第5話
魔術師に心配されることがフェリシアにとってどれだけ屈辱的か、ギルバートは分かっていない。怒りと苛立ちと不安、それらが混ざり合って、フェリシアの感情が表にあふれ出そうとする。
抑えていた感情が、力が、暴走する。
バリンッ! どこかで、何かが割れる音がした。
ガシャーン! どこかで、何かが壊れる音がした。
(……大丈夫、大丈夫よ)
自身を落ち着けるために、フェリシアは何度も何度も心の内で繰り返す。
自分の中に満ちている力が怖い。これ以上感情が暴走してしまったら、取り返しのつかないことになる。
もうギルバートが目の前にいることなど忘れて、フェリシアは目を閉じ、身に纏う薔薇に触れる。薔薇はフェリシアを傷つけたりしない。いつでもフェリシアを守ってくれる。棘だらけの薔薇を常に身に着けているのは、精神を安定させるためでもあった。
しかし、フェリシアが薔薇に触れたのと同時に、何かあたたかくて力強いものに包まれた。
(……なっ⁉)
突然のことに驚いて、声も出ない。目を開けようとするのに、何か弾力のあるものに遮られてそれも敵わない。さらにぎゅうっと身体が締め付けられて、何も考えられなくなる。いつの間にか、あんなにも荒れていた心が落ち着いていた。与えられる人肌のぬくもりが鎮静剤のように感情を鎮め、フェリシアに冷静さを取り戻させた。
そして、現状を理解した。
フェリシアは、すっぽりとギルバートの腕の中に納まってしまっていた。抵抗すらできないほどに力強く、それなのに優しく、包み込まれている。
フェリシアは固まっていた。動けないのだ。抵抗したいのに、今すぐ突き飛ばしたいのに、自分の呪われた力でもなんでも使ってこの不埒な行為を終わらせたいのに、それができなかった。まるで何かの術に囚われてしまったかのように動けない。目も、口も、開くことができない。だから、抗議の声を上げることもできない。
これも何かの魔術だろうか。そんな考えが浮かんだが、ほんのり漂う薔薇の香りはフェリシアの知るものだ。つまり、これは魔術ではなくただの抱擁。今まで自分でも抑えられなかったこの力を、それだけで抑えてしまうなんて。
「私は、姫のためにここに来たのです。心配するなとおっしゃっても、私は姫のことが心配なのです」
ふいに聞こえたその苦しげな声は、いつもの呑気な彼とは違っていた。フェリシアのことを本気で心配しているように聞こえる。これが演技だとしたら大したものだ。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
耳元で聞こえる、気遣うような優しい声音。あやすように背中をぽんぽんと触れられる。
信用してはいけない、気を許してはいけない。これは魔術師の言葉なのに、目頭が熱くなる。ここで泣いてはいけない。
(どうして、この男は魔術師なのに……〈災いの姫〉にしか興味がないんじゃないの)
魔術師の弱味を握るために、魔術師を手駒にしようと思ったのだ。魔術師に対抗する駒として、利用するためだけにギルバートを生かしたのだ。少なからずフェリシアに好意を持っているようだったから、都合がいいと思った。信じるつもりなどなかった。気を許すつもりなんて微塵もなかった。
会ったばかりの男、それも魔術師にフェリシアの気持ちなんて分かるはずがない。
気遣いなど無用だ――そう突っぱねたいのに。
「姫、どうか今は私が魔術師であることをお忘れください。ここには今、姫を想う者がいるのみです」
この言葉が引き金となった。
十七年間、ずっと我慢していたフェリシアの涙がギルバートの胸に沁み込んでいく。
あふれ出した涙は、もう止めることなどできなかった。フェリシアの意識のどこか遠い場所で、王女としての自分が今すぐ男から離れろと喚いている。そうすべきだと頭では理解しているのに、身体が、心が、それを拒否した。このまま泣かせてほしいと思っている。
誰かに涙を見せたことなんてなかった。誰にも弱い姫だと思われたくなかったから。
誰かに抱きしめられたことなんてなかった。触れられることを恐れて、薔薇で自分を守っていたから。
ギルバートの胸で声を押し殺しながら、生まれたばかりの赤子のようにおもいきり泣いた。
そうしてどれぐらい泣いていただろうか。
兄が帰った昼間に開け放していたカーテンから、夕暮れの光が射していた。もう日が落ち始めている。いつの間にかソファに移動していた。フェシリアはギルバートの膝に横抱きになり、ずっと泣きながら無我夢中でしがみついていたようだ。時間の経過と自分の体勢を認識した途端、フェリシアははっと現実にかえる。自分の失態に気付いた途端、顔が熱くなる。
(一体わたくしは何をしていたの! この男は魔術師なのよ!)
