第45話
あの満月の夜から、ヴェラント城内は慌ただしい日々が続いていた。グース率いる近衛騎士団の騎士たちが厳重にフェリシアを警護し、グースは毎日のようにフェリシアの様子を見に来る。フェリシアは魔力を使った疲れがなかなか取れず、ほとんどをベッドの上で過ごしていた。
「フェリシア、本当にすまなかった」
この日も、グースははじめに謝罪の言葉を口にした。
ビートが元王宮魔術師長だったことを知らずにフェリシアの側に置いたことを、兄は自分の責任だと気にしている。フェリシアに近づくために王宮魔術師を辞め、フリードはビートとして王族の教育係になった。そして、その手回しをしたのはフェリシアの母クレア王妃だったという。本当にフェリシアは母に疎まれていたらしい。それでもいつか、フェリシアは母に会いに行きたい。どんなに辛く、悲しい結果が待っているとしても、フェリシアは母を愛している。
「もう、気にしないで。毎日毎日うっとおしいわね」
フェリシアは、わざとグースに冷たく言葉を吐く。しかし、力なくベッドに横たわっているフェリシアに、グースは悲しそうな目を向けるだけだった。
「それで、どうなったの?」
「父上の判断で、クレア王妃は王城を追われることになった。王宮魔術師たちの処遇は保留とのことだが、いずれは僕が指揮を執ることになるかもしれない」
「そう……」
しばし、二人の間に沈黙が流れた。その重い沈黙を破ったのは、フェリシアだった。
「……お兄様にだったら、任せられるわ。魔術師のこと、けっこう勉強していたんでしょう?」
「あ、あぁ……より良い魔術師の在り方を見つけて行こうと思っている」
グースの瞳は真剣に未来を見据えていた。グースならば、きっと見つけてくれるだろう。神話に囚われることなく、
「それで、だな。父上は、今回の件は公表できないとおっしゃっている」
言いにくそうに、グースは口を開いた。
ヘルベルトは、王宮魔術師に絶対の信頼を寄せている国民が今回の件を知れば、きっと混乱する。そうなれば、王族に対する信頼も失われてしまうかもしれない。公表せず、王宮内だけで処理するつもりなのだ。
「国王としての判断でしょう。わたくしはそれでいいわ」
「だが、フェリシアの存在は公表する、と……」
フェリシアは自分の耳を疑った。国民は、王女は死んだと思っている。貴族たちも〈災いの姫〉が死んだ、と思っているから安心して生活できている。それなのに、実は生きていた、だなんてこれこそ国民の混乱を招くことにならないか。
「それについては、わしから話す」
扉を開いて入ってきたのは、がっしりとした身体つきで、お忍び姿だというのに威厳を纏った四十代後半ぐらいの男性だった。金色の髪と短い髭、フェリシアを見つめる紺色の瞳には涙が浮かんでいた。
「……お、父さま?」
声が震えた。初めて見る父だ。思わず、フェリシアは起き上がっていた。
フェリシアの存在など忘れているのだと思っていた。母と同じように嫌っているのだと思っていた。しかし、その瞳を見て感じた。フェリシアは父に愛されている、と。
フェリシアの紡いだその声を聞いて、ヘルベルトはフェリシアに駆け寄り、抱きしめた。
今、フェリシアの身体を抱き締めているのは、国王ではない、ただ一人の娘の父親だった。
「すまなかった、フェリシアのことを忘れたことは一度もない……どれだけお前に会いたかったか……」
「お父様、お父様っ!」
フェリシアは大きな父の身体にしがみつくように腕を回す。もう言葉はいらなかった。
初めて心を通わせた親子は、離れていた時を取り戻すかのように抱擁した。
そして、胸にずっと引っかかっていたことを、フェリシアは恐る恐る父に言う。
「……お父様、どうかお母様のことを責めないで」
