第22話

 ゆっくりと落ち着いた呼吸を繰り返し、穏やかに眠っているフェリシアを見て、ギルバートはほっと息を吐く。大きな赤い瞳を覆う瞼からは、一滴の涙がこぼれ落ちている。

 無理矢理フェリシアの肌を暴き、触れたのは自分だ。あの時のフェリシアの絶望的な瞳を、ギルバートは一生忘れないだろう。それだけ、深く傷つけてしまった。しかし、大きな心の傷を抉られ、恐怖を覚えただろうに、フェリシアは気丈に振る舞っていた。

 それどころか、ギルバートの身を案じた。自分の苦しみは自分のものだ、と。その言葉が、〈災いの姫〉である自分が傷つけばいいのだ、と言っているように聞こえて、ギルバートは悲しくなった。ならば、他人を傷つけたくないと言うフェリシアの傷は誰が癒すのだ。自分のことを諦めているフェリシアのことは誰が守るのだ。

「フェリシア様、ずっと誰にも言わずに堪えていたんですね」

 フェリシアがヴェラント城に移ったのはまだ七歳の頃。おそらく、黒薔薇はその時からフェリシアの身体に咲き始めた。まだ七歳の少女が、自分の身体を蝕んでいく痣に恐怖しない訳がない。どんどん広がっていく痣に脅えない日はなかっただろう。それでも、フェリシアは自分の身体のことを誰にも言わなかった。誰にも心配をかけないため、余計な気を遣わせないため、フェリシアは死ぬまで隠し通すことを決めたのだ。

 どれだけ苦しい日々だっただろう。

 どれだけ心細かっただろう。

 それでも強く、フェリシアは生きていた。

 もう、自分を自分で守らなくてもいい。弱い心を隠さなくてもいい。寂しい時や怖い時、泣きたい時には自分が側にいるから。その痛みも苦しみも全部一緒に背負っていくから。きっと、フェリシアを傷つけるすべてのものから守ってみせるから。

「だから、安心して眠ってください」

 フェリシアの目元の涙を拭い、ギルバートはその肌を守る薔薇に触れた。魔力を持つ薔薇に強い刺激を与えられながらも、ギルバートはフェリシアが傷つかないようにゆっくりと丁寧に薔薇を外した。薔薇を身に着けていないフェリシアは無防備で、〈災いの姫〉ではないただの少女のようだった。

 一体、誰が美しい王女に〈災いの姫〉などという酷い侮辱的な異名をつけたのか。

 フェリシアの美しい肌を黒薔薇で支配し、その心までをも傷つけている王宮魔術師への怒りや憤りは増すばかりである。

 ギルバートは、ヴェラント城の魔術は薔薇園の魔力を使って維持され、フェリシアへと影響するものだと考えていた。

 しかし、それは間違いだった。

 あまりにも深く、美しい肌に浸食していた黒薔薇の痣。ギルバートはその痣を見て、すぐに気付いた――禁忌の術であると。

 ヴェラント城の魔術は薔薇を魔力の源にしているのではなく、フェリシア自身を魔力の源としていたのだ。人間に魔力が宿るなど普通はありえないが、フェリシアは神の血を引く王族だ。フェリシアが〈災いの姫〉とされたのは、その身体に溢れんばかりの魔力が宿っていたからだろう。

 強すぎる力は災いを生む。

 しかし、その魔力をコントロールできれば何の災いも起きないし、逆に国のために役立てることもできただろう。その可能性に王宮魔術師が気付かないはずがない。

 それでも〈災いの姫〉を生み、幽閉したのは、何か他の目的があったからではないのか。

 そして、その目的の実行の日は近い、とギルバートは考えていた。

 おそらく、薔薇園の薔薇は魔術を発動するためのものではなく、フェリシアの魔力を引き出し蓄積するためのもの。

 ギルバートが見た限り、ヴェラント城の薔薇園の薔薇たちは、フェリシアの魔力を抱えきれなくなっていた。ヴェラント城の魔術陣に必要な魔力は揃い、その魔力の源であるフェリシアの身体にもほぼ全身に黒薔薇が広がっている。フェリシアが力をコントロールできないのは、身体を支配する黒薔薇のせいだろう。

 今、ヴェラント城の魔術はいつ発動してもおかしくない状況なのだ。せめて尖塔から魔術陣を見て、魔力の流れさえ分かれば断ち切ることは不可能ではないのに。

 早朝、鍵を取ってくると自信満々に言ったグースを思い出し、ギルバートは複雑な思いになった。王宮魔術師に見つかっていたりしないだろうな、と不安になりながらも、きっとグースなら可愛い妹のために何とかしてくれるだろうと信じていた。

「あぁ、それにしても美しい……」

 フェリシアの寝顔など滅多に見られるものではない、貴重なものだ。

 ギルバートは時間が許す限り見つめ、この幸せな一場面を目に焼き付けていたいと思う。

 しかし、もう時間はない。早々にヴェラント城にいる王宮魔術師側の人間を見つけなければならない。人間を魔力源として使う禁忌の魔術は不安定で、常に近くで注意しておかなければならない。そうなれば、王宮魔術師は毎日のようにヴェラント城に来る必要があり、それならば住んだ方が楽だ。しかし、このヴェラント城に王宮魔術師は住んでいない。だから、ヴェラント城内部の人間の中に王宮魔術師が紛れ込んでいる可能性が高い。

 信頼していた者が王宮魔術師の命令で側にいたと知れば、フェリシアは傷つく。

 これ以上、彼女を傷つけたくない。フェリシアを守るためには、王宮魔術師たちの思惑を知らなければならない。何のためにフェリシアの魔力を利用しようとしているのか。

「お側を離れるのは少しだけです。きっとすぐにフェリシア様のところへ帰ってきますからね」

 ギルバートはにっこりと笑ってフェリシアの頬に口づける。柔らかな肌が、薔薇の香りが、ギルバートを誘う。その誘惑を理性でなんとかはねのけて、ギルバートは立ち上がる。

 今日のことを謝るのは、すべてが終わった後だ。

 窓から差し込む優しい月明かりが、ギルバートを照らしていた。


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