どんっ! おもいきりギルバートの身体を突き飛ばす。そしてバランスを崩し倒れた彼の上に乗り、握ったままだったナイフを彼の首筋にあてた。
彼がフェリシアの前に現れた、三日前の夜と同じように。
しかし、あの夜と違うのはフェリシアの心臓が激しく脈打っていること。
「何も心配いりません。怖がらないでください。私はあなたを傷つけたりしませんよ。あぁでも、本当に姫は美しい。泣いている姿も、怒っている姿も……そそられますね」
フェリシアの赤い瞳は涙で潤み、頬は桃色に染まっていた。フェリシアの羞恥などおかまいなしに言葉を紡ぐギルバートをフェリシアは睨みつける。
「よほど殺されたいようね」
「えぇ、姫の手で殺されるのなら喜んでこの命捧げましょう」
冷ややかに見つめるフェリシアに、彼はうっとりとした眼差しを向ける。
本気で何の抵抗もしないつもりだろうか。
気が動転してナイフを向けてしまったが、ギルバートを殺すつもりはないのだ。彼の腕の中から逃げなかったフェリシアも悪い。それに、無防備に涙まで見せてしまった。罰が悪くて、フェリシアはギルバートの熱い視線から目を逸らす。
しかし、この男を側に置くと決めたのはフェリシアなのだ。そろそろ覚悟を決めなければいけない。
「あなたは何者なの?」
もう一度、牢に入れた時と同じ質問をする。
「私は、あなたのための魔術師です」
彼もまた、同じ返答を返す。
「どうして、この城へ来たの?」
ここに来た目的を問う。
「あなたに会うためです」
彼は、フェリシアから目を離さずに答える。
「どうして、わたくしに会いに来たの?」
あの夜、ギルバートは〈災いの姫〉に会いたかったのだと答えた。
どうせまた〈災いの姫〉の力を利用したいだけだろうと思った。それでも、利用できるものは利用しようと専属魔術師に任命した。
しかし、今はギルバートが〈災いの姫〉の力を求めてきた訳ではないのだと分かる。
フェリシアに会いに来た、その理由が知りたい。
「いつでも姫の笑顔が見られるように、側にいたいと思ったんです」
心底幸せそうな笑みを浮かべて、ギルバートはフェリシアの蜂蜜色の髪を一房すくい、口づけた。フェリシアに組み敷かれたままで。
「今はこんなにも姫の近くにいる。それだけで、私は幸せです」
「……馬鹿じゃないの」
「えぇ、私は姫のためなら馬鹿にでも阿呆にもなりましょう」
「これ以上馬鹿になったら承知しないわよ」
「そうですね。姫の側にいられることが嬉しくて浮かれていました」
くすっと笑ったのは他でもないフェリシアだった。
魔術師相手に、と気を張っていたが、その必要はないのかもしれない。
ギルバートには、今思い出しても恥ずかしい、生まれて初めての大泣きを見られてしまっている。弱味を握るつもりが、逆に弱味を握られてしまった。しかし、彼がこの弱味を利用するとは思えない。
ギルバートはフェリシアを守る鋭い薔薇の棘ごと、この身体を強く抱きしめてくれたから。
「せっかく着替えたのに、また汚れたわね」
フェリシアに傷一つつけることのない鋭い薔薇の棘は、フェリシア以外には十分な凶器となる。色々と混乱していたために気付かなかったが、真っ白いギルバートのシャツにはところどころ赤い染みができている。相当痛そうなのだが、ギルバートは気にした様子もなく笑う。
彼の傷をフェリシアが気にしていることに気付いたからだろうか。
「これぐらい、なんてことありませんよ。それよりも、姫と楽しくお喋りできていることが嬉しくてたまらない」
「兄と同じくらい、いいえ、それ以上に気持ち悪いわね」
向けられる好意がむずがゆくて、フェリシアの口からはそっけない言葉しか出てこない。
「お兄様を超えられたとは、名誉なことです」
明るい空色の瞳が、フェリシアの目の前できらめく。優しい笑みが、フェリシアの赤い瞳に映る。そして、ギルバートの瞳に映る自分が、今までに見たことがないような穏やかな顔をしていることに気付いて思わず赤面する。
(何故、こんなに顔が近いのよ!)
内心パニックになりながら、まだギルバートの上にのしかかったままだったことを思い出す。フェリシアは慌てて立ち上がり、動揺を悟られないよう、つとめて冷静な声で言った。
「……変態魔術師、楽しいお喋りはおしまいよ。わたくしを見てないで、さっさと仕事をなさい」
「はい。姫の仰せの通りに」
シャツは所々破けてボロボロだというのに、そう言って跪くギルバートには確かな気品が感じられた。
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