第37話

――あなたを守る薔薇に私もなりたい……。


 夢から覚めて最初に思い浮かんだのは、やはりフェリシアに対して馬鹿げた言葉をかけ続けたギルバートの顔だった。言っていることは冗談のようなのに、その表情や声音は真剣そのもので、フェリシアを戸惑わせた。

 〈災いの姫〉を守りたいなどと、なんて愚かな男だろうか。いや、愚かなのはフェリシアの方だったのかもしれない。素性の分からない魔術師の言葉を信じ、勝手に心の支えにしていたのだから。

 きっと、初めから騙されていたのだ。

 だから今、ギルバートはここにいない。

 フェリシアの心に優しいぬくもりを残して、あっという間に消えてしまった。今はその心強かったはずのぬくもりがフェリシアの心を弱くする。


「出会わなければよかったわ」

 フェリシアはそう呟いて、目を開く。窓を見ると、外にはうっすらと朝日の光が広がり始めていた。まだ起きるには早い時間だ。しかし、フェリシアは身体を起こす。もう眠れそうになかった。

「わたくしには時間がない……」

 ぐだぐだと答えの出ない問題を考えている余裕はない。無駄な時間は過ごしたくなかった。自分の腕を見ると、もう手首まで黒い痣が広がっていた。全身に痣が広がるのも時間の問題だ。その時、きっとフェリシアはフェリシアではなくなっている。そんな予感がした。この痣を初めて見た時から、いや、〈災いの姫〉であることを自覚した時から覚悟はしていたはずだった。

 それでも、やはり怖い。フェリシアの命が誰にも望まれていないとしても、自分で自分を捨てることだけはしたくなかった。感情は殺せても、自分自身を殺すことはできなかった。

 フェリシアには、ディラード王国第一王女である、という誇りがあった。たとえ〈災いの姫〉だとしても、自分の身体には王家の血が流れている。そして、王家の責任は国民を守ること。王家が国民を危険に晒してはならない。だから、国に災いをもたらす〈災いの姫〉であるフェリシアは幽閉されなければならない。これは、王家の人間としての責任であり、義務なのだ。そう思ってきたからこそ、フェリシアは大人しくヴェラント城で過ごすことができた。

 しかし、自分の身体に広がる黒い醜い痣について受け入れることはできなかった。何故なら痣は王家の意志とも国民の利益とも関係なく、王宮魔術師の意図するものだと知っているからだ。もし王家が関わっていたのなら、グースがしきりに痣のことを心配するだろうし、事前にそういう話もあるはずだ。しかし、この痣のことについてグースは何も知らなかったし、王宮魔術師からも何の説明もされなかった。

 フェリシアの身体は知らないうちに王宮魔術師の手に渡っていたのだ。彼らに何を言っても無駄だということは幼い頃から理解していた。王宮魔術師はフェリシアの話など聞こうともしないのだ。話し合いどころか脅しをかけたとしても、彼らのフェリシアに対する態度は変わらないだろう。

 何度、王宮魔術師たちに怒りをぶつけ、呪いの言葉を吐こうと思ったか知れない。〈災いの姫〉だというのなら、本当に災いを起こして困らせてやりたい。そう自棄になって王宮魔術師に反撃しようと思ったこともある。

 しかし、できなかった。ミリアやザック、ビート、ロッカス、みんなに怖がられたくなかったから。力が暴走して止められなくなって、みんなを傷つけるのが怖かった。

 溜まっていく王宮魔術師に対する不満や苛立ち、怒りや憎しみ、そのすべては美しい薔薇へと昇華させた。醜い感情を抱えたまま、みんなに笑いかけることはできなかったから。フェリシアを守ってくれる薔薇は、その感情すべてを受け止めてくれた。それでいて、フェリシアを励ますように美しい花を咲かせてくれた。

 心の中で毒づくことを覚えてからは、薔薇に頼ることも減った。それに、兄に感情をぶつけることもできるようになったから。

 誰も傷つけることなく王宮魔術師に対抗する術を探していたフェリシアにとって、ギルバートは最後の希望だった。

 それなのに……――。

(どうしてわたくしの前から姿を消したの……?)

 嫌いになった? ――あんなに求めてくれたのに。

 怖くなった? ――優しく抱きしめてくれたのに。

 同情だった? ――弱い心を受け止めてくれたのに。

 ギルバートは、フェリシアの心をかき乱しては甘く優しい棘を埋め込んでいった。その棘は抜こうとするほどに深く刺さり、フェリシアの心をギルバートでいっぱいにする。そうしてフェリシアの心を開いたくせに、信じさせたくせに、勝手にいなくなった。

 ずるい。許せない。

 だって、頭に浮かんでくるのはギルバートの笑顔ばかり。忘れたいのに、消したいのに、ギルバートの優しさが、言葉が、あたたかさが、眼差しが、想いが、心から離れない。抜けない棘の始末に困る。これはもう毒だ、病だ。自分自身ではどうにもならない。こんな気持ちは初めてだった。

 しかし、フェリシアの側にはもう誰もいない。

 昨夜、フェリシアは感情のままに力を暴走させてしまった。守りたかった大切な人達を傷つけてしまった。だから、フェリシアは自分の部屋に誰も入って来られないように茨の壁をつくりあげた。小さな棘から大きな棘、様々な大きさの棘を持つ蔦が絡み合い、一階からフェリシアの部屋の扉までを埋め尽くしている。その棘はナイフのように鋭く、フェリシアにとっては無害でも、普通の人間が触れれば血を流してしまうだろう。

 この茨を越えてフェリシアの部屋まで無事辿り着くのは不可能だ。魔術師ならともかく、ミリアやザック、ビート、ロッカスがここまで来られるとは思わない。

どうせもうすぐ王宮魔術師が来る。そうなれば、この茨の壁も意味を成さないだろう。

 それまでに考えたかった。

 どうすれば自分を強く保ち、王宮魔術師の魔術に対抗できるのか。

 そのためには、今まで避けてきた自分の力について理解する必要があった。災いをもたらす、と言われた呪いの力。それがどんなものなのか、フェリシアは知ることをずっと避けていた。フェリシアが独りぼっちで寂しい思いをするのも、誰にも愛されていないのも、この呪われた力のせいだから。この力がなければ、自分も普通の女の子のように愛に溢れた幸せな生活を送れていたかもしれないから。

 しかし、フェリシアが王宮魔術師の術に抗えるとすれば、この呪われた力しかない。

 大好きなこの国に災いをもたらしたくない。それでも、何も知らないまま自分の身体を差し出すつもりはないし、王宮魔術師の思い通りに事を進めるつもりはなかった。

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