第43話

 月の魔力によって、フェリシアの身体は魔術陣の一部となった。大きな底知れない力が、フェリシアの身体を支配しようとする。これが、夜の神ネリスの力なのか、とぼんやり思う。抵抗することが無意味なのではないか、とさえ思えた。ここでフェリシアが助かって、誰が喜ぶのだろう。

 誰が、フェリシアをこの世界に必要としてくれるのだろう。

 魔術陣に身を任せれば、何も聞こえないし、何も感じない。

 ずっと気を張っていたフェリシアにとってはあまりにも心地よかった。


「フェリシア様ぁぁぁあああっ!」


 意識が何かに引き止められた。真っ直ぐにフェリシアの胸に響いたその声は、聞き覚えがある。その声に呼応するように心臓が早鐘を打つ。それなのに、魔術陣に呑みこまれているフェリシアには、その声を思い出せない。思い出そうとして、思考を停止していた頭が少しずつ動き始める。まだ頭が混乱しているフェリシアに、その声はどんどん言葉を投げかけてきた。

「魔術師が大嫌いって嘘だったのか! 大人しく言うこと聞くなんてフェリシアらしくない! 俺以外の男に弱いとこなんて見せるな!」

 人が反論できないことをいいことに、好き勝手言ってくれる。そういえば、フェリシアも言いたいことがあった気がする。

 それは、誰に向けてだっただろうか。


「フェリシア、愛しているから! どうか俺のところに戻ってきてくれ」


 その一言で、フェリシアの意識は完全に覚醒した。

 そして、フェリシアはしっかりと目を見開いてギルバートへの想いをぶつけた。

「馬鹿なこと言わないで! あなたがわたくしの所へ戻ってくるのでしょう?」

 ギルバートは、フェリシアの専属魔術師だ。ギルバートは他の誰でもない、フェリシアのものだ。

 フェリシアの言葉を聞いて、ギルバートが嬉しそうに笑う。あまりにも幸せそうに彼が笑うものだから、フェリシアはなんだか恥ずかしくなった。

「お側を離れて申し訳ありませんでした、姫。もう二度と、離れません」

 ギルバートの優しい声、真摯なその空青色の瞳に、フェリシアは何故か涙が出そうになった。そして、ギルバートは躊躇いなく魔術陣の中心にいるフェリシアのもとにに走り寄り、持っていた剣で拘束していたつる薔薇を切った。宝物にでも触れるように、魔力を奪われて力の入らない身体を支えてくれる。その優しくも力強い手に安堵し、フェリシアは思わず頬を緩めた。

「ありがとう……」

 勝手に口から出たその言葉に驚いているのは、フェリシアよりもギルバートの方だった。あまりの衝撃にどう喜んでいいか分からなくなったギルバートと、そんな彼を見て頬を真っ赤に染めるフェリシアだが、ゆっくりと二人で見つめ合える状況ではなかった。


「ギルバート、あなたに何ができますか。助けにきたところで、もう遅い。フェリシア様の身体は器として機能している。逃れられはしない」

 フリードの言葉で、ギルバートの手に力が入る。フェリシアも、自分の魔力がまだ魔術陣と繋がっていることには気づいていた。意識を取り戻せただけでも本当によかった。あのままギルバートが来ていなかったら、フェリシアの自我は消えていただろう。

「そうね、わたくしはこの魔術から逃れられない」

 フェリシアの身体には、まだ黒薔薇の痣が広がっている。自分がリアトルの器となるための印は、消えていないのだ。だからといって、もう諦めるつもりはなかった。フェリシアのことを愛してくれたギルバートのために。

 逃げられないのなら、立ち向かえばいい。フェリシアはギルバートの支えを振りほどき、真っ直ぐに背筋を伸ばして立った。

「だったら、わたくしがこの魔術陣を支配するわ」

 多くの魔力を奪われたとはいえ、奪われた魔力はすべてこの魔術陣に組み込まれている。それに、ヴェラント城の薔薇園はすべてフェリシアの魔力で咲いたもの。

 この魔術陣の魔力をフェリシアが操れないはずがない。

 そう確信し、フェリシアは魔術陣の魔力に手を伸ばす。

 しかし、ギルバートに止められた。

「何故止めるの!?」

 早くこの魔術を消し去りたい、という思いからフェリシアはギルバートに乱暴に問う。

「この魔術は十年かけて複雑に作られています。確かに元はフェリシア様の魔力ですが、それはもうフェリシア様の魔力とは違うものになっています。この魔術陣すべての魔力を操るなど、フェリシア様の身体が耐えられるはずがない!」

 今でさえ、立っているのがやっとでしょう? そう心配そうな瞳に問われ、フェリシアは何も言い返せなくなる。

「だったら、わたくしの魔力で破壊するわ」

「危険だ! フェリシアは何もしないで大人しく守られてくれ」

 ギルバートは本気で焦っているのか、いつもの丁寧な口調を忘れていた。

 耐えられないかどうかは、やってみないと分からないではないか。そう反論したいが、ギルバートは何を言ってもフェリシアを止めるだろう。守られるだけの存在にはなりたくないフェリシアは、他に何か方法がないかと考える。

「何をしようと無駄ですよ。それに、この魔術を破壊しようとして器であるあなたが壊れれば、今まで蓄積していた魔力はすべて外に放出されるでしょう。どうなるか分かりますね?」

 フリードの言葉にフェリシアは拳を握った。許せない。フェリシアだけならば仕方がないと諦めることもできたのに、フェリシアが下手に動けばその魔力は街を襲う。

 もしかすると、その影響はリーデント城まで及ぶかもしれない。

 それでは、本当にフェリシアは〈災いの姫〉になってしまう。このままリアトルの器として大人しくするしか方法はないのだろうか。

「大丈夫、俺が何とかする」

 ギルバートがフェリシアの手をぎゅっと握った。フェリシアがギルバートを見上げると、いつものように太陽のような笑みを向けてくれる。

「……本当に、大丈夫なの?」

「俺はフェリシアのための魔術師だと言っただろう? ようやく、あなたの役に立てる」

 ギルバートは、心からフェリシアの役に立てることを喜んでいるようだった。フェリシアは、自分を守るためではなく、大切な人達のためにギルバートの手を握り返した。

「ギル、お願い。わたくしの大切なものを守って」

「はい、この命に代えても」

 そう言って、握り合ったフェリシアの滑らかな手の甲に、ギルバートは優しく口づける。

 そして、ギルバートは地に手をつけて薔薇の花弁を散らし始めた。すると、ぼんやりと光の線が浮かび上がってくる。それは薔薇園があった地面だけでなく、ヴェラント城の城壁、城門まで続き、不可思議な模様が幾重にも重なり合った曲線を浮かび上がらせた。

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