第40話

 幼い頃は、ビートに勉強を教えてもらっていた。

 覚えの早いフェリシアに困っていたビートの顔を見るのがフェリシアは好きだった。いつも褒めてくれたから。

 もう教えることはないです、と出て行こうとしたビートを引き止めたのはフェリシアだった。趣味が庭いじりなら、薔薇園の手入れをしてくれないか、と。そうすると、ビートは照れくさそうに笑ってくれたのに。

 滅多に笑わない人だった。感情を表に出さない人だった。そんなビートがフェリシアには色々な表情を見せてくれる。それがどれだけ嬉しかったか。

 よく知っているはずのビートが、今ではフェリシアの知らない男の人に見える。


「ビートでしょう? 王宮魔術師だなんて、そんなの嘘よね?」

 フェリシアの声は震えていた。

「いいえ、フェリシア様。私の本名はフリードですよ。主役が何も分からない状態ではいけませんね。私がすべてを説明しましょう」

 そう言ってビート、いや、フリードは薄く笑いながらフェリシアを見た。いつも後ろで一つにまとめていた銀色の髪はほどかれ、フェリシアに優しかったはずの薄青の瞳は氷のように冷たかった。知らない男が、そこにいた。

「私は、愛の神であるリアトル様に少しでも近づきたくて魔術師を目指しました。そして、その思いにリアトル様が応えてくださった。私は魔力を感じることができた。だから、最年少の十八歳で王宮魔術師長に任命されたのです」

 フェリシアはその事実に驚愕した。今のフェリシアとそう歳の変わらない青年が王宮魔術師の頂点に立っていたなど、信じられない。

「そして、私が二十歳の時にあなたが生まれた。運命だと思いました」

 魔力を感じることができる、というフリードはフェリシアの存在を知った時、その魔力の強さに感動を覚えたという。その魔力は、フリードが長年求めていたリアトルのものだった。

 そして、フェリシアの魔力があれば禁術である〈神かみ降おろし〉も成功するかもしれない、と思ったのだ。


「私は、リアトル様の血を引く王族に仕えたいと思ったことはありませんでした。私が仕えたかったのはリアトル様であり、その子孫ではないのです。今までの歴史の中で、戦争をしなかった時代がどれだけあるでしょう。人はリアトル様の愛の教えに背いている。リアトル様ならば、この醜い世界を絶対的な愛と平和で正してくれる。そうは思いませんか?」

 真剣なフリードの眼差しに、フェリシアは吐き気がした。彼は本気でそう信じているのだ。そして、彼につき従う王宮魔術師たちも。

「愛の神だなんだって言われているけれど、リアトルだって結局は一人の人間の男を愛して神の立場を捨てた一人の女に過ぎないでしょう」

 自分の身体が遠い先祖のリアトルを復活させるための〈神降ろし〉の道具として利用されようとしていることに、フェリシアは馬鹿らしくなった。フリードの求める絶対的な愛と平和が悪いものだとは思わない。

 しかし、その理想のために巻き込まれた人間を無視していいはずがない。フェリシアは、縛られてボロボロになっている使用人たちを見る。フェリシアだけならば我慢できた。しかしフリードは関係のない人間までもを巻き込んだ。

「リアトル様に対する侮辱は許さない!」

 近くで控えていた王宮魔術師長キルテットが叫んだ。この男も、リアトルの妄信者なのだ。ここに集まっている王宮魔術師たちはみな、リアトルによる愛と平和の世界を求めている。

「フェリシア様、ではあなたはリアトル様を求めていないと? 愛されたいのではないですか?」

 フリードは少しずつフェリシアとの距離を詰めてくる。

「あなたのお母様はあなたを愛してはいない。〈災いの姫〉だと分かった時点で殺していればよかったのだと我々を責め立てました。しかし、そんなあなたもようやく王国の役に立てるのですよ。あなたの中に流れるその血、リアトル様の血と魔力によってこの国は真の愛と平和を手にするのです。リアトル様のためにその身体を我々に捧げなさい」

 自分の正義を確信しているフリードは、その薄青色の瞳をきらめかせて力強く語った。何故フェリシアにはこの理想の素晴らしさが分からないのか、とでもいうように。フェリシアは魔力を奪われながらも、フリードを厳しく睨みつける。

「愛されていないことを嘆くのはもうやめたの。わたくしも、ずっと確かなものを求めていた。でも気付いたの。相手に求めるのではなく、自分が信じることが大切だって。きっと、愛って誰かから与えられたりするものではなく、自分自身から生まれてくるものなのよ」

