第1話

 季節風か貿易風か偏西風かサンタナか、近代になって公害のように降り注ぐようになったゾンビパウダーでゾンビ化してしまう人々が年に数十名いる世界。日本人は絶望的でも刹那的でもなかったので、大人しく役所にゾンビ証明書を発行してもらったり、他国に比べると比較的温厚にひっそりと暮らしていた。例えば牧場の隅にバラックを建て、労働の対価に廃牛などを貰って肉を食う。ゾンビとなったら歳をとらない、永遠に今のまま、青春を謳歌できる。生きても死んでもいない中間の夢のような存在になれる。そんな夢を見る少年少女がいない訳でもなかったが、大概は親が労働するゾンビ達を見せに行くことで失望するのだ。労働の義務からは離れられない。例え外見年齢がいくつだろうと、それは徹底していた。働かざる者食うべからず、ならば成長して学校に通い、結婚をして子供でも作りきちんと死ねる安穏とした日々の方がよほどましに見える。

 ゾンビだからとて進学や就職の差別があるということはないが、大概はゾンビパウダーを吸ってしまったりゾンビに噛まれてゾンビ化した者は、家族に煙たがられて引き籠りになるか、自立するかしかないようだった。

 ことこの場所は本州最北端が青森県、田舎というのは何かと古い差別が残っている。仕方がないのだと思いながら日々の糧のため労働にいそしむゾンビ達にとって、後継者不足になりがちな農家に殆ど住み込みで雇われるのはよくある事だった。もちろん後継者として選ばれる事は無いが、安い人出として重宝がられている。

「まあ、win-winって奴だよね……」


 言いながらのそりと机から身体を起こした少年、朔望月咲哉はふと自分を囲む陰に気付く。

 すぐ隣の窓の方を見てみると、涙目になりながら仁王立ちしている男子生徒が一列に並んでいた。


朔望月咲哉さくぼうづきさくや! ゾンビでありながらゾンビと戦う勇ましき我らがクラスメート!君のおかげで俺達は安穏と暮らしていくことができる!」

「はあ……」

「夜行性のゾンビの血を持ちながら無遅刻無欠席を貫くその姿、誰が感動せずにいられようか! せめて日の光を遮ることで、俺達は君の仮の糧であろう!」


 僕はゾンビじゃないし日に当たって灰になりもしない。そんな突っ込みを口に出すことなくため息を吐けば、時間はそろそろ指定の時刻に近づいていた。朝に下駄箱に入れられていた一風古風なラブレター風味のその便箋を、この何か勘違いして感涙しているクラスメート達に知られないよう読むのは大変だった――思い出しながら、少年、朔望月咲哉は立ち上がる。

「僕はちょっと用があるので、休んでて下さい」

 言うと応援団所属の声に張りのある男子生徒は号泣した。こちらを慮ることからしてくれる、君はまさに救世主だ! と言う世紀末的な言葉を後ろに聞いて、長い前髪の隙間から廊下を進めば、ひそひそとした声が聞かずとも聞こえてくる。

「ゾンビ退治屋だ」

「朔望月咲哉」

「この前の角館のゾンビ一斉成仏もあいつがやったんだって」

「人じゃねーけど、ゾンビ殺すってどんな心地なんだろうな」

「自分もゾンビのくせに」

 だから僕はゾンビじゃない、ただローテンションが基本なだけの一中学生だ――はあっと息を吐きながら、やってきたのは裏庭だった。昼休み、午後一時、裏庭でお待ちしています――端的でシンプルなその言葉に、特に心惹かれたという事は無い。何があるのかちょっとだけ気になった、それだけだ。大体ゾンビ退治だって身一つでこなすのではない、相棒である剣、打ち刀があるからできることだ。新入生の頃に上級生にあまり調子にのるなと言われる程度には有名な彼の稼業は、まさに『稼業』である。ビジネスだ、それは。だからそれについて思うことは何もなかった。今までは。


「朔望月君」


 てっきり待っているものかと思ったがその姿は裏庭のどこにもなく、拍子抜けした瞬間に後ろから声を掛けられ、彼は胡乱な調子で振り返った。

 そして食らったのは。

 否食らわされたのは。

 女子生徒の白い、拳だった。


 食らわされるというのは文字通り、その拳は完全に咲哉の口を狙って来ていた。いつも中途半端に半開きなそこに流石に上級生にも奪われたことのない一撃を食らって泡食った彼に対し、女子生徒――楽隠居オルガンは、犬歯で付いた自分の拳の傷を眺め、ふむ、と息を吐く。

「噂通り本当はゾンビじゃないって言うのは、当たりだった訳だね、朔望月君」

「……言いたいことはそれだけか」

「うん?」

 こてん、と首を傾げる少女の顔には見覚えがあった。確かクラスメートだったはず、と思いながら垂れた唾液を手の甲で拭う咲哉は、少女、オルガンを睨む。

「人の口に出会い頭拳突っ込んでおいて、言うことはそれだけか」

 珍しく怒り寄りの低い声は、それでもまだ変声期が完全に終わり切っていない。尋ねられた方のオルガンは、うん、とひとつ頷くだけだった。

「お前――楽隠居」

「うん、楽隠居オルガンちゃんだよ」

「ゾンビになんてなりたくてここに僕を呼び出したのか」

「うん。この学校でゾンビって言う噂があるのは君だけだったからね」

「なってどうする、そんなもん」

「生きる」

「いつまで」

「いつまでも」


 表情を変えないオルガンに、はあっとまた息を重ねて、咲哉はオルガンの横を擦り抜けて裏庭を出ていく。


「ゾンビも楽じゃないよ」

「うん」


 でも、と少女ははにかみながら笑った。


「今よりマシだと思うから」

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