第5章 薔薇姫の愛
第36話
――どうして、どうしてお母様はわたくしを見てくれないの?
(一人で泣いているのは、誰?)
しゃがみ込んで、母親を求めて泣いているのは四、五歳くらいの幼い少女。金色の髪は腰まで伸び、質のいい桃色のドレスを着ている。顔は小さな両手で覆っていて見ることができない。しかし、その少女を遠目で見ているフェリシアはその隠された顔も少女の瞳の色も知っていた。
(この女の子は、わたくしだわ)
幼い頃のフェリシアを十七歳のフェリシアが見つめている。その小さな背中は、自分の置かれた状況をまだ理解していなかった。広く大きな部屋で一人泣き続ける少女の側には、瞳に脅えや拒絶を映した大人達がいた。フェリシアにとって王城にいる大人達は、黒く大きな影であり、闇だった。目の前をすべて黒く覆ってしまう、恐ろしい存在。
どれだけ泣いても、少女に手を差し伸べる者はいない。
(泣いても、何も変わらない。自分の力で生きていかなければならないの)
十七歳のフェリシアは、泣くことの無意味さを実感していた。
しかし、幼い頃にはこうして毎日泣いて過ごしていたこともあったと思い出す。
ただ泣くことしかできなかった弱い自分のことなど、記憶の奥底に封じ込めていた。
いつからだっただろうか、フェリシアが泣かなくなったのは。心を守る術も知らず、無防備だった純粋な心はすぐに傷つきボロボロになる。フェリシアが傷だらけの心を抱えながらも今まで生きてこられたのは、何故だっただろう。
フェリシアの意識がぼんやりと過去に引きずられそうになった時、目の前の場面にも変化が訪れた。
「王妃様! 何故ここへ?」
「あなたたちこそ、どういうつもりですの? こんな王城内に閉じ込めて……」
耳に届いた女性の美しい声に、泣いていた少女は泣き止んだ。顔を覆っていた手をのけて、大きな赤い瞳をきょろきょろと動かす。
幼くても、自分が誰にも望まれていないということは分かっていた。それでも両親だけは自分を愛してくれている、と信じていた。
一度も会いに来ないのは、何か来られない事情があるから。本当は娘のことを心配してくれている。
だから、ずっと泣いていればいつか両親が会いに来てくれるかもしれないと思っていた――〈災いの姫〉を隔離した離宮へと。
そしてこの時、初めて母親が会いに来てくれた。
――やっと、やっと会いにきてくれた‼
きっとここから連れ出してくれるのだ。あまりの嬉しさに、悲しみではない涙がフェリシアの頬を伝う。しかし、自分を生んでくれた母親の前で涙は見せられない。少女は涙をぬぐい、笑顔を浮かべて扉へ向かって走った。
お母様に抱きしめてもらえる、という喜びに瞳を輝かせながら。
しかし、少女が母親の愛情を求めて向かって行った先には、絶望が待っていた……。
「〈災いの姫〉など早く殺してしまいなさい!」
ピタリ、と少女の足は止まった。その言葉が理解できなかった。
先程と変わらない、美し過ぎるその声で、母親は何と言ったのだ。
――お母様……?
