」

「何その言い草。ぼくだって元々はまともだったんだよー? 元はと言えば技研階級じゃなくて労働階級の治験職出身だし」

「何だと?」


 彼のまともな述懐を聞いたのは初めての気がする。思わず目を丸くした。


頑丈なのと頭の良さがウリ治験適正Sだったんだけどねー。それのせいで静注も筋注も死ぬほど受けたし、錠剤なんて何百錠飲んだかもう覚えてない。副作用で骨は融けるわ味覚は無くなるわ内臓はぶっ壊れるわ、もー散々」

「……お前、」


 何て奴だ。身体を張っているなんてレベルじゃない。彼を実験台にした連中は一体全体何をしたくて、こいつに何をさせたかったんだ?

 全身が震える。恐らく毒気のせいではないだろう。何しろ、思わず上げた声も情けないくらいに震えていたから。


「そこまでして、何がしたかったんだ。お前は。そいつらは?」

「何だったんだろう。忘れちゃったよ。にひひっ」


 いっそ不気味なほど朗らかに、柏は肩を竦めて笑う。その眼は相変わらず笑っておらず、何処か違うところを見ていた。

 そうして少しく漂った沈黙を、柏は指の温度で溶けかけた砂糖とカフェインの塊を口に放り込むことで破る。指についたチョコレートを舌の先で舐め取る仕草が、妙に子供っぽく見えた。


「……お前が先に食べたら意味ないんじゃないのか」

「え? あ、やっちゃったなこりゃ」

「おい。お前治験の受けすぎで痴呆にでもなったか」

「んー……僕の受けた治験は血液脳関門を通れないはずなんだけどなぁ。最近瑣末な記憶が混濁しがちで困っちゃうねぇ」


 けらりと困ったように一笑し、柏はパイプ椅子に腰かける。粗末な椅子は柏が身動ぎをする度にきしきしと嫌に甲高い音を立てて軋んだ。

 はぁ、と思わず溜息。吐息と一緒に、四肢の痺れたような感覚が溶けるように消えていく。ようやく殺鼠剤が抜けてきたようだ。試しに少し腕を動かして、マスク状の人工呼吸器を引き剥がした。

 呼吸も問題ない。ゆっくりと腕に力を入れ、上体を起こす。一瞬くらっときたが、耐えられるレベル。冷静に深呼吸を繰り返し、脳みそに酸素を供給する。よし。

 乾いた目を数回瞬く。


「くれ」

「おぅやる気になったかぁ。包み紙自分で取れる?」

「出来れば取った状態で」


 かさこそと紙の擦れる音が少しして、ぐったり投げ出した掌の上にぽいと茶色いブロックが放り出された。まだやんわりとしか力の入らない手でそれを掴み、重い腕を上げて口に投げ入れる。途端。

 口の中一杯を、甘味が支配した。


「お……」


 普段喰っている合成肉やアミノ酸から感じ取れる、遠くの方でしか感じられないぼけた甘味とは違う。純然たるショ糖。砂糖の味だ。だがそれだけではない。一つの化合物だけでは言い表せない。何だか前にも同じようなことを言った気がするんだが、とにかく複雑なのだ。ああくそっ、語彙以前に経験が足りん。

 もっとしっかり味を確かめようと舌を動かすと、舐めた端から溶けていく。これが口どけとか言うものだろうか? 市民階級に配送する荷物の中に雪のような口どけがどうのこうのとか言う売り文句が書いてあったことを思い出す……って、いやいや。俺はそう言うことを言いたいんじゃない。味だ味。

 舌の上に溶け広がったチョコは、甘味と共に僅かな苦味も感じられる。先程から鼻腔をくすぐってくる焦げたような香りが、苦味と共に一層匂い立つような気さえした。

 至福の甘露も味わえる時間は短い。キューブが完全に形を失い、舌に残る甘味と苦味を楽しみながら、俺はじっと見つめてくる柏に目をやる。どう、と期待した風に聞いてくるから、黙って頷いた。


「美味いなこれ。欲しい」

「わぁお、絶賛じゃない」


 心底意外、と言った感じの応答。まあ、俺も最初は黒焦げの立方体なぞ怪しいとしか思わなかったわけだが、見た目と味は相関しないものだ。よく思い知った。

 さて、頭の悪い感想を聞いた柏はと言えば、目を子供のように輝かせて椅子から立ち上がっていた。手にしていたチョコレートの箱はパイプ椅子の上。治験が終わった後の残骸は最早要らんと言うことか。


「おい柏、忘れ物――」

「いいよ、あげる。下水管欠陥をいち早く見つけて被害低減に貢献した褒賞ってことで。君の好きなように消費しちゃってぇ」


 うきうきと柏は立ち去り、俺は独り懲罰房の真ん中に取り残されるばかり。全く自由勝手に労働者を翻弄してくれる。


「ま、いいか」


 ――とりあえず、懲罰官に見つかる前に隠しちまおう。

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