第2話

 午後の授業にオルガンがいなかったことに多少の謎を感じながら古いアパートの階段を上っていく咲哉の気配に気づいたのか、鍵を出したところで内側からガチャリと音を立てられる。キィ、と開いたスチール製のドアの内側に、五・六歳と見える少女は、割烹着を付けていた。いやに年季が入っているのはその割烹着を大切な宝物として彼女が持っているせいだろう、昆布出汁の良い香りにくんっと鼻を鳴らしながら、ただいま、と咲哉は告げる。おかえりだのう、と、いやに年寄りくさく返される。実際年寄りなのだ、この少女は――否、この刀は。


 青森県は下北郡という映画館の一つもない辺鄙で微妙な田舎の半島には、日本三大霊場と呼ばわれる恐山がある。イタコが観光客をもてなしたり、地方特有の歩きアイスクリーム売りもよくいるその山には、一つの秘宝があった。それが彼女、オソレンジャーと名付けられた宝剣である。抜けば魂散る氷の刃、ただしその効果はゾンビにしかなく、基本的にはお飾りだった。そんな彼女が活躍し始めたのは、日本が高度成長期に入って人が増え、そしてゾンビが増えてからだった。真名を不恐邪。子供にしか扱えないと言う不思議な伝承のあるそれを彼に授けたのは、先代のゾンビ退治屋だった。

 結婚して子供も出来るんだ、笑った青年はまだ十二歳だった咲哉の手には重い鉄ごしらえの鞘を握らせながら、ぽん、と頭を撫でた。これで君は一人じゃない。言われた意味はその時には解らなかったが、まさか抜いた途端に少女の姿に身を変えたのには驚きしかなかった。よろしゅうのう、童。咲哉だ、と訂正したのは、彼が唯一親から与えられた名前だったからだろう。それ以外には何も与えられなかった。交通事故で死んだ両親、身寄りは無く孤児院に身を寄せてきた彼の、たった一つの宝物。オソレンジャーは代々その院で継承されているらしかった。理由は解らないが、その所為で辺鄙な半島暮らしを義務付けられてしまったのは少し難儀だったと思う。

 そうかと頭を撫でてきた少女に、改めてにこりと笑われると自分の心の狭さを感じるようで苦手だった。最初の頃は。


 今となっては食事も世話してくれる、便利な小間使いのようなものだと思っている。キュウリの漬物、トマトとレタスのサラダ、みそ汁は油揚げと豆腐。成長期としては少々物足りないものもあるのだが、そこはお代わりをして何とかしのぐ。ちゃぶ台に二人向き合って何が面白いのかにこにこ笑っているオソレンジャーのかんざしで留められた真っ白な髪を蛍光灯で眩しく思いながら彼女の言葉に咲哉は適当に相槌を打つ。

「今日はのう、童が来よったぞ」

「へえ」

「電気工事とのことでのう、部屋の隅で何やらごそごそやっておった」

「変な料金取られてないだろうな。お前が使っていいのは毎日渡す千円までだぞ」

「そう言えば何も言われんかったのう」

「……何か盗まれたものは?」

「ない。わしを誰と思っておる」

「幼女」

「そんな歳ではないわい、まったく咲哉はいつもわしを子ども扱いするのう」

「見た目は事実子供だろうよ」

 怪しい詐欺に引っかかりかけたのも一度や二度ではない。大体大概の人間を『童』と呼ばうこの少女にとって、その括りは大きすぎるのだ。男か女か、ぐらいは覚えていても、年齢の事はほぼ大雑把だ。きょろりと部屋を見渡し、まあ何もない1Kだしな、と思っていた所で今は珍しくなってしまった家の据え置き電話が音を立てる。プルルルル。

 その番号を知っているのは県内ではほぼ数人だろう。はい、と出れば、いやあ、と嬉しそうなテナーの男声が耳に入りんで来る。

 県知事だった。

「明日の休みは何か予定はあるかな? 咲哉君」

「……いいえ、残念ながら」

「それは良かった。是非君にお願いしたい事件が起こってねえ」

「はあ」

「やませ牧場の位置はわかるかね?」

「バスで通ります」

「そこのゾンビバラックでどうも不穏な騒ぎが起きているらしくてね。調査或いは掃討を頼みたい」

「はあ」

「今日が金曜日で良かったねえ、君も無遅刻無欠席を投げ捨てたくはないだろう?」

「いえ別に」

「行ってくれるかな?」

「はあ」

「それじゃあ、頼んだよ。オソレンジャー君」

 通話が切れる。

「明日か?」

 オソレンジャーが米をぺたぺたと茶碗によそいながら、無邪気っぽく訊ねてくる。

「ああ」

 言葉少なに返した咲哉は、そう言えば、と昼の出来事を思い出す。

「ゾンビ志願の子に会ったよ。今日」

「なったら殺そうのう」

 けらけら笑っている少女は、ゾンビに対する容赦を一切持っていなかった。

「ま、孤児院も税金で賄ってもらってる訳だしね……出たら殺す、ぐらいは言っとかないといけないか……」

 しかし咲哉は知らなかった。彼がオソレンジャーの後継者に選ばれたのが知事の好みの顔だった所為だと。そして何か不測の事態になれば尻を掘られようとしていることも。無駄にスキンシップが多く会っている間はずっと尻を触られていても、彼はそれに気付くことのない鈍感だった。