王宮魔術師の言う通りに我慢していれば、いつか両親と、兄と、笑って過ごせる日が来るのだと信じてきた。その日を夢見て生きてきたのだ。誰に何と言われようとも、〈災いの姫〉であろうとも、自分は両親や兄に愛されているのだ、と信じていた。
母の言葉に衝撃を受け、固まってしまったフェリシアの目の前で、無情にも扉は開いた。その先にいたのは、会いたくて仕方がなかった、母親のクレア王妃。しかし、今の言葉を聞いた直後では、どうすればいいのか分からない。
ただ、今の言葉は嘘だ、という優しい一言が欲しかった。
救いを求めるようにして、少女は顔を上げ、母親を見つめた。初めて見る母親は、とても冷たい目をしていた。しかし、フェリシアによく似た金色の髪、色白の肌、すっと通った鼻筋、そして何より王妃としての気品を備えた美しい女性だった。
自分の母親だということを一瞬忘れて見惚れてしまうほどに、クレアは美しかった。フェリシアも大人になれば母親のように美しくなれるのだろうか。
その茶色の瞳にフェリシアの姿は映ってはいなかったが、フェリシアは母親を慕わしいと感じていた。母親が自分のことを否定していても、愛してほしい、抱きしめてほしい、と強く願った。
「恐ろしい、呪われた子! どうしてわたくしから生まれてきたの⁉」
しかし、フェリシアの想いは、クレア王妃には届かない。彼女はフェリシアの方を見ていても、フェリシアを見ようとしていなかった。おもいきり目を見開いて、美しいその顔を歪めて、フェリシアを殺せとヒステリックに叫んでいる。
(お母様も、可哀想な人……)
固まって何も言えない幼いフェリシアと、恐ろしい形相の母親を遠くから見ていた十七歳のフェリシアは、この時の胸の痛みを思い出しながら思う。呪われた〈災いの姫〉を生んでしまった正妃が、周囲からどんな目で見られていたか。王家と深い関わりを持つ名門グリフェン家から王子が生まれることが期待されていたのに、第一王子を生んだのは第二王妃シャンテだった。国王の愛情がシャンテへと移っていく焦り、自分も王子を早く産まなければというプレッシャー、そのすべてがクレアの産む第一子には重くのしかかっていた。
しかし、生まれたのは王女、それも〈災いの姫〉だった。気位の高いクレアにとって、自分の身体から〈災いの姫〉が生み出されたことは、あまりに屈辱的だったに違いない。
しかし、幼いフェリシアにそんなことが理解できるはずもなかった。母親に存在を否定され、死を求められたのだ。毎日泣いて両親を求めていたのに、涙は一滴もこぼれなかった。ここで泣けば、さらに母親の気分を害すると本能的に察したのだ。泣いて困らせてはいけない。フェリシアのことを好きになってもらうためには、母親を刺激してはいけない。
だから、フェリシアは逆らうことをやめたのだ。自分の感情を吐き出すことも、泣いて過ごすことも……すべては母に愛される娘になるために。
(でも結局、わたくしは愛されていない)
所詮、愛されることのない存在なのだ。母親からも、父親からも、この国の人間すべてからも、本当の意味でフェリシアが愛されることはない。この国に災いをもたらす恐ろしい呪われた存在だから。
孤独で胸が押しつぶされそうになる。独りは怖くて、恐ろしい。
ヴェラント城での生活で忘れかけていた恐怖が蘇ってくる。いつの間にか、フェリシアは独りではなくなっていたのだ。兄だけではない人達と関わることができた。〈災いの姫〉であるフェリシアを求める不思議な男にも出会った。
成長したフェリシアが記憶の中のクレア王妃を見つめても、あの頃のような胸の痛みは訪れない。王城を出て、ヴェラント城で過ごすうち母親からの愛情だけが絶対ではない、と気づいたからだろうか。
それでも、フェリシアはまた独りになってしまった。ギルバートが姿を消し、使用人たちを傷つけ、兄のことも信じられない。
だから、こんな夢を見てしまうのだ。
早くこんな夢から覚めたいのに、フェリシアの意識はまだ覚醒するのを恐れていた。目が覚めても、フェリシアが信頼していた皆の姿は見られないから。
起きてしまえば、嫌でも現実を直視しなければならない。
今まで、何があっても平気だと思っていたのに、 ギルバートが現れてからフェリシアの心は少し弱くなってしまったのかもしれない。
(さっさとわたくしの前に現れなさいよ……)
フェリシアの心は、兄や使用人たち、両親でもなく、ギルバートのことを求めていた。
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