#1: 『ほとんど生の鼠肉』

「いやいやいや、ないないないない」


 ネズミを食べるなんてまさかそんな。妙な考えを振り払いながらシャワー室に戻った。ドアをぶち破ったせいで蝶番が盛大に壊れている。後で管理局の連中に叱られるか、悪くすれば懲罰房行きかもしれないが、興奮アジテート剤を入れられながら掘られるよりは多少マシな刑罰になるだろう。

 真っ赤に染まった熱湯の中で毛玉は死んでいた。ビニールを張ったことによる窒息死と言うよりは、熱湯に放り込まれたショック死のように思う。死因を考えたところで瑣末な問題だが。

 とりあえず血まみれの湯は下水に流し、新たなネズミが遡上してこないよう熱湯は垂れ流しにしておいた。

 死骸を摘む。ぶらんと下がる死骸はずっしりと重い。ふさふさの毛がたっぷり水を吸っていることもあるが、裂傷の隙間から見える赤い肉の密度。これが重みの一番の原因だろう。

 ……肉。そう肉だ。

 天然の、純然たる生肉。


「……っ」


 凄まじく甘美な響きが頭をくらくらと揺さぶる。真綿の牢獄に在れど本能は決して摩滅しない。

 生まれてこのかた湧いたことのない食欲と、管理された食餌を逸脱する緊張と、少しの背徳感に罪悪感。ごちゃ混ぜの感情が口内で唾液と共に渦巻き、俺はごくりとそれを呑み込んだ。陳腐な文章表現を実際に自分がやることになるなんて思ってもなく、子供の頃のようにわくわくする。

 死骸を床に置いた。毛は食えないだろう。流石にそれは分かる。震える手で傷口を押し開き、皮と肉の間と思しき白い層に爪をねじ込んだ。

 ゔ、ぬるぬるする。気持ち悪い。だがこれも肉の為だ……!

 しばらく格闘していると、爪が白い層を踊った。これはしたり。両手の親指を突っ込み、引き裂くように穴を押し広げる。

 べりべりと皮の剥ける感触と音が手に伝わってきた。同時に、エネルギーバー――労役中に配給される一時栄養補給食だ――の銀紙を剥いた時のように、灰色の皮がぶりっと剥けて中身が顔を出す。

 薄いピンク色の繊維を無数に束ねて造形された肉の塊。僅かにまとわりつく脂と血。裂けた所から垂れる臓物。

 これはいい。労働階級の死骸を洗浄して押し固めた、色気も味気もない合成肉よりずっともっと健康的だ。残りの皮も剥ぎ、ぷりぷりと艶めくそいつに、俺は無我夢中で齧りついた。

 ――うわ凄い、何だこれ。噛みきれない。俺の軟弱な顎が一噛みで嬉しい悲鳴を上げている。唾液が溢れて止まらない。

 糸切り歯で筋繊維を喰いちぎり、両手で思い切り引っ張って、骨から肉を引き剥がす。取れた肉片は微々たるものだが、この際好都合だ。これを一度に食らいつくしてしまうのはあまりにも勿体無い。

 惰弱な顎の筋肉を総動員し、たった一切れの肉を噛み潰す。むにゅりと未知の感触と共に肉片が逃げた。

 そう簡単に食われはしないと言うことか。ムキになって咀嚼を繰り返すと、やっと細かく砕けていった。いつも食う化学的で単純なアミノ酸の味とは全く違う。いや、違う訳ではないのだろうが、気が遠くなるほど複雑な味だ。詳しく分析も出来ない多様さが舌の上を転がっては、脳みそに衝撃を叩きつけた。


「……どうしよう」


 臓物にも手を付けようと思ったが、少しばかり迷った。

 何しろ何を食っていて何が毒になるか分からない。普段食っている合成肉は洗浄を繰り返され分子以下のレベルで不純物を取り除かれているが、俺の手元でそれは不可能だ。

 しかし。こんな健康的に艶々されると、気になる。味が。

 結局脳内会議は満場一致で「洗えば食える」に決定。排水口に流していた熱湯で念入りに中を洗った。

 ……よし。大体こんなものだろう。

 俺の知識の及ぶ範囲で洗浄したネズミのハラワタを、一息に齧りとる。くそ、やっぱり噛みきれない。このっ、大人しく俺に食われろ!

