第45話

「本当に、いいのですか……?」

 と、まだフェリシアがいることに納得しきれていないギルバートが、これから魔術陣をどうするかについて説明する。

 この魔術陣に流れる魔力を外に放出してしまえば、禁術である〈神降ろし〉の術式は力を失う。しかし、それでは魔術陣から出た魔力によってヴェラント城だけでなくこの城周辺の地にも被害が及んでしまう。だから、それを防ぐために月の魔力を利用するのだそうだ。

「月の魔力が降り注ぐ瞬間に魔術陣の魔力を放出できれば、おそらく魔力は相殺され、被害は最小限に済むでしょう」

「ということは、月の魔力が注がれる場所と魔力放出の場所が同じでなければいけないのね」

「えぇ、その場所はおおよその見当はついているのですが、実際には魔力の流れを確かめなければいけません」

 魔術陣のことはよく分からないが、フェリシアは魔力を感じることはできる。何といっても、フェリシアの魔力が組み込まれているのだから、ギルバートの役に立てるはずだ。

「わたくしが魔力の流れを確かめるわ」

 ギルバートの返事も待たず、フェリシアは魔術陣に意識を集中する。浮かび上がった魔術陣に触れると、自分と同じ力の波動を感じた。どくどくと血液のように魔力は魔術陣を巡っていた。これが、十年で蓄積されていたヴェラント城の、フェリシアの魔力。

「魔力の流れは見えたけれど、たくさんあり過ぎて分からないわ」

 フェリシアは魔力の流れを追うことだけで精一杯だった。

「鍵を握るのは、十年前と今日この日の魔力です。流れが速いものは新しく、遅いものは古いはずです」

 フェリシアは頷いて、ギルバートに言われた通り魔力の流れる速さを見極める。蛇のようにうねる魔力の流れを追うのは、そう簡単にできるものではなかった。ぐるぐると歪み、どの円がどの流れに沿っていたのかが分からなくなる。ゴールのない迷路のようだった。めまいを覚えながらも、フェリシアは魔力を辿る。流れの速い魔力の筋は見つけることができた。しかし、遅いものはあまりにも多く、流れる速さがまちまちで、判断が難しい。それでも、ようやく絞り込めた。

「これが十年前、そしてこれが今日のものだわ」

 フェリシアは文字のような模様を指し、次に円の淵に描かれた細い線を指した。

「夜の神ネリスの名を最初に刻んだのか……」

「少しは役に立った、かしら?」

 魔力を半分以上奪われた上に、魔術陣の魔力の流れを追ったことで身体的にも精神的にも限界がきていた。

 しかし、このまま意識を手放してはフェリシアの身体に残る魔力が暴走する可能性もある。ふらふらのフェリシアの身体をギルバートの腕が支えた。

「ありがとうございます、フェリシア様。あとは私に任せてください」

 そう言って、ギルバートはフェリシアをゆっくりと地面に座らせた。疲れ切ったフェリシアは、ぼんやりとギルバートを見つめることしかできない。

 ギルバートは魔術陣の端まで歩き、フェリシアが示した円の淵に長剣を突き立てた。


『夜の神ネリスよ、その力を我に』


 その瞬間、満月からは凄まじい勢いで光が降り注ぎ、魔術陣からは薔薇の魔力が逆流し、ギルバートの持つ長剣にどんどん吸い込まれていく。しかしその魔力の勢いは生易しいものではなく、ギルバートのマントは吹き飛び、その身体には見えないナイフで切り刻まれたようにあちこち血が滲んでいた。しかし、ギルバートは顔色を変えずにただじっと魔術陣を見つめている。


(ギルバートは、月の魔力とこの魔術陣の魔力をすべてその身で受けるつもりなの?)

 頭に浮かんだその考えに、フェリシアはぞっとした。ギルバートは、フェリシアを魔術陣の影響から解放するために自分の身体を犠牲にするつもりだ。普通ならあり得ない。〈災いの姫〉を守るために身を捧げるなど。

 月の魔力と薔薇の魔力はギルバートの身体を通して相殺される。そうなれば、ギルバートが無事なはずがない。

「ギル! やめなさいっ! あなたの命が危ないわ」

 フェリシアの声が聞こえていないはずがないのに、ギルバートは振り返らない。

 それどころか、彼の持つ長剣はますます地面に深く突き刺さっていく。

「わたくしの命令に背くなんて、許さないっ!」

 フェリシアの身体はもう動くことを拒否していたが、精神力のみでギルバートへ近づく。

 そして、そのボロボロの身体を後ろから抱き締めた。フェリシアのドレスも、皮膚も、嵐のような魔力の勢いのせいであっという間に傷だらけになる。しかし、そんなことどうでもよかった。

「わたくしは、愛の神の血を引く王女よ。愛する者を犠牲になどしないわ」

 思わず出た言葉に、自分でも驚く。そして、否定ばかりしていた心がようやく認める気になった。


 ――わたくしは、ギルバートのことを愛している。

 その愛情がどんなものなのか、まだフェリシアには深く理解することはできない。それでも、確かに愛している。失いたくない。傷ついてほしくない、もう一度笑いかけて欲しい。愛していると抱きしめてほしい。

