第17話

 ふっくらと焼き上がったパンの美味しそうな匂いが、朝の厨房には漂っていた。チーズが入ったふわとろのオムレツ、城内にある畑で採れた新鮮な野菜のサラダ、パンによく合う苺ジャムとバター……それらが台に乗せられて、この城の主の元へ運ばれるのを今か今かと待っていた。

「おはようございます。今日はオムレツですか。あぁ、いい匂いですね。食欲がそそられます」

 グースを見送った後、まともに話したことのないロッカスに会うために、ギルバートは厨房に来た。

 毎日、ヴェラント城でおいしい食事が食べられるのは、この厨房の主ロッカスが腕を振るっているからだ。しかし、彼はほとんど厨房から出て来ないし、フェリシアと話す機会も少ない。

 そんな謎が多いロッカスに会えるのは厨房だけ。しかし、厨房には内側から鍵がかかっており、外から中に入ることはできない。その扉が開かれるのは、ミリアが給仕をする時だけだ。食事を運ぶために、厨房の扉は開かれる。

 この城の魔術を解くためにも、城にいる裏切り者のことは把握しておかなければならない。もしギルバートが魔術を解こうとしても、裏切り者に邪魔をされては逆に姫が危うくなる。先手を、打たなければならない。

 グースの話によると、ロッカスは料理にしか興味がないらしいが、本当だろうか。ギルバートはロッカスと会ったことも話したこともなかった。本当にフェリシアのために仕えているのか、ちゃんと会ってみなければ分からない。

 そうして、普段ならミリアが給仕に来るであろう時間に、ギルバートは厨房にやって来た。何も言わずにノックをすれば、簡単に扉は開かれた。ミリアには、破れたシャツを繕うよう頼んでおいたから、まだ厨房には現れないだろう。フェリシアの前でだらしない格好はできないと言えば、ミリアは渋々承諾してくれた。

「初めまして、姫の専属魔術師をしております、ギルバートと申します」

 使い込まれた白色のコックコートを着ているロッカスは大柄で、その腹はでっぷりと出ている。年齢は、五十代前半といったところ。コック帽から覗く茶髪には、少し白いものが混ざっていた。分厚い唇を引き結び、気難しい顔をしたロッカスは、その茶色の瞳でじっとギルバートを睨んでいる。

「ロッカスさんは、どうして厨房にこもっているんですか?」

「…………」

 ロッカスはギルバートのことを無視することに決めたのか、さっさと背を向けて小鍋を火にかける。ぐつぐつと沸騰する音と共に、甘い香りが漂ってきた。

「これは、もしかして薔薇ですか」

 ギルバートはロッカスに近づき、鍋の中身を確認する。真っ赤な薔薇の花弁が煮詰められ、甘く柔らかな香りを漂わせている。

「もしかして、薔薇園の薔薇を……?」

 ディラード王国内に三つしかない薔薇園の、しかも魔力を持つ薔薇を使って、ロッカスはジャムを作っていた。マノラ教では神聖な花とされ、ディラード王国の国花とされている薔薇を贅沢にも食用にするとは、かなりロッカスは突飛な思想を持つ人物のようだ。それに、フェリシアが薔薇を料理に使うことを許可するなど、よっぽどロッカスは姫の信頼を得ているのだろう。

 王宮魔術師が知ったなら、激怒しそうだ。マノラ教信者でも、信じられないと叫ぶだろう。ギルバートでさえ、魔術で使うための薔薇を食べようなどという考えは浮かばなかった。

「あの、食べてみてもいいですか?」

 薔薇を食べる、という未知への好奇心と、フェリシアに近づきたいという思いからギルバートは小鍋の中のとろけた薔薇を凝視していた。

 隣でロッカスがごそごそと動き、ギルバートの目の前にスプーンを突き出した。

「王女様の好物だ」

 その銀のスプーンには、薔薇のジャムが一口分乗っかっていた。

「ありがとうございます!」

 ギルバートは躊躇なく薔薇のジャムを口にした。たった一口、たった一口食べただけなのに、口内には薔薇の香りが広がり、品のある甘さが舌を包み込む。

「やはり、薔薇は姫のようだ……」

 一目見た時からその美しさに囚われ、近づけば近づくほどにその棘は深く刺さり、甘く優しい誘惑に身も心も夢中にさせられる。もう、フェリシアの側以外に自分の居場所はないとさえ思える。逃れることなど、離れることなどできはしない。常に薔薇の香りを感じていなければ、おかしくなりそうなほどに、ギルバートはフェリシアを求めていた。

「やめておけ……王女様を想うのは。お互いに傷つくだけだ」

 初めて、ロッカスがギルバートを真っ直ぐに見た。その表情や声からは何の感情も感じ取ることはできなかったが、ギルバートの感情をよく思っていないことは間違いないだろう。その意味を問う前に、厨房にはミリアが現れてしまった。

「あれ、どうしてギルバート様がここにいるんですか? もう、探したんですからね。シャツは部屋に置いておきましたから!」

 一方的に言葉を放ち、ミリアは用意されていた朝食を運んで行った。

「さっきの、どういう意味ですか? 私は本気ですよ」

「…………」

 ギルバートにちらりと視線を向けた後、ロッカスは厨房の奥に設けられた小部屋に引っ込んでしまった。

「本当に無口な人だなぁ……」

 結局、ロッカスとは二言しか言葉を交わしていない。

 しかも、そのうちの一言はフェリシアへの想いを否定するものだった。やめておけ、とたかがシェフに言われたぐらいでやめられる軽い気持ちではない。

 もう、ギルバートの人生にフェリシアという薔薇はなくてはならない存在なのだ。


「やめないよ。自分の意思ではどうにもならないぐらい、俺は薔薇フェリシアに溺れているんだ」

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