第3章 薔薇姫の秘密
第20話
月明かりの差し込む窓辺で、フェリシアは椅子に座って静かに目を閉じていた。あることが気になって、眠れないのだ。
(ギル……彼は、何をしているのかしら)
フェリシアはまだ、あの質問の答えを聞いていない。
この城の魔術とは一体どういうものなのか。
フェリシアの育てた薔薇が何に利用されているのか。
兄グースが突然ギルバートに会いに来たり、王宮魔術師の訪問があったりして、ギルバートとはゆっくり話ができていない。というか、話をしようと思っても、なかなかギルバートが捕まらないのだ。専属魔術師の分際でフェリシアの呼び出しに応じないとはどういうことだろうか。
「わたくしに隠れて何をこそこそしているのかしら?」
フェリシアが溜息を吐いた時、静寂に包まれていた部屋にノックの音が響いた。そして、聞こえてきたのは今まさにフェリシアの頭を悩ませている人物の声だった。
「フェリシア様、ギルバートです。入っても?」
「……えぇ、どうぞ」
何故か、ギルバートを迎え入れることにドキドキしている。今、ここにミリアはいない。フェリシアが、一人にしてほしいと頼んだから。ついさっきまで、ギルバートのことを考えていたのに、いざ当人を目の前にすると逃げ出したい気持ちになる。それに、私室に二人きりなのだ。
なんとか心を落ち着けて招き入れると、入って来たギルバートはどこか思い詰めたような顔をしていた。何かあったのだろうか。
とりあえず、フェリシアはソファを勧める。しかし、ギルバートは座ろうとしない。ギルバートは、痛みをこらえているような、苦し気な表情を浮かべている。こんなギルバートは初めて見た。いつも明るい笑みを浮かべているだけに、心配になる。
「どうしたの?」
自分でも驚くほどに優しい声が出た。
「…………」
「何かあったのなら、言いなさい」
しかし、ギルバートは答えない。こんなことは初めてだ。
もしかすると、妹に近づくなと兄に言われたのだろうか。しかし、あの兄に言われたぐらいでギルバートが素直に言うことを聞くとは思えない。やはり王宮魔術師に関することだろうか。そういえば、まだ何の有力な情報も得られていない。情報さえ手に入れば、自分で動くことができる。フェリシアはそう信じていた。
「お兄様のこと? 王宮魔術師のこと? それともこの城の魔術のこと? 何のためにわたくしに会いにきたの?」
フェリシアはギルバートの行動の意味が分からず、矢継ぎ早に問いを投げかけた。
ギルバートは、フェリシアの専属魔術師でありながら思い通りに動いてくれたことは一度もない。掴みどころのない笑顔に誤魔化され、意味不明の言動に振り回されて、肝心なことは何一つ聞かせてくれなかった。フェリシアが無駄に意地を張ってギルバート自身のことを知ろうとしていないからかもしれないが。
しかし、肝心なことを話していないのはフェリシアも同じなのかもしれない。魔術師に頼るしかできなかった本当の理由――そのことをずっと隠しているのだから。
「もういいわ。用がないなら、早く出て行きなさい」
出口の扉を指して、フェリシアは冷たい声で言った。やはり、誰にも頼らずフェリシア一人ですべきことだったのだ。
もう、専属魔術師なんていらないわ。そう言葉を続けようとしたら、胸がぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。その痛みと共に動悸が激しくなり、フェリシアは何も言えなくなる。
(これも、何かの魔術なの……?)