 そう自覚した途端、フェリシアの内には奪われていたはずの魔力が溢れてくる。

「フェリシア、あなたに傷ついてほしくない」

「馬鹿なこと言わないで。わたくしは、わたくしのためにギルを助けるのよ。傷つくはずがないわ」

 にっこりと笑いながら言うと、ギルバートは身体をくるりと反転させてフェリシアを抱きしめた。そして、二人で長剣の柄に手をのせて二つの魔力を受け止める。

 フェリシアには、もう何も恐れるものはなかった。フェリシアの心には愛が溢れている。たくさんの大切な人がいる。守りたい人がいる。これからも、一緒に笑いたい人がいる。だから、フェリシアはにっこりと笑みを浮かべた。


「わたくしは、この世界を愛している」


 心から、そう思った。

 その瞬間、フェリシアを中心として薔薇が咲き、周囲へと広がった。王宮魔術師に刈られていた薔薇も、命を吹き返す。

 赤や黄色、ピンク、白、オレンジなど様々な種類の薔薇が咲いた。明るい満月の下、ふわりと舞い上がる色とりどりの花びらに、その中心で微笑むフェリシアに、誰もが心を奪われた。

 美しい薔薇の姫を、満月が優しく包み込んでいた。その足元には、うっとりと薔薇姫を見つめる一人の男が跪いている。


「さすがはフェリシア様だ。魔術陣崩壊の反動をすべて薔薇に変えてしまうとは……」

 きらきらと目を輝かせて微笑むギルバートに、フェリシアは当然よ、と腕を組む。

「……ギルがいてくれたからよ」

 ぼそぼそと小さなフェリシアの呟きは、ギルバートの耳に届いただろうか。

 改めて自分が咲かせた薔薇たちを見回し、周辺に被害がないかを確かめる。

 すると、街へ行っていたはずのグースがちらちらと門からこちらを伺っているのが見えた。

 そして、その後ろには目を覚ましたフリードが近衛騎士に縛られた状態で立っていた。フリードの瞳には、絶望の闇が浮かんでいた。

「お兄様、フリードを……」

 グースに頼んで、フェリシアはフリードを解放してもらう。

 彼には、もう逃げる気力もないようだった。縄を解かれた途端、地面に膝をつき、フェリシアが咲かせた薔薇を食い入るように見つめている。

 フェリシアの教育係ビートであり、フェリシアを〈災いの姫〉とした王宮魔術師長フリード。

「フリード、わたくしはあなたのことも愛しているわ」

 そっと、フェリシアはフリードに近づいてその頬に触れた。何も言えずにいるフリードの薄青の瞳からは、一滴の涙がこぼれた。震える彼の身体をフェリシアは優しく抱きしめた。

 どうか、神だけではなく人の愛も信じられるように。

 フェリシアが苦しんでいたように、きっとフリードも苦しんでいたのだろう。ただ、フェリシアと違ってその苦しみを分かち合う人がいなかった。誰とも分かち合おうとしなかった。彼は現実に側にいて支えてくれる人間ではなく、実体のない絶対的な愛の神を心の支えにしていたから。少し目を開けば、側には愛があったかもしれないのに。

 きっとフリードは世界平和や権力のため、といった大きなものではなく、ただ愛されたかっただけなのだ。フェリシアはフリードの事情なんて何一つ分からないけれど、彼も少し前までのフェリシアと同じように愛に飢えているのだということは感じた。

「フェリシア様、私はまだ諦めていません……」

「いいえ、あなたはもう分かっているはずよ」

 誰からも愛されない人間などいないのだ、ということを。忌み嫌われる存在として〈災いの姫〉を生み出したのに、フェリシアは孤独ではなかった。側にいる人間は確かに少なかったかもしれない。それでも、愛されていた。人は誰かに愛されている。愛されているから生きていけるのだ。

 その誰かに気付くことができるかはその人の心次第だろう。

「人は愛されているから笑える、そう思わない? この城にいる時、あなたは確かに笑っていたわ。愛の神リアトルを信仰しているあなたが気付かないはずがないわよね」

 だから、フェリシアの言葉に無意識に涙がこぼれたのだろう。

「しかし、私はあなたの人生を……」

「もういいわ。この魔力は〈災いの姫〉といわれるだけのものよ。それに、きっと普通の王女として生きていては得られないものをわたくしは手に入れたから」

 フリードは長年準備してきた魔術が失敗したことで、絶望に浸っていた。そして、責められたがっていた。しかし、フェリシアはフリードに怒りをぶつけることも責めることもしなかった。それは、今この自分を否定することになるから。

「あなたは、もしやリアトル様の生まれ変わりなのか……」

 信じられないものを見るような目で、フリードは言葉を紡いだ。

「いいえ、わたくしはディラード王国第一王女フェリシア・シェルメゾーレよ。神の生まれ変わりなどではない、ただの十七歳の小娘だわ」

 フェリシアがそう言うと、少しだけフリードの表情が緩んだ気がした。

 彼にフェリシアの想いは届いただろうか。フリードが抱えるものを、フェリシアが簡単に理解できるとは思わない。それに、フェリシアを利用しようとしたフリードのことをすぐに許すことはできない。フリードにも、フェリシアにも時間が必要だろう。

 しかし、少しでもフェリシアの存在がフリードにとっての救いとなってくれればいい。

 そう思って、フェリシアはフリードに笑いかけた。

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