第32話
「〈神降ろし〉だと? 一体何故そんなことを……」
「王宮魔術師の考えは俺には分からない。ただ、あの術が発動すれば姫は姫でなくなってしまう。神の機嫌を損ねて術が失敗したとしても、器である姫は無事ではすまないだろう」
「何だと? じゃあ、フェリシアから愛を奪ったのは……」
「あぁ、神の器として心に強い感情を抱かせないためだろう。神の器は無でなければならないからな」
少しでも術の成功率を上げるために、フェリシアから感情をなくそうとした。王宮魔術師は、フェリシアを都合のいい人形へとつくり変えようとしていたのだ。
何のために神を降ろすのか、そんなことギルバートにはどうでもいい。大切なのは、フェリシアがフェリシアでいてくれることだ。器として神に渡したりなどするものか。王宮魔術師の思い通りになど絶対にさせるものか。
気高く咲く、あの美しい赤い薔薇はギルバートの大切な宝物なのだ。
「くそ! 術の発動はいつだ⁉」
「夜の神ネリスの力を十分に引き出すために最適なのは満月の夜だ。ここに来た日の月の月齢は十二ぐらいだった」
「月齢が十二……ということは、満月まで約二日しかないではないか!」
初夏のこの時期、月齢十三か十四で満月となる。
そして、満月の夜、ネリスの力が最も高まるとされている。神の力を行使する術は、それぞれの神の力が最も強い時に発動させる。そうすることで成功の確率を上げるのだ。しかし、〈神降ろし〉という禁断の術が薔薇の力に加えて月の力を利用したからといって成功するとは思えない。
「ちょっと待て、お前が来た時が十二だとしても、今は……?」
「それは、俺にも分からない。ここには時間の経過を示すものが何もないからな」
「もう鍵などどうでもいい! 早くここから出て魔術の発動を止めろ!」
もし、もう二日経過していたとしたら、ここから出たあとに見るこの世界は以前とは違うものになっているかもしれない。フェリシアがフェリシアではない世界に変わっているかもしれない。
もう、一刻の猶予もない。二日、という現実的な数字によって焦りと動揺を抑えきれなかったグースは、ギルバートの両肩を掴み、おもいきり揺さぶった。
「そんなことは分かってる! でも、このまま何の手札も持たないままヴェラント城に戻ってどうするんだ! 姫が壊れていく様を見ているだけなんて耐えられない。俺は確実に王宮魔術師を止める方法をとる」
「……間に合わなかったらどうするつもりだ。フェリシアを独りにして、悲しい思いをさせるだけなら僕はお前のことを許さない」
その声には本気の圧力があった。頼りなくて、いつも馬鹿ばかりしているようなグースでも、こんな真剣な声が出せるのか、とギルバートは驚いた。
だからこそ、ギルバートも本気で答えた。
「絶対に間に合わせる。指一本たりとも姫には触れさせない」
「その言葉、忘れるなよ」
ギルバートの中でフェリシアの存在がどれだけ大きいかなど、グースは知らないのだ。
もしフェリシアを救えなかったとしたら、ギルバートは死ぬだろう。救えなかった自分を責めて、ではない。フェリシアのいない世界を生きていても仕方がないからだ。ギルバートは他人に言われずともフェリシアを救うためならなんでもする。
もう二度と、誰にも傷つけさせない。
すぐにでもフェリシアの側に帰りたいギルバートがここに留まっているのは、鍵を持ち帰ることがフェリシアを救うための最善策だと考えているからだ。広い暗闇の中を闇雲に探してもすぐには見つからないかもしれない。それに、グースが手に入れた鍵が本当に尖塔の鍵かどうかも分からない。しかし、今ここでギルバートにできることは鍵を探すことだけだ。
「当然だ。分かったら、さっさと鍵を探そう」
ギルバートはそう言って話を切り上げようとしたが、グースはまだ何か物言いたげにこちらを見ている。
「……お前は、フェリシアを大事に想ってくれているようだが、その、本当にこの国で魔術師なんかやってていいのか?」
恐る恐る口を開き、何を言い出すのかと思えば……どうやらグースはギルバートの現状を心配してくれているらしい。魔術師になった理由も、簡潔にしか説明しなかったから、その他の事情が気になるのも無理はない。
「別に、問題はない。母上が亡くなってから、随分と落ち着いたし、俺の弟たちは賢いからな」
ギルバートは、守りたかった母と、弟たちの顔を思い出す。暗い思い出も蘇り、顔が不自然に歪んでしまう。それをグースに気付かれないよう、ギルバートは光を顔から遠ざけた。
「そうは言っても、許しは得ていないのだろう?」
グースは納得できないようだった。ギルバートとしては、これ以上何も話したくはないのだが、グースが一度気になったらとことんしつこい男だと知っている。
フェリシアのための鍵を探しながら、どういう訳か思い出したくない話をしなければならない状況に陥ってしまった。
「フェリシア様に会うために誰にも言わずに国を出た。後悔はしていない。あの国には俺がいない方がよかったんだ」
「そんなことはないと思うが、お前にとって居心地のいい場所ではなかったのだな……」
難しい顔で無理矢理納得しようとしているグースを見て、ギルバートの胸ななんだかあたたかくなった。
「俺が求めているのは、フェリシア様の側だけだよ」
「それは困る! 居場所がないなら、リーデント城で僕の補佐をしろっ!」
「グースの補佐だけは絶対にしたくない」
「何故だっ!」
素直で、真っ直ぐな心根のグースのおかげで、自分の過去を笑って話せるようになるかもしれない、と思えた。
そして、思わず笑みを浮かべたギルバートの足元に、何かがコツンと当たった。
鍵かもしれない、とギルバートは注意深く足元の物体に触れた。
「こ、これは……」
「どうした?」
少し離れた位置にいたグースが、ギルバートの声に反応して尋ねてくる。光で照らすと、その物体の正体が明らかになる。
「……酒瓶が落ちていた」
「酒瓶? 何故こんなところに」
王宮魔術師が所有する闇の地下牢内に、酒瓶という不釣合なものが落ちていた。囚人に酒を振る舞うはずもなし、王宮魔術師がここに酒を捨てている可能性もない訳ではないが、彼らに飲酒のイメージはない。
「そう言えば、この辺なんだか酒臭いな」
グースの呟きを聞いて、ギルバートの鼻もかすかな酒の匂いに気付く。そして、五感を研ぎ澄ますと、人の息遣いのようなものが聞こえてきた。
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