胸の痛みの意味を知りたくなくて、フェリシアは魔術のせいだと思い込もうとした。
ギルバートの空青色の瞳は真剣そのもので、唇は固く結ばれており、何か強い覚悟をもってここに立っているのだろうと思われた。フェリシアの命に背いて部屋に立ちつくしているギルバートを見て、フェリシアは嫌な予感しかしない。動悸はますます激しくなり、呼吸さえもうまくできなくなる。
ギルバートが何も言ってくれないことが不安で仕方がなくて、フェリシアは虚勢を張ることも忘れて心の内を吐き出していた。
「どうして、どうして何も答えてくれないの? わたくしが〈災いの姫〉だから?」
息がうまくできなくて、不規則な呼吸を繰り返す中でフェリシアは涙目になって叫んでいた。
「専属魔術師なんて、ギルバートなんて、もういらないわっ……!」
本心ではないその言葉を発した時、ギルバートがはっとしたように動いた。
「姫、申し訳ありません」
「なっ……!」
ギルバートは一瞬で距離を詰め、フェリシアの腕を掴んだ。控えめにフリルのついた夜着の袖口を握ったかと思うと、ギルバートはいっきに二の腕まで引き上げた。
その瞬間、フェリシアは悲鳴を上げた。
声にならないほどに強い、心からの悲鳴を。
「ここまでとは……」
ギルバートの漏らす言葉が、どこか遠くに聞こえた。フェリシアは、今まで誰にも見せることのなかった素肌を見られたショックで、何も考えられなくなっていた。
呆然と立ち尽くすフェリシアの腕には、血のように赤黒い薔薇模様が入れ墨のように広がっている。白く美しい肌にそれは毒々しいほどに浮かび上がる。そんな、フェリシアの身体を蝕む黒い痣を見て、ギルバートは顔を歪めた。
苦しげなギルバートの表情を見て、フェリシアの頭は徐々に機能し始める。
彼がフェリシアに会いに来たのは、おそらく薔薇に隠された素肌を暴くためだったのだ。
女性の、それも王族の肌に親族や婚約者でもない男性が触れるなど、あってはならないことだ。マノラ教が浸透している世間では、婚約者ではない男性が女性の肌に触れることはその女性を辱め、穢すことになる。触れた男性は、女性を穢した罪として殺されたとしても文句は言えない。
しかし、フェリシアはそんな常識とは違うところで衝撃を受けていた。
フェリシアが魔術師に頼るしかなかった理由、それがこの黒い痣にある。ずっと隠してきたのに、どうしてギルバートは気付いてしまったのだろう。
見たくなかった、見られたくなかった、この黒く醜い痣だけは。
「ねぇ、どうして……?」
問う声は震えていた。
「城の魔術陣の影響が、フェリシア様を侵しているのではないかと思ったからです」
そう言ったギルバートは、白い肌に広がる黒い薔薇を凝視していた。その瞳は晴れ渡った空の色だったはずなのに、今は暗く曇っていた。
「わたくしは、醜いでしょう?」
フェリシアが薔薇を纏い、長袖を着て決して素肌をさらさなかったのは、この不気味に広がる痣を隠すためだった。
侍女のミリアでさえ、この肌に触れたことは一度もない。フェリシアを心配する兄にも、見せたことはない。
フェリシアは〈災いの姫〉なのだ。その力で他人を傷つけてしまうかもしれない。誰も傷つけたくなくて、薔薇の棘で人を遠ざけようとした。
しかし、呪いの力で他人を傷つけたくないなんて建前で、本当は自分が傷つくことを恐れていたのだ。この痣を見て、やはり〈災いの姫〉なのだと気持ち悪がられて、今まであった信頼が崩れるのが怖かった。みんなが離れていくのが怖かった。
それに、もしグースがこの痣のことを知れば、おそらく黙ってはいられない。
ギルバートが言うように、この痣の原因は王宮魔術師の魔術にあるのだろう。王宮魔術師がフェリシアに害を与えているとグースが知れば、彼らに対して強硬手段に出るに違いない。それだけは、させられなかった。
王宮魔術師の決定には、王族であろうと逆らえないのだ。昔は王族の立場が強かったようだが、今は違う。今の時代、魔術師に逆らうことは神に逆らうことであり、国に仇なすこととなる。たとえ第一王子であっても、まだ国王ではないグースが王宮魔術師に逆らえば、重い罰が与えられるだろう。
だから、フェリシアは痣の広がる肌を隠し、助けを求める声も、感情も押し殺した。一人で魔術師を敵に回そうと決めた。この痣が全身に広がった時、フェリシアの身体がどうなるか分からない。その前に、王宮魔術師が〈災いの姫〉の力を何に利用しようとしているのか知る必要があった。
そして、もしその理由がディラード王国にとって不利となるものだったなら阻止しなければならない。
魔術を止められるのは、魔術師だけ。
痣に気付いたのは、このヴェラント城に居を移してほどなくの八歳の頃。最初はほんの少し、胸のあたりに薄い痣ができただけだった。しかし、だんだんと、フェリシアが成長するに従って、痣は薔薇模様を形どり、赤黒い花を咲かせていった。今では身体はほとんど黒い痣に支配され、もう時間がないと諦めかけていた。
そんな時に、フェリシアの前にギルバートが現れたのだ。〈災いの姫〉に会いたかった、と笑顔を浮かべて。
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