表紙:猫が鼠の味を覚えるまで
西暦XXXXX年X月X日。
春の朝。
三百年ほど引き続いて実りなき大地は、本日も乾いた砂の色。冗談のように青く雲一つない空がよく映える。意味も感動もないいつもの鮮烈さが鬱陶しい。
最後の労役から着たままの作業着を今脱ぎ捨てる。濃灰色の作業着が俺は好きだ。一雨来るときの雲みたいで。
窓を開けたいところだが、あいにくはめ殺しだ。前に神経をすり潰した輩がここから飛び降りたのだという。俺は一度椅子を投げつけて窓をぶち破ったが、懲罰房でケツ穴の処女を奪われて以降はやっていない。
仕方ないので下着も全部脱ぎ捨てる。完璧な管理のせいで無闇に均整が取れているのが憎々しい。
……懲罰房での一幕を思い出しそうになった。迅速にシャワー室へ引きこもる。熱湯を全開にし、火傷寸前の湯を頭にぶちまけた。末梢神経が焼け尽きていくような、痛みにも似た熱が、まだ無意識に残っていた春眠の残滓を吹っ飛ばす。
流石にずっと浴びていると痛い。水を混ぜて普通の温度に戻す。
ところで、この大陸の労働階級は優遇されている。食料がほとんど採れず、人が異様に少ないからだ。労働力はこの街から腐るほど沸いて出る石油よりも尚貴重な資産と認識され、使い潰すことは水の浪費よりも重罪だった。
だから、西の果てのようなマイクロチップの洗脳は受けない。一日二十時間の労働もないし、休日には外に出てすらいい。意思も肉体も最低限の人らしさを保つことを許されるのだ。
居心地がいい。人は皆そう言う。そうしてあらゆる他大陸で迫害されてきた男たちがこの大陸へ集い、支配者階級を動かす歯車に組み込まれてゆく。自発的に出ようとする意思は、この保証された生活を一度でも経験してしまえば、最早湧いて来すらしない。
「真綿の牢獄だ」
呟いた後で馬鹿馬鹿しさに気付く。その牢獄に物心ついた時から囚われている俺が言えたことではない。
考え事を振り切ってシャワーを止めた。タオルを手に取り、垢ともやつく気分を一緒くたに洗剤で擦り落とす。人工香料で付けられた花の香りにうんざりした。本物の花の香りなんて嗅いだこともないのに、嗅ぎ慣れている矛盾。引っかかる。
再び熱湯を頭からぶちまけ、洗剤と匂いを無臭の液体で落とした。
シャワー室から出て、新品のバスローブを着た所でリンと一度ベルが鳴った。"餌"の時間だ。
俺の意思とは何ら関係なく、出入り口の下の方に付けられた戸が開く。べろりと舌のように吐き出される白いトレー。並べられたものに辟易がまたひとつ積み重なった。俺はこれを食餌と言って有難がらねばならない。うんざりする。
さりとて食べないという選択肢はない。いくら今日が休日と言え、一食抜いただけでも後々の労働には大いに支障が出る。空腹で下がる仕事の能率はあまりにも大きく、落としすぎれば懲罰房行きだ。
此処は確かに穏やかな牢獄ではあったが、労働の総量で言えば他と何ら変わるところはない。過酷だった。
……駄目だ。どうも思考がとっ散らかってしまう。労働階級はどうしても知能が落ちるのを避けられないようだ。
いや、ある程度自由意志の許されたこの大陸だからこそ、俺もこうして考え事が出来るのだろうが。他大陸の労働階級は往々にして思考能力なんて死んでるし、自我も曖昧な奴が多い。
まあいい。ともあれ餌は胃に詰め込んでおこう。吐き出されたトレーを引っ掴み、書き物机の上に叩きつける。
献立はいつも同じだ。高品質のタンパクと脂肪を集めた合成肉にカロリー補給のブロック、各種ビタミン剤。最近鉄とヒ素が足りなかったらしいのでそれの補給剤も少し。あとパックの生理食塩水。感動のない食卓だった。
いちいち行儀よく食うのは面倒だ。合成のシート肉にカロリーブロックと薬剤を全部乗せ、巻いて丸ごと口の中に押し込む。必須アミノ酸とタンパクの味はいつもと変わらずに味蕾を叩き、脳裏に味情報と嫌悪と飽きを刷り込んだ。