 前歯と糸切り歯でしなやかさを保つ筋繊維を噛み切る。手で引きちぎろうとすると、まだしぶとく繋がったままの腸が腹腔から出てくる。

 まだ執念く残るか。行儀の良さを捨て、引きずり出てきた腸を両手で無理やり千切った。ぶつぶちと水っぽい紐の切れる音が生々しい。鳥肌の立ちそうなそれを追いかけるように、まだ抜けていなかった血が滲んで滴り落ちる。

 手にまで垂れてきたそれを洗おうとして、ふと思い立ち舐めた。

 当然血生臭い。生臭いし、鉄っぽさが凄まじい。だがそれ以上に、高品質の輸液をされたような、滋養と快楽が全身の血潮となって廻るような感覚がある。肉の味の複雑さと合わせると、俺の摩滅しきった脳みそはもうパンク寸前だ。

 生き血の味に打ち震えながら臓物を噛む。ぷちりと薄膜が割れ、濃密な血の味が広がった。素晴らしい。先ほどと同じ感覚が増した気がする。しかも、さっきの脚肉と違って肉自体が分厚く硬い。筋肉の塊だ。


「ん?」


 何だ。変なものを噛んでしまった。

 苦い。あっ駄目だこれ。ちょっとこれは、吐き出したいくらい大変な味だ。だが一気に頬張ったせいで生憎と一体どれが源なのかさっぱり分からない。

 さりとて、折角の肉を全部吐き出すのは憚られる。仕方ない。流しっぱなしにしていた熱湯に水を混ぜてぬるま湯にし、それで肉ごと苦手を全部流し込んだ。全くひどい目に遭ったものだ。

 ……さて、残りも食ってしまおう。

 腐る部分は最小限にしてしなくては。



「――ふぅ」


 三十分ほどの長い食事だった。

 毛がもそもそして痛い皮と奇妙に白い骨だけを残し、他はほとんど全部食い尽くしてしまった。血も、湯に浸けて抜けなかった分は余すことなく啜った。お陰で服と手がが血と唾液まみれだ。

 ……我ながら、凄まじいことをしたものだと恐ろしく思う。生の肉と血を嬉々として啜るなど、一体全体どこの吸血鬼かと自分で言いたくなる所業だ。

 だが実際、俺は素晴らしく満足してしまった。今までの不味い単調な餌とは違う。かつての人々が――今の支配者階級の連中が当たり前のようにやっていたであろう、食物連鎖が、例えようもなく甘美だったことは否定出来ない。


「俺にも出来たんだなァ、こんな、……」


 食事の余韻と伴う感激とを噛み締めようとして、服の胸を思い切り掻きむしっている自分に気付く。

 ……これは、心因性の動悸や呼吸困難とは違うだろう。どう考えても殺鼠剤に中った時の症状だ。駄目な奴だ。あっ不味い、アカン奴だこれ!

 一度自覚してしまうともう後がない。体勢が保てなくなり、シャワー室の床に倒れこむ。いっそ下水に鼠の骨を流して証拠隠滅を図りたかったが、それを考えついた時にはもう手足もままならなくなっていた。


「くそッ、懲罰房行きか……!」


 水道の過剰使用、指示外の栄養供給、ついでに服の汚損。懲罰レベル二か、三か。せめて性的な暴行でないことを祈るばかりだ。あれは本気で死にたくなる。

 ああ、その前に殺鼠剤で死ななきゃいいが――とぼんやり考えたところで、呼吸中枢は完全に壊れた。

 遠くなる意識の中で、チリンチリンと呼び出しベルの音だけが甲高く脳裏を揺さぶった。

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