第3話
ローカルバスも路線を大分消し始めている下北郡では、買い物を始めとした移動はもっぱら自家用車だ。だがそんな物を持てる歳でもないしタクシーを使うほど裕福でもない咲哉は、ただバスに乗っていた。そろそろかな、と見えだした牧場に牛が放牧されている様子はない。今までは廃牛を与えて互恵関係を築いていたゾンビバラックが、まだ生きの良い牛を盗むようになった。それを止めさせるか、皆殺しにするかが今日の彼の任務である。運賃を取られないため鞘に仕舞い込んで竹刀袋に入れられたオソレンジャーは不服そうだが、子供料金もなければ料金一律でもない田舎のバスではよくあることだった。
ブータレるオソレンジャーの鍔がかたりと鳴るのと同時、ゾンビらしき少年が停留所にとまったバスに入ってくる。その腹は異様に膨らみ、けっして普通の肥満とは言えなかった。眼を閉じてもうすぐ着くはずの牧場前を待っていると、ごく普通に、声を掛けられる。
「あなたが、オソレンジャーさんですか?」
鍔がまた鳴る。なるほどそれを意識していたのかと思いながら咲哉はぎゅっとその鍔を抑え込む。まだ何もしていない様子のゾンビを、ゾンビだからと言う理由で殺すことはできない。元々ゾンビ退治用に作られたオソレンジャーはその辺りの事がいまいち解っていない様子だったが。現在ではゾンビに対する福利厚生もしっかりしているのだ。勝手に殺せば訴えられる。もっとも彼の場合は、お咎め無しなのだろうが。しかし県知事に尻は揉まれるだろう。一時間ぐらいは確実に。
「……どうして解ったんです?」
囁くような覇気のない声で返せば、少年はにこ、と笑った。はにかむような笑顔は先日のオルガンを少し彷彿とさせる。近くの違う中学の制服を着ていたが、本人はもう少し年上だろう。声変わりも終わり切っていない、咲哉と同じぐらいの歳でゾンビになったと思われる。ゾンビパウダーを吸ってしまったのか、誰かに噛まれでもしたのか。まあ、どうでも良いかと、咲哉は着々と値段を上げていく料金表の電気掲示を眺めながら少年を少しだけ観察してみる。
詰襟の制服はどこか埃っぽく、その黒に馴染まないほど汚れていた。
「解りますよ。顧問もいないし、この辺りにはもう牧草地ぐらいしかないし。それに、剣道部なら胴や垂れを入れるバッグがあるはずでしょう? あれ、結構重いんですよね。嵩張るし」
ゾンビは常人より腕力が強い。その程度の重さを感じる事は無いだろう。生前、彼はその荷物を持ったことがあったのだろうか。興味はなかったが考えは浮かんでくる。
「僕の好きな人は剣道部だったんです」
少年は尚もはにかみながら、口元に薄い笑みを掃いている。
「いつも遠征の時は重そうで、大変そうだったなあ……下北じゃ大会なんかないですから、必ず遠出になるんですよね」
「ああ……」
「でも試合の時はいつもキリッとした顔をしていて、それがすごく、好きだった」
バスが終点の牧場前を告げる。咲哉は準備していた小銭を用意し、少年もパスケースを取り出したようだった。いちにいさん、と小銭を優先して数えていると、止まったバスから少年の方が先に出ていく。すぐに後を追って出たつもりだったが、少年の姿は見つからなかった。何をそんなに急いでいたんだろう。思いながら咲哉はステップから足を離す。回送バスはすぐに去っていき、『やませ牧場』と書かれた看板だけがぽつんとあるだけになった。
「ようこそおいで下さいました、オソレンジャーさん」
ぺこりと頭を下げる少女は、高校生ぐらいだろうか。やませ牧場の牧場主の娘だと言う。手は荒れていたが愛嬌のある少女で、なるほど看板娘か、と咲哉は簡単に納得していた。
オソレンジャーの方は鍔鳴りが煩いので、一旦鞘から出してやり牧場見学に行かせている。何か欲しいと言われたら断固却下だが、と懐の心配をしている彼は『オソレンジャー』ではなく、ただの朔望月咲哉だ。だからオソレンジャーの名で呼ばれるのは不本意なのだが、仕方ない。一蓮托生というものだ。彼が次代にオソレンジャーを託すまで、彼は朔望月咲哉ではなくオソレンジャーなのだろう。
「どうか、なさいましたか?」
「いえ、とりあえず被害があった厩舎から見せてください」
「はい、こちらになります。……でも本当に不思議なんですよね。今まで牧童としてずっと手伝っていて下さったゾンビの皆さんが、いきなりこんなこと始めるだなんて。田舎だから入れ替わりも殆どなくて、安心しきっていたんですけれど。あ、廃牛が乳臭かったりしてそれが嫌だったのかな」
「それは、当人達のみが知ることですよ……」