生食で強引に流しこみ嚥下する。
「ゔぇッ……ぅぷ」
嫌悪感と共にこみ上げてくる必須な栄養の塊と、口に残る食塩の味を水で濯ぎ、空になったトレーとパックを突き返す。放置しておけば勝手にゴミ処理屋が回収してくれるだろう。
一息ついて明日からの予定を確認する。最近他大陸からの難民を積極的に受け入れているせいか、俺の連勤数は減っていた。四日後にはまた丸一日休みが入る。そこそこ有難いが、あの飯に意識が傾くのが癪だ。
労働階級は飯に文句を付けられない。労働のために計算され管理された養分の塊だから、無意味に増えたり減ったりすればそれだけ能率にブレが出る。自由意志の介在が多いここでも、これだけは自由にならなかった。
さりとて、不味い飯に意識が向くとそれだけでやる気が摩滅する。何とかならないものか……
がりがりと頭を掻きむしっていると、外からけたたましいサイレンが鳴り響いた。同時に開ける予定もなかった扉が外から施錠され、はめ殺しの窓に貼られた特殊な遮光フィルムが内外の光の透過を遮る。
俺は半ば反射的に、書き物机に立て掛けていたビニール傘――壊れている――を手に取り構えた。
奴らが来る。
「……っ」
耳を澄ますと聞こえてくる。
がりがりと壁をかじりよじ登る音。鋼鉄の扉を引っ掻く爪音。ちゅうちゅうと嘲笑うような鳴き声が。
奴らが来る。この大陸から芽生えを奪った奴らが。人の肉の味を覚え、今や地上を歩くあらゆるモノを喰らい尽くす災厄が。
ぎゅっと傘を握りしめて、早く去れと祈った。
サイレンは鳴ってから五分間が勝負だ。それを耐え凌げば外の災厄どもは殺鼠剤で一掃される。別にモタモタしているのではなく、作用するまで五分というだけだ。化学反応に非難の余地はない。
だからひたすら待つ。折角シャワーを浴びて流した汗が再び額から滲んで頰を伝い落ちた。
地獄のようなしじまが胃の底に沈滞する。吐き気がしてきたが、何とか耐えた。後で管理局に制吐剤を要求しよう。
――四分、五十秒。
無事に過ぎた。大体この辺りまで来れば普通は安全だ。しかし今日は、今日に限っては、ひどく嫌な予感が胸中で渦巻いていた。
果たして。
「!」
予感は的中。
ちゅうと甲高い鳴き声が、シャワー室の方からした。咄嗟にドアを蹴り破ると、排水口の辺りで灰色の毛玉が蠢いている。
下水管を登ってきたのか、クソッタレ。悪態をつきながらドアを閉め、思いっきり毛玉に傘の柄を叩きつけた。濁った啼き声がして赤い水が飛び散る。だがまだ元気に動く。もう数発ぶん殴り、シャワー室の真ん中辺りで動かなくなったのを素早くつまみ上げた。まだ死なずに手足をばたつかせる様が気色悪い。
傘を放り捨て、シャワーヘッドをふんだくった。洗面器に最高温度の湯をなみなみと張り、血まみれの毛玉を中にぶち込む。傷口に熱湯を掛けられた灰毛玉がもがいているが構うものか。少し考えて、壊れた傘からビニールを破り取り、湯の上に張って空気を遮断しておいた。
じきに死ぬだろう。後は放置だ。
大急ぎで部屋に戻り、管理局にしか繋がらない電話を繋いだ。下水管から奴らが来るなんて聞いてない。何処か欠陥がある。ついでに制吐剤を寄越せ、気持ちが悪い。挨拶もなしに用件だけ叩きつけると、可及的速やかに原因を究明し対応しますとだけ無機的な返答が来た。
これは信用していい。管理局の連中は管理に命をかけている。文字通り。
さて。問題は叩きのめした鼠。同族のにおいは新たな同族を引き寄せると聞く。部屋に漂う分は浄化されて排出されるからいいとして、外に出した瞬間またどこからともなく災厄は湧き出るだろう。そうなったらしまいだ。
最善は内輪で処理することだが、果たしてどうすればいいやら。放置すれば腐るし……
――あ。
「腹が、減った」
食っちまえば、いいの、か……?
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