第10話
「フェリシア! 駄目だろう、こんな夜遅くに得体の知れない男と二人きりになるなんて……!」
颯爽と、グースがフェリシアに近づいてくる。
その後ろではグースを止めきれなかったザックが申し訳なさそうな顔をして立っていた。フェリシアが気にしないで、と首を横に振ると、ザックは再び扉の外に控えた。近衛騎士だからといって、ザックは必要以上にフェリシアに踏み込んでこない。一人になる時間も与えてくれる。フェリシアは、ザックのそういうところが好きだった。
兄が現れたというだけで、先程までの緊張した空気がいっきに弾けとび、薄暗かった室内は灯りもないのに明るくなった。とにかく、兄がきらきらと眩しいのだ。光がなくとも眩い金色の髪、金糸の細かい刺繍がほどこされたベスト、ジャケットも光沢のある白金で、袖口のボタンや胸元にはルビーやサファイアなどの宝石が飾られている。それが、容姿端麗な兄には違和感なく似合ってしまう。そんな兄を見て、フェリシアは自然と顔を背けていた。
「あぁ……フェリシアが脅えているではないか」
顔を背けたことで、兄はフェリシアがギルバートに脅えていると勘違いしたらしい。自分に怯える可能性などちっとも考えていないのだ。
「一体何をされたんだい? この頼れるお兄様に話してごらん?」
せっかく魔術師であるギルバートに色々と魔術について教えてもらい、この城の魔術についての核心に触れようとしていたというのに。兄のせいでそんな雰囲気ではなくなった。それに、兄の前で王宮魔術師を悪く言えば、王城に帰ったグースが王宮魔術師に余計なことを言いそうで怖い。
「わたくしは何もされていませんわ。それよりお兄様、こんな夜遅くに前触れもなくやって来て、一体どうしましたの?」
苛立ちを抑え、フェリシアはつとめて冷静に問う。
フェリシアの顔は笑っていたが、その声や眼差しは恐ろしいくらいに冷たかった。そんなフェリシアの絶対零度の笑顔を見て、興奮していた兄の頭もようやく冷めた。妹の逆鱗に触れかけたのだと気づいたようで、すぐさま見事な土下座を披露した。
「こんな夜に、勝手に入ってすまなかった! でも仕方ないだろう。フェリシアのことが心配だったんだ……お兄様を許しておくれ!」
ディラード王国の未来を担う第一王子であるのに、日に日に土下座に磨きがかかっていることにフェリシアは悲しくなる。
(本当に、心配だわ。この国の未来が……)
今まで、グースが予告なく来ることはしょっちゅうあったが、夜遅くに来たのは初めてだ。初めてのことに、フェリシア自身も内心は戸惑っている。そんな動揺、いっさい顔には出さないが。
多忙なはずの第一王子が、何故突然やってきたのか。
「お兄様、恥ずかしいから土下座はやめて頂戴。それで、本当に何をしに来たの?」
「実はだな、フェリシアではなく、そこでニヤニヤ笑っている、妹をたぶらかせている忌々しいその男に用があって来たんだ……」
「この男に?」
妹馬鹿な兄が、妹のためではなく、魔術師の男のために夜遅く馬を走らせてきた……?
