第33話
「誰かいるのか」
酒瓶が落ちていたあたりを慎重に歩きながら、息遣いの主を探す。ゆっくりと慎重に歩みを進めていると、今度は何やら柔らかいものにぶつかった。
「……んん?」
女の声だった。ギルバートは嫌な予感がした。
「今、女の声がしたか?」
自分が聞いた声が現実のものか信じられなかったのだろう。グースがギルバートに確認する。しかしギルバートが答える前にその声の主が起き上がった。
「ん、あぁ~……よく寝たわぁ」
パチン、と指を鳴らした音が聞こえたかと思うと、一瞬で空間を支配していた暗闇が消え去った。
「ほ~ら、やっぱり自分一人じゃどうにもならないでしょう? お姉さまの力が必要なのではなくて?」
闇が消え、目の前に立っていたのはギルバートのよく知る人物だった。
ただの石壁に無数の魔術陣が書き込まれた牢内にはあまりに似合わない、胸元が大胆に開いた真っ赤なドレスに、情欲を誘う真っ赤な口紅、妖艶な雰囲気を放出しまくっているのは――ギルバートの魔術の師匠、ベルーナである。
豊満な胸元まで伸びたピンク色の髪はゆるく波打ち、ギルバートを挑戦的に見つめる珊瑚色の瞳、そして美の女神と称されてもおかしくないほどの美貌は、最後に別れた時と全く変わっていない。その美しく形作られた顔が、かえってギルバートには恐ろしく感じられる。
「なんで、ババァがここにいるんだ!」
ベルーナを見て呆気にとられているグースへの説明は後回しだ。ギルバートは頑なに自分を「お姉さま」と呼ばせたい年齢不詳の女魔術師に怒鳴った。
「あらあら、本当に口の聞き方を覚えない子ね……困ったガキだわ。お姉さま、でしょうが!」
額に青筋をピクつかせ、恐ろしい笑みを浮かべたベルーナはギルバートに人差し指を突きつけた。その瞬間、ギルバートの身体は地面に叩きつけられる。
「くっそ……!」
「ふふ、イケメンが地にひれ伏す姿って、本当いつ見てもゾクゾクするわぁ」
ベルーナは真紅の唇をにんまりと歪めて、満足そうに言った。ギルバートの顔をじぃっと覗き込み、頬になまめかしく触れる。
「やめろ」
ベルーナの術によって動けないギルバートはされるがままになっていた。フェリシア以外には何の感情も湧かないギルバートは、ベルーナの美しい顔が間近に来ても全く心動かされることはなかった。そして、ベルーナもそれを分かっていた。分かった上で楽しんでいるのだ……たちが悪い。
「嫌よ。イケメンをいじめるのが好きなんだもの」
「……酒臭い女は嫌われるぞ」
ばちんっ!
何の抵抗も許さない状況での平手打ちは、見事にギルバートの頬に手形を残した。しかしその平手打ちによってギルバートの拘束は解かれた。
「お、おい、ギルバート。この……美しい女性は何者だ?」
ベルーナに気を取られ、グースのことをすっかり忘れていた。ギルバートは痛む頬をさすりながらグースに向き直る。
「このバば……いや、女性はベルーナ。俺に魔術を教えてくれた人だ。ちなみに年齢不詳でイケメンと酒には目がない恐ろしい女だ。気をつけ…ごふぉっ!」
ギルバートの紹介の仕方がまずかったようで、今度は腹部にベルーナの拳をお見舞いされた。
「ふふふ、ギルバートったら冗談が好きでねぇ。はじめましてグース殿下。あたしは女魔術師ベルーナですわ。あらぁ、やっぱり王族ともなるとお顔のつくりからして違うのねぇ……なんて可愛らしいのかしら。ペットにしたい可愛さだわぁ」
そう言いながらベルーナはグースの顔を近くで凝視する。身体のラインがよく分かる赤いドレスのせいで、ベルーナの色気はますます引き立ってしまい、グースは口をパクパクするだけで動けないでいた。まるで餌をもらう金魚のようなグースを見て、ベルーナはうっとりと目を細めた。
「あ~、かわいいグース殿下をおかずに何杯でも飲めそう」
いくら酒を飲んでも酔わない酒豪のベルーナは、その言葉通り何杯でも酒を飲む。普段は酒に浸りながらイケメン観察に勤しんでいる彼女が何故、こんな所にいるのだろうか。
ようやくベルーナの衝撃から立ち直ったギルバートは、根本の疑問に辿り着いた。
「で、何でここにいる?」
「見て分からないかしら? 助けに来てあげたのよ、ドジで間抜けな可愛いイケメンたちをね」
片目を瞑ってみせたベルーナに、何故かグースは目を奪われていた。
フェリシアしか見えていないギルバートは何とも思わないが、大抵の男はどういう訳かベルーナの魅力に取りつかれる。魔術以外では生活力のない彼女の生活支援は、すべてイケメンたちが請け負っているのだ。そして、数年前までギルバートもそのうちの一人だった。他のイケメンたちと違うのは、ギルバートは魔術を学ぶためだったということだろう。その分、余計な特別扱いを受けてしまったが、それについては忘れたい過去だ。
