第21話

 あの夜、〈災いの姫〉に会いに来た男は、フェリシアの問いに真摯な眼差しで答えた。


「フェリシア様が醜いなどあり得ません。あなたは、何よりも美しい……」


 ギルバートは、フェリシアの腕に咲く黒い薔薇に躊躇なく口づけた。

 ビクっと反応したその痣に、フェリシアは驚いてギルバートから離れようとする。

 しかし、ギルバートに強く腕を掴まれ、引き寄せられた。

「離して……っ!」

 ギルバートの腕の中で、フェリシアは暴れる。その度に、フェリシアを守る薔薇が、暴走する力が、彼を傷つけていく。しかし、ギルバートのことを気にする余裕は今のフェリシアにはなかった。自分を縛り付ける暖かな腕から抜け出すために、無我夢中で拳をふるう。それなのに、フェリシアが暴れれば暴れるほどに、その腕に強く、強く抱きしめられる。逃げ出さなければと思っているのに、どうしてこんなにも心地いいぬくもりをギルバートはくれるのだろう。

「いいえ、離しません。私はあなたのための魔術師だと言ったでしょう? すべて、私にぶつければいい。あなたの痛みは私が引き受けます」

 苦しくて、痛くて、悲しくて、怖くて、どうにもならないフェリシアの感情を、目の前の男はすべてぶつけろと言う。ギルバートにフェリシアの何が分かるというのだ。魔術師の言葉になど騙されない。一度は涙を見せてしまったけれど、もうこれ以上フェリシアの心に踏み込ませない。踏み込ませてはいけない。

 もし、踏みこんでしまったら、フェリシアはギルバートを離すことができなくなる。フェリシアのすべてを受け入れて、理解してくれる人間が現れてしまったら、その存在に頼らずにはいられなくなる。弱味をさらけ出して、助けを請いたくなる。そんなみっともない真似、王女であるフェリシアにできるはずがない。国民には忘れ去られ、誰にも必要とされていない王女かもしれないけれど、フェリシアには王女としての矜持があった。それがなければ、自分を取り巻くすべての前で強く立ってはいられない。

 誰かに縋るだけの、弱い存在にはなりたくない。

「……嫌よ。誰にもわたくしの苦しみを背負わせない。この苦しみは、わたくしだけのもの」

「強情なお姫様ですね。どうすれば、私に心を開いてくれるのですか?」

 耳元で聞こえたその声は、真剣で、優しくて、何故だかとても泣きたくなった。しかし、フェリシアは涙を我慢して、心を鬼にして言った。どうしても、守られるだけの弱い存在にはなりたくなかったから。

「離しなさい。わたくしにとって必要なのは、王宮魔術師についての情報だけよ」

「離したくありません」

「血が出ているわ。痛いんでしょう?」

 抱きしめられているフェリシアの視界に入るのは、ギルバートのシャツに滲む赤い血。本当は誰も傷つけたくはないのに、どうしてギルバートは自分が傷ついてまでフェリシアに近づこうとするのだろうか。

(わたくしのことなんて、もう放っておいてくれればいいのに……)

 もうやめてほしかった。これ以上、ギルバートを傷つけたくない。

 初めて自分の前に現れた、薔薇を超えてきた人。

 まるで太陽のように明るい笑顔を浮かべて、〈災いの姫〉であるフェリシアの心配をする、変わった魔術師。

 側に置いていてもいい、と思えたのに、ギルバートはフェリシアのせいで傷だらけだ。

 ギルバートを、もうこの城に、フェリシアの側に置いておく訳にはいかない。

「こんな傷、痛くありません。本当に傷ついているのは私ではなくフェリシア様の方だ。できることなら、あなたを守る薔薇に私もなりたい」

 この城を出て行きなさい、と口を開きかけたフェリシアの耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。自分の耳がおかしいのだろうか。血を流しているギルバートと、無傷のフェリシアでは傷ついているのはどちらかすぐに分かるだろうに。

 しかし、フェリシアも頭のどこかではその言葉の意味を理解していた。ギルバートが言いたいのは、表面上の怪我や傷などではなく、心の傷のこと。フェリシアがこれまでずっと自分の感情を無視し、殺してきたことでボロボロになった心、その心をギルバートは守りたいという。

 正直、馬鹿なのではないか、とフェリシアは思う。呆れて物が言えない。

 どうして、フェリシアのためにそこまでするのだろう。

「わたくしは〈災いの姫〉よ。どうして、あなたはわたくしを恐れないの? こんな身体で、気味が悪いでしょう? 逃げ出したくなったでしょう?」

 自嘲気味に笑ったフェリシアに、ギルバートは悲しそうな瞳を向ける。

「フェリシア様、あなたは決して〈災いの姫〉などではない。〈災いの姫〉であってはならない。姫は御存知ないでしょうが、私はあなたに救われたのです。だから……」

 その言葉の意味がフェリシアには理解できない。あの月夜の晩が、ギルバートとは初対面なのだ。あの時から思い返しても、無視したり、邪険に扱ったりしたことはあれど、救った覚えなど一度もない。

 苦しげに言葉を切ったギルバートは、一度大きく息を吸ってからその続きを口にした。

「俺は、あなたをこんなにも苦しめた者たちが許せない……!」

 ギルバートの表情に、初めて怒りという感情を見た気がする。何事にも動じず、牢屋に閉じ込められても、フェリシアの力が暴走した時でさえ笑っていた男が、空青色の瞳に危なげな光を灯して怒っている。それに、一人称が「俺」になっている。ギルバートの素を垣間見た気がした。本当のギルバートは、実はそんなに丁寧な言葉遣いをしないのかもしれない。何だか可笑しくなって、フェリシアはふっと笑う。いつしか、身体の緊張は解けていた。

「あなたって本当に、お兄様よりも大馬鹿者だわ」

「フェリシア様、私は真剣なのですよ」

「それぐらい分かっているわ。だから、馬鹿なんじゃない」

〈災いの姫〉のことを真剣に考えているなんて。

〈災いの姫〉のことを本気で心配するなんて。

 フェリシアはまだギルバートの腕の中にいるというのに、不思議と抵抗する気はきれいさっぱりなくなっていた。それどころか、知らず知らずのうちにフェリシアはギルバートの胸に身体を預けていた。

 その確かな信頼の重みに、ギルバートが頬を緩めていることにも気づかずに。

「フェリシア様、私はずっとあなたの側にいます」

 絹のようだと揶揄される蜂蜜色の髪に、ギルバートの大きな手が優しく触れた。

 そして、ゆっくりとあやすように頭を撫でられる。いつもなら、頭を撫でるぐらいでわたくしの機嫌がとれると思っているの? と、冷たく言い放ち、殴りつけているところだ。しかし、何故かそんな気にならない。

 それどころか、その規則正しい柔らかな優しい動きに、次第にフェリシアの瞼は重たくなっていった。

(日頃の睡眠不足のせいね……駄目よ、今眠っては駄目……!)

 ギルバートの腕に寄り添いながら眠るなど、あってはならない。これではまるでフェリシアがギルバートを信頼しているようではないか。頼っているみたいではないか。フェリシアは、これまで通り誰にも頼らず一人で前だけを見て生きていくのだ。だから、こんなところでギルバートに甘えている場合ではない。

 そう自分に言い聞かせるのに、その抵抗虚しくフェリシアの意識は夢の中へと誘われていった。

「おやすみなさい、姫」

 フェリシアをベッドに運んだギルバートが、その可愛らしい眠り姫の額にキスを落としたことにも、深い眠りの中にいるお姫様は気が付かなかった。

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