フェリシアは思わず、眉をしかめた。
「そうだ、この男にはどうしても聞きたいことがある。これは可愛い妹を持つ兄としてのけじめだ。フェリシアには、席を外してもらいたい……!」
言いにくそうに、しかしはっきりとグースは答えた。
「この男はわたくしの専属魔術師よ。わたくしがいてはいけない理由は何かしら?」
「それは……男同士の問題だからだ!」
兄にしては珍しく、引き下がらない。そんなに重要なことならば尚更フェリシアも気になる。そして、なかなか素直に白状しない兄としばらく睨み合いになる。
「あの~……姫もお兄さんもそろそろ私のことを名前で呼んでいただけませんか?」
「この男」呼ばわりで繰り広げられる会話に耐えられなくなったのか、ギルバートが遠慮がちに言った。
そう言われて初めて、フェリシアは彼を名前で呼んだことがないことに気づいた。しかしそれを言えばギルバートもフェリシアを「姫」としか呼んでいないではないか。
「フェリシアがお前のことを親しく名前で呼ぶ訳がないだろう!」
真っ先にギルバートの言葉を強く否定したのはもちろんグースだった。
「姫、今さらですが、どうか私のことは『ギル』とお呼びください」
第一王子が自分に会いに来たというのに、グースを無視してギルバートはフェリシアに笑顔を向けた。
魔術師相手に自己紹介など不要だ。最初は仕事として接するだけだと割り切っていたので、呼び方など意識していなかったのだが、名を呼ばれないことはやはりギルバートにしてみれば不満だったのかもしれない。
兄がクドクドと気持ち悪いことを言っている間、フェリシアはどうするべきか悩んでいた。
「……そうね、王宮魔術師が来た時に『魔術師』とか『この男』では誰のことか分からないものね」
そう独りごち、フェリシアは顔を上げた。
「ギル」
透き通ったような可憐な声が聞こえると、グースは説教を止め、ギルバートはその笑顔を固めた。
「これで満足かしら?」
「……え、あ、はい。まさか本当に呼んでもらえるとは思いませんでした」
いつも何にも動じず笑顔を浮かべているギルバートには珍しく、動揺がみられた。しかしその動揺はすぐに嬉しさを噛みしめるような笑みに変わる。あまりに幸せそうな笑みに、思わずフェリシアもつられて笑う。
空青色の瞳と、薔薇色の瞳が互いを映し合い、やわらかな紫色を思わせた。
「え、二人して見つめ合っている……⁉ おい、お前フェリシアに何したんだ! もしやフェリシアの美しい造形美に触れたのではあるまいな! この絹糸のように繊細でやわらかな蜂蜜色の髪に口づけでもしてみろ、お前は一生牢屋暮らしだからなっ!」
「お兄様! いい加減にして!」
このまま放っておくといつまで続くか分からない。フェリシアはべらべらと長い兄の妄想をぴしゃりと断ち切る。
「フェリシア……何故、顔が赤い?」
いつもは兄の気持ち悪い妄想だと一蹴して終わる。
しかし、今回ばかりは妙に鋭い。ギルバートは薔薇ごとフェリシアを抱きしめ、この蜂蜜色の髪にも口づけた。兄の言葉で忘れようとしていた出来事を思い返され、自分でも気づかないうちにフェリシアの顔は赤くなっていた。
恥ずかしさで、フェリシアは思わず両手で頬を覆う。
その次の瞬間にはグースは地に突っ伏していた。
「う、うぅ……! 一体何があったのか、気になる……が、顔を赤らめて恥じらうフェリシアが、可愛いすぎて……苦しい! 胸が苦しいっ!」
グースは泣きながら悶えている。そんな兄の醜態を見て、フェリシアの頬の熱はますます上がる。なんだかいたたまれなくなって、フェリシアは立ち上がる。
「もう、勝手にして頂戴……っ!」
羞恥心で、どうにかなりそうだ。こんなことは生まれて初めてだった。
兄のせいでどっと疲れが押し寄せてきた。さきほどまでは確かに真面目な話をしていたはずなのに、それすらももう遠い昔のように感じられる。
「お部屋に戻られるのですか?」
「えぇ。もう疲れたから寝ることにするわ」
「そうですか……」
未だフェリシアの可愛さに悶絶するグースをちらりと見て、ギルバートは苦笑した。彼はこれから妹馬鹿の王子と二人で残されてしまうのだ。かなり気まずいだろう。そう思い、フェリシアは表情を緩めて言った。
「今日は有意義な話ができたわ。またよろしく頼むわね、ギル」
「有り難いお言葉です。あの、私も姫の名前を口にしてもいいでしょうか?」
「ダメだっ! 仲良く名前で呼び合うなんて許さない!」
という兄の抗議を無視して、フェリシアはギルバートに真っ直ぐ向き合った。
「かまわないわ。ただし、馴れ馴れしく呼ぶことは許さない。あなたはあくまでもわたくしの専属魔術師、忠実な
兄がギャーギャー騒いでいるのも気にならないぐらい、フェリシアは自分を見つめる優しいギルバートの眼差しに目を奪われていた。
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