「何故だ?」
「いちいち答えを求めないで頂戴、めんどくさい。自分で考えなさいって何度も教えたでしょう?」
ベルーナには本当に世話になったし、何度も助けられた。それでも尚、憎まれ口を叩くのは、ギルバートが彼女に散々恥ずかしい思いをさせられたからだ。
しかし、ベルーナの元を去ったギルバートを今更何故助けに来たのだろう。
それに、どうしてこの場所が分かったのか。
どうやってこの場所に入ったのか、ということは聞かずとも分かる。この女魔術師は無茶苦茶に強い。ギルバートがベルーナに勝ったことは一度もない。というか、勝てる気がしない。すべてベルーナの掌の上で転がされているような、そんな気分にさせられるのだ。
ベルーナは、すぐに答えを教えてはくれない。「正解は自分で見つけるのが楽しいのよ」と笑って、はぐらかすのだ。そこがベルーナの魅力でもあり、憎いところでもあった。
ギルバートはベルーナがここにいる意味を考える。その答えはきっとフェリシアに関係することだ。
「ま、今はあたしがどうしてここにいるのかよりも、さっさとその鍵を拾ってあんたの愛しのお姫様のところへ行くのが大事なんじゃないの?」
黙り込み、考え込んでいたギルバートは、ベルーナの言葉ではっとした。周囲に目を向けると、闇の中では何時間かけても見つからなかった鍵が、今ではすぐ目の前に転がっていた。その鍵を拾い、ギルバートはしっかりと握りしめる。
鍵からは、フェリシアの薔薇の香りがかすかにした。この鍵は確かにヴェラント城の鍵だ。
「おい、グース! 姫の元へ帰るぞ!」
「……お、おう!」
まだベルーナに見惚れていたグースを現実に引き戻し、ギルバートは走り出す。
「出口まで一人で大丈夫かしら?」
というベルーナの挑発に、ギルバートはにっこりと笑って返す。
「師匠こそ、一人で出られますか?」
「それじゃあ……かわいくない弟子に出口までエスコートしてもらおうかしら」
そう言ってベルーナはギルバートの腕に絡みついてきた。弾力のある胸を押し付けてきて、かなりうっとおしい。酒臭さと薔薇香水の匂いが混ざり合った、不思議な色香で挑発を返してくる。
「やめろ」
「よければ、僕がエスコートしましょうか」
ギルバートの言葉に被って、グースが頬を染めてベルーナに言った。グースには珍しくもじもじしている。
「あら、じゃあグース殿下にお願いするわ」
妖艶な笑みを浮かべ、ベルーナはギルバートに回していた腕をグースに回した。
「本当に、何しに来たんだ……」
明らかにこの状況を楽しんでいるベルーナを見て、ギルバートは嫌な予感しかしなかった。普段、自分のためにしか動かないベルーナが、何の目的があってギルバートを助けたのか。それも、わざわざディラード王国の王城まで来るなど……。
しかし、ベルーナがディラード王国に不利なことはしないだろう。〈災いの姫〉となったフェリシアの状況やディラード王国のことを教えてくれたのは、他でもないベルーナなのだから。何故、ベルーナがそのことを知り得たのか、何故ギルバートに教えてくれたのか、それらの答えは未だ謎のままだが、ベルーナにとってこの地が特別だということは分かる。
広い室内を見回すと、部屋の隅に上へと続く階段が見えた。百数段ほどもある長い階段を上りきると、頑丈な鉄の扉があった。その扉には取っ手がなく、内側からは押すことしかできないようになっていた。
「さっさと出るぞ!」
ベルーナにいい所を見せたくなったのか、グースが張り切って扉に体当たりした。すると、当然鍵がかかっているだろうと思われた扉はすんなりと開き、勢いよく扉に突撃したグースはその勢いのまま外側に倒れ込んだ。
「よっぽどあの魔術に自信があったのか」
確かに、暗闇の魔術に囚われた状態であれば、この階段を見つけることも扉までたどり着くこともできなかっただろう。
魔術に耐性のあるグースだから地下牢内を歩き回れたが、普通の人間ならば平衡感覚が狂ったままで動くことはできなかったはずだ。それに、暗闇の中に長時間いれば心が壊れてしまう。
しかし、だからといって牢屋に鍵をかけていないなど油断しすぎではないか。そもそも、この場所が牢屋ではない可能性もあるが。
「舐めた真似をしてくれる」
ギルバートは焦りを何も見せなかった王宮魔術師長キルテットを思い出し、腹立たしい気分になる。もうギルバート達が出て行っても何の問題もないということだろうか。もしそうならば、ヴェラント城の魔術の完成を意味する。
王宮魔術師が神を降ろして何をするつもりなのかは分からないが、守るべき王家を危険に晒しているのは確かだ。
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