 誰かを大切に想う優しい気持ち。それだけで、強くなれる。

 ギルバートがフェリシアの心に寄り添ってくれたように、フェリシアもその想いを返したい。

「人間の心は変わっていく。だから、人はすぐに裏切ります。信じて傷つけられるぐらいなら、感情など持たない方がいいではありませんか」

 フリードは淡々とそう言った。

 王宮魔術師たちが感情を捨てたのは、人を信じることを諦めていたから? リアトルに心を捧げるために、ずっと自分の感情を殺してきたというのか。そんなの悲し過ぎる。

「リアトルなら、あなたの想いを裏切らないと? リアトルなら、あなたのすべてを受け入れてくれると? 何十年もこの世界に生きてきて、あなたは何を見て生きてきたの⁉」

 フェリシアは、怒りを覚えるというよりも言葉が通じないことが悲しかった。リアトルという光がフリードの目を塞いでいる。リアトルという神を信じることは悪くない。しかし、神だけを信じるその様はあまりに滑稽で、もろく思えた。

「確かなものがないから人は信じようとするんでしょう? 誰かに裏切られても、酷いことをされても、その痛みはいつかきっと誰かへの優しさに変わる。そう信じることで、愛はうまれる。心の傷は、人でしか癒せない。愛する心に、人は救われるのよ……!」

 フェリシアの想いがフリードに届いてほしかった。裏切られても、フェリシアは彼を嫌いになれなない。騙されていたと知っても、憎むことができない。今まで過ごしてきた日々すべてが嘘だったとは思えないから。

 神を求めなくても、人間も強く優しく生きていけるのだと信じてほしい。フェリシアも今までずっと自分の運命を呪ってきた。

 それでも、すべてが闇に染まっていた訳ではない。楽しいこと、幸せなこと、笑ったこと、たくさんあった。消したい時間なんてひとつもない。辛い現実も、悲しい出来事も、すべてが大切な宝物。辛く苦しく耐えてきた過去があるから信じる強さを得た現在いまがある。フェリシアは祈るような気持ちでフリードを見ていた。

 しかし、フリードは馬鹿にしたように笑っただけだった。


「あなたは何も分かっていない。人を信じるから裏切られるんだ! リアトル様ならば、絶対にこの国を愛に満ちた平和な国にしてくれる!」

 フリードには届かない、何も。フェリシアは自分が発した言葉の虚しさに、言葉を失う。どうすればいいのか、フェリシアが空を見上げると、そこには薄っすらと満月が浮かんでいた。

 もうすぐ、夜がくる。嫌な予感がした。

 フリードとキルテット、王宮魔術師たちが慌ただしく動き出す。何かの準備をしているようだ。

 その様子を見ていたフェリシアの意識が徐々に魔術に引き込まれていく。

 心が引き裂かれ、頭が割れそうだ。気持ち悪い。何も感じないように目を閉じてみる。闇だ。恐ろしい孤独の闇。ここはどこだっただろう。自分は誰だっただろう。何をそんなに悲しんでいたのだろう。もう、難しいことを考えるのはやめよう。このまま流れに身を任せ、苦しむ自我を手放してしまおう……と、フェリシアが諦めようとした時、ふいにギルバートの顔が浮かんだ。

 彼が来るはずもないのに、まだ自分は彼を待っている。フェリシアは、ギルバートに何も伝えていない。ギルバートは多くのものをフェリシアにくれたのに。フェリシアに会いに来た理由も、いなくなった理由も、すべてが謎のままなんて嫌だった。

 もう一度、ギルバートに会いたい。

 その想いが、フェリシアの意識を強く引き止めた。


「フェリシア様っ!」


 耳に飛び込んできたその声は、はじめフェリシアの願望が聞かせた幻聴かと思った。しかし、なおもギルバートの声はフェリシアの声を呼び続けている。

 フェリシアは周囲を見回し、ギルバートを探す。

 彼はザック、ミリア、ロッカスの拘束を解き、王宮魔術師に長剣を構えて向き合っていた。そして、ザックも背中合わせに剣を構えている。

「ビートが怪しいとは思っていたが、まさか〈災いの姫〉を作り出した元王宮魔術師長だったとは驚きだな。私の姫を返してもらおうか!」

 いつフェリシアがギルバートのものになったのだ、と思いながらもギルバートから目が離せない。ギルバートが戻って来てくれた、それだけでフェリシアの胸がいっぱいになる。

 ギルバートの登場により、冷静さを取り戻したフェリシアは、自らの魔力を制御するために意識をつる薔薇に集中する。つる薔薇を通して、どんどん魔力が魔術陣に流れて行くのが分かる。その流れを、止める。奪われた魔力を取り戻す。フェリシアは魔力の流れを掴み、自らに引き寄せた。

 その瞬間、つる薔薇は急激な魔力の流れに耐え切れず、千切れた。フェリシアの身体の拘束は完全に解かれた。しかし、魔力を意識的に使ったことなど初めてで、フェリシアの身体はその反動でしびれて動けない。

(ギルたちは、大丈夫かしら……)

 フェリシアは、視線をギルバートたちの方へ向ける。そこでは、数で勝る王宮魔術師相手に、ギルバートが一人立ち向かっていた。

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