「わしがクレアを責められるはずがない。お前を苦しめてしまったのも、クレアの病んだ心を気遣ってやれなかったわしのせいだ……」
「では、どうして母は王城から……?」
「西のクリモールに、自然に囲まれた城がある。クレアにはそこで療養してもらおうと思っている。王城では、クレアの心はいつまでたっても休まらない」
ディラード王国の西にあるクリモールは、緑豊かで穏やかな地だと聞く。後悔と自責の念が、父の瞳には映っていた。ヘルベルトは、こうなった今でもクレアのことを愛している。だから、きっと母は大丈夫だと思えた。フェリシアがギルバートからの愛で救われたように。
「お父様、お母様のことをお願いします」
「フェリシア、本当に優しい娘に育ったのだな」
ヘルベルトは、厳格な国王の顔から、ただ一人の父親の顔になってフェリシアに言った。そして、フェリシアの頭を撫で、微笑んだ。
「フェリシア、お前の部屋はリーデント城に残されている。いつでも帰ってきなさい」
「ありがとうございます。でも、わたくしはまだこのヴェラント城で暮らそうと思います」
「そうか。フェリシアが生きていることは、きっとこの王国の希望に繋がるはずだ。お前はもう何も心配しなくてもいい」
父ヘルベルトはそう言って、部屋を出た。
国王は多忙なのだ。その合間に会いに来てくれたことが嬉しかった。
それに、〈災いの姫〉だといわれたフェリシアのことを”希望”だと言ってくれた。
「フェリシア、大丈夫か?」
泣きすぎて、目が痛かった。しかし、これは嬉し涙だ。心配そうなグースに、フェリシアはにっこりと笑い返す。
「お兄様も、やることがたくさんあるのでしょう? お父様と一緒に王城に戻って」
「……ずっと、話せていなかったことがある」
いつも、グースは帰り際に何か言いたそうな顔をしていた。ようやく今日、話してくれるらしい。フェリシアは兄の話をじっと待った。
「え、と……ギルバートのことなんだがな」
話の内容は予想通りだった。
数日前、フェリシアではなくギルバートにグースは会いに来た。兄とギルバートがどんな関係なのかずっと気になっていたのだ。
「実は、ギルバートはリモーネ王国の第一王子なんだ。リモーネ王国とは、うちの国がリモーネ王国を魔術師の力で救った時からの友好関係だろう? それで、よく式典やら舞踏会やらで一緒になってな。その時一度だけ、その、可愛い妹を自慢したくてギルバートにフェリシアの姿を見せたことがあったんだ……」
兄が妹に内緒で影からその姿を盗み見ていたことにフェリシアは顔を歪めるが、今はそれどころではない情報に意識をとられる。
隣国リモーネのことは、フェリシアも知っている。武力派のサイゼル王国に侵略されかかっていたのを、ディラード王国が魔術師の力で救ったのだ。現国王は三人の王妃を娶っており、たしか第一王子を生んだのはその中でも身分の低かった第三王妃だ。詳しいことは分からないが、第三王妃が病で亡くなり、その後すぐに第一王子は行方不明になったと聞く。その行方不明になった第一王子がギルバートだというのか。
友好国の内情は知っておいた方がいい、と教育係をしていたビートが色々と教えてくれた。フリードのことを思い出すと、まだフェリシアの胸はちくりと痛む。
「第一王子として生まれたギルバートは、母親に過剰な期待をされていたらしい。ギルバートが国王になって自分を守ってくれ、と……それ故に異母弟たちの存在を邪魔に思ったギルバートの母は」
そう言いかけて、グースは口ごもった。その先は、なんとなく想像できる。邪魔に思い、殺そうとしたのだろう。
「ギルバートは、母を捨てることも、異母弟たちを捨てることもできなかった。結果的には病で母が亡くなり、異母弟たちを城に残したままディラード王国に来て魔術師になった。その理由は、フェリシアなんだそうだ。そのあたりのことははぐらかされてしまったが……」