言って咲哉は、鉄ごしらえの鞘しか入っていない竹刀袋を担ぎ直した。
※
「童! 童ではないか!」
「げっ……」
大声でオソレンジャーに指さされ、牧場に無断侵入していたオルガンは思わず本音が出た。
咲哉が近くにいることを恐れきょろきょろと辺りを見回したが、その気配はないらしい。シィっと指を唇の前に持って来て静かにするようジェスチャーすると、オソレンジャーはきょとりとしながらも大人しくなった。姿を隠した普段はしているらしい『ふれあい体験』という看板には、現在準備中、と言う札が下がっている。恐らくはゾンビ害が出たのはこの牧場で間違いないのだろう、物陰に連れ込まれたオソレンジャーはその敵だが、単純に懐っこくしてくる少女というのはどうにも敵愾心を萎えさせた。
土産物屋に売っている乳酸加工品、こっそり入った厩舎での豚達の鈍い声。きゃっきゃと笑いながらあちらこちらに行くオソレンジャーに、オルガンは自分の顔の筋肉が緩んでいるのに気付いた。いけない、と思いながら牧場主の娘とあちらこちら検分している咲哉を視界に入れ、しかし自分は決してその視界に入らないようさりげなく気を付けながら、オルガンはピクニックのようだな、と積まれた風化しかけの牛糞を見ながら思う。
自分も普通の家に生まれていれば、こんな思い出作りをもっと小さなころから始められたのだろうか。物心つく頃には両親の仲はすでに険悪で、オルガンが近所の子供たちにその事を揶揄されて泣きながら帰って来た時も、うるさいとタバコの火を腕に押し付けるだけだった。流石にその時はただならぬ悲鳴に児童相談所が介入したが、一時的な保護だけで、結局は家に帰された。継続的な虐待と認められなかったせいだ。ネグレクトはあったが当時のオルガンにはその概念がなく、必然訴えて良いのかも解らなかったし、自分が保護されている期間は家に帰ったらどうされるか解らず不安で夜も眠れないほどだった。それからは父親も母親も、オルガンに口枷代わりのタオルを噛ませてから煙草を押し付けてくるようになった。
さりげなく着せられる長袖の服にも何も感じないぐらいに、オルガンは疲れていた。家族だとか家庭だとかそういうものに、疲れていた。
だから彼女はゾンビにならなければならない。死に損ないの武器になってしまわなければならない。白も黒もない灰色の道を選ぶしかない。ゾンビは力が幾分人より強く、その歯は噛み付けば相手をゾンビに出来る。武器としての身体だと考えれば、この上なくその身を差し出すことは合理的だった。
ゾンビ殺しの刀に手を引かれながら、オルガンは思う。
絶対に、ゾンビにならなければと。
※
人質がいれば、と言ったのは誰だったのかは解らないが、やませ牧場のゾンビバラックの人々は頭を寄せ合って夕暮れの中で話し合っていた。牧場主の娘が良いのではないかと言い出したナボコフにとりあえず面を食らわせたドロレスは、しかしその案自体は気に入ったらしい。うまくすればこれからもずっと肉を手に入れることができるわよね、と僅かな希望に縋る彼女や他の大人達に、無謀だ、現実的ではないとドミートリーは思う。
ゾンビとして数十年死に損なっているドミートリーには永遠など解らないし、解りたくもない。ただ生きていたいだけだとドロレスは言うが、その身体はすでに死体だ。死に損なっている。ここにいる人間すべてが、ただ死に損なっている。その中で一人だけ生きたいと希望を持つドロレスは、異常だった。その意見に追随するナボコフもまた、異物だった。そっと腹を撫でさする癖も消えない。
まだ時代が古かったころは、ゾンビに対する偏見も強く、必死で内臓を腹の中に隠したものだった。それでも周囲の眼は煩く、長年連れ添っていた妻にも別れを告げられ、仕えたボスには顔を見せるなとウォッカを掛けられたりした。比較的温和なきらいのある島国に亡命したのは殆ど賭けのようなものだった。しかしこの国はあっさりとそれを認め、簡単にゾンビとしての暮らしの手引きとしてこの牧場を紹介してくれたりもした。以降ずっと、ドミートリーはこの牧場で暮らしている。跡取り娘も生まれる前から知っていたぐらいだ。今の牧場主がまだ、子供だった頃すらも。
しかしこの若い二人によって時代が変わるのなら、それも節理なのだろう。自分達は少し、死に損ないする時間が長すぎた。携帯端末で届いた武器の確認をしながら、ドミートリーはただ思う。
いったいいつから間違ったのだろう。自分も、ゾンビにして欲しいと懇願しに来たナボコフも。
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