 電話線に取り付けられた盗聴器に気付かない、程度には。



「明日……」

 学校を早退して咲哉の家の電話に盗聴器を仕掛けていたオルガンは、念のためもう一度その言葉を口の中で繰り返した。

 てっきり誰もいないのかと思って通販で仕入れたピッキングツールまで持って行っていたのだが、思いのほか朔望月咲哉は一人暮らしではなかった。妙に老人めいた言葉を使う少女は、オルガンにいやに懐いて、童、童、と呼んできた。それは少し恥ずかしさもあったかもしれないが、人間に対する警戒心と言うのが薄いのか、作業は簡単に終了できた。

 隣の部屋からは両親が怒鳴りあう声。近所からはうるさいとヤジも飛んでる。自分に矛先が向かってこないことを祈りながら、彼女が小ぶりのバッグに詰め込んでいたのはネットで見様見真似に作ったプラスチック爆弾だった。いざと言う時はこれでオソレンジャーを吹き飛ばそうと考えていたが、それもあの懐っこい少女の顔を思い出すと気が引けた。恐らくは彼女こそがオソレンジャー本体で、彼女を壊せば少なくとも東北のゾンビ達にとっての脅威は取り除かれるのだと解っていても――

 それでもどこか、気は、進まなかった。


 家の中はいつも喧騒に満ち、オルガンの腕も幼い頃に押し付けられたタバコの痕で斑になっていた。脚には刺青すら入れられて、親の玩具になっている。プラスチック爆弾や盗聴器はいつか親をどうにかする為に覚えたり購入したりしていた。しかし今はゾンビと言う救いを見付けた。白も黒もない世界を見付けた。

 親が寝静まった後、先回りのためバスのターミナルへと向かう。

 そこにゾンビがいるならば、自分はゾンビにならなくてはならない。



「っ、なんで!」

「ぐぇっ」

「なんでオソレンジャーが今更私達の所に来るのよ、意味わかんない! 私達ずっと言ってたわ、成仏したくないって、なのになのになのに! なんだって今更そんなもんが私達の所にくんのよ!? いやよ、絶対成仏なんかしてやんない! してやんないんだからね!?」

「ドロレス、落ち着いて、落ち着きなさい! ナボコフ君、大丈夫かい?」

「は、い……」

「っ!」

「げぇッ」

「ドロレス!」

「ちょっと牧場を襲って生肉食って、この世にいたいだけなのに! 死に損なっていたいだけなのに! どうして!? ドミートリ―おじさん、どうして私は生きることも死に損なう事も許されないの!? どうして!?」


 天然パーマが綺麗に巻き毛になっている少女、坂巻ドロレスはその髪を振り乱してわあわあと泣き始める。思春期特有の情緒不安定さに、佐藤ドミートリーはただその背を撫でてやるだけだった。竹刀を離さないドロレスは、生前は剣道少女だったのだという。一生懸命に打ち込んでいるところが好きだったんだ、いつか恥ずかしそうに言ったのは、ドロレスに竹刀で何度も殴られている少年、土倉ナボコフだった。中学生のナリをしているが、彼女たちはゾンビになって何年か経っているので、本来は高校に行っている時期だろう。それをドロレスから奪ったのは、ナボコフだった。学校の帰り道、待ち伏せて噛み付いてそのまま。そのまま、ドロレスは家族に捨てられた。ナボコフの方は元々失踪するつもりでいたので問題はなかったが、地方のゾンビ団体として二人を保護した時には、ナボコフはすでに殴られることに慣れていた。否、もしかしたらそうして彼女の視界に入ることが快感だったのかもしれない。

 何も知らないただの同級生でいるぐらいなら、殴られても打たれても。その思いもまた思春期的な動機で、それに同情できるものはドロレス達の中には少なかった。


 生肉を食うため消化が遅い内臓は、時々取り出して洗わなければならない。腹圧で取り出した内臓が上手く身体に入らない場合、腹は少し出っ張ることがある。それはゾンビの証ともいうべき特徴だ。それも少女のメンタリティを持つドロレスには苦痛だろう。無数の女性ゾンビ達がドロレスを宥め、泣き止まそうとしている。ドミートリーに身体を起こされたナボコフがそこに近付こうとすると、容赦のない面がナボコフの頭に入れられた。よせば良いのに、やめれば良いのに、誰もがそう思いながらもナボコフの行動は止まらない。胴。面。容赦のないドロレスの攻撃は、それでもゾンビの身体にはそれほど堪えない。それは幸運なのか、不幸なのか。


 ドミートリーは携帯端末を取り出して、武器の輸送状況を調べる。元々ロシアンマフィアだった彼は、幹部にやっかまれてゾンビにされた。それももう何十年も前の話だったが、いまだに彼の『得意先』は消えていない。銃にナイフ、機関銃。果たして間に合うだろうか、この少女達のために。このゾンビバラックには子供は彼らしかいない。せめて二人を逃がす、その糧になれればいいとドミートリーは思考する。

 それが彼らにとって禍福どちらにしても。

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