「もういいわ、理由なんて。今、この城にギルバートがいてくれるだけで」
「くぅ……本当にフェリシアは可愛すぎるな! 友人の恋を応援してやりたい気持ちと、兄として妹を渡したくない気持ちが複雑に絡まり合って、最終的にはお兄様がフェリシアを嫁にしたくなったぞ!」
「お断りよ! さっさと王城に帰りなさい。仕事が溜まっているんでしょう?」
本当に、仕事が多く残っているのだろう、グースは渋々頷いて素直に部屋を出て行った。
グースが出て行った扉を見つめ、私室に一人になったフェリシアはふうと大きな溜息を吐く。いろんなことがありすぎて、落ち着く暇がなかった。
王宮魔術師の魔術に巻き込まれてしまった使用人たちは、王城の医師に診てもらっているために、今ヴェラント城にはいない。いるのは、グースの騎士たちだけ。
ギルバートの姿は、まだ見ていない。もしかすると、怪我が酷いのだろうか。それとも、フェリシアに会いたくないのだろうか。ギルバートへの恋心を自覚してしまうと、会えないことが不安で堪らない。それに、彼の許可も得ずにその正体と過去のことを聞いてしまったことの罪悪感で胸が痛い。
ベッドに横たわると、コンコン……と控えめなノックが響いた。騎士が止めなかったということは、危険のない人物なのだろう。フェリシアは入るように促した。
そっと私室に入って来たのは、見たことのない少年だった。
身なりもよく、顔かたちも整った美しい少年だ。真っ直ぐな金色の髪やすっと通った鼻筋は、なんとなくフェリシアに似ている気がした。
「あなたは、誰?」
「……お、お姉さま」
緊張しているのか、少年の足は震えていた。せっかく室内に足を踏み入れたのに、また扉の影に隠れてしまう。
(今、わたくしを「お姉さま」と呼んだ?)
フェリシアはまだ力の入らない身体に喝を入れて起き上がり、少年に近づいた。
「ねぇ、そんなに怖がらないで。こっちにいらっしゃい」
優しく微笑むと、少年は純粋なその瞳でフェリシアをじっと見つめた。安心させるように大丈夫、と声をかけると、ようやくほっとしたように笑顔を見せた。
「ルーフェルなの?」
「はいっ! 僕、ずっとお姉さまに会いたかったんです!」
フェリシアの実の弟、第二王子ルーフェル。クレアに育てられたルーフェルは、フェリシアのことを知らないのだと思っていた。知っていても、きっと嫌われているだろう、と。
しかし、その紫の瞳には純粋に姉を想う気持ちがあるだけだった。ルーフェルからの親愛と憧れがフェリシアにはくすぐったい。
「わたくしも、あなたが生まれたと聞いてからずっと会ってみたかったわ」
フェリシアを愛することのなかったクレアに愛されて育つ弟のことを妬む気持ちはあった。それでも、自分が姉になったことは嬉しかったし、会ってみたいと思っていた。
突然のことで驚いたが、フェリシアは可愛い弟を一目見て大好きになった。兄がフェリシアを可愛がりたい気持ちが今はじめて理解できた気がする。
「お母さまがね、お城からいなくなって、僕……どうすればいいのか分からない」
幼いながらに、悩んでいる。側にいた母親が急にいなくなって、不安になっている。ここは姉としてルーフェルを安心させてあげたい。
「大丈夫、わたくしがいるわ。ルーフェルが寂しい時や辛い時、わたくしのことを思い出して。わたくしはあなたの側にずっといるから」
弟の小さな身体を抱き締めると、その手はぎゅっとフェリシアの背に手を回す。急に環境が変わって、きっと心細かったのだろう。わんわんとルーフェルは涙を流した。
「あなたはわたくしの大切な、大切な弟よ」
フェリシアは、宥めるようにその背をさすった。
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