第4話

「やっと帰ったわ」

 帰りたくない、と喚く兄を強制的に馬車に乗せ、城から追い出すようにして見送ったのはついさっきのこと。はぁ、と溜息を吐きながらフェリシアはソファに身を預けた。

 ここは、円型の城の一階、主塔を中心に四つに分かれた部屋の一つ。魔術時計でいえば、七時から九時の位置にあたる。

 薄ピンク色で統一されたサロンには、目を楽しませる絵画や調度品が置かれている。〈災いの姫〉を幽閉する城なのに、王族としての贅沢な暮らしは与えられている。フェリシアのことを王族だと、本当の意味で誰も認めてはいないのに。薔薇を見るだけなら心が癒されるのに、調度品や豪華な装飾を見るとあまりに滑稽で笑えてくる。

 自嘲気味にフェリシアが笑った時、近くで物音がした。その次の瞬間には、フェリシアは音の主に刃を向けていた。幼い頃から、自分は独りで、誰にも守ってもらえない立場だと理解していた。だから、常にナイフは隠し持っているし、護身術もザックに教わった。

「あなた、何をしているの?」

 刃の先には、身なりを整えたギルバートが立っていた。泥を落とすために一度風呂に入ったのだろう。茶色の髪は少し濡れていた。

 とりあえずナイフを下ろすが、もし何かおかしな動きをすればすぐにでも反撃できるように身構える。

 ザックには、サロンに誰も入れるなと言ってあった。腕の立つザックがみすみすこの男を通すとは思えない。だとすれば、魔術でも使ったのだろうか。やはり、魔術師は信用できない。

(利用するのはわたくしなの。断じてこの男に主導権は渡さないわ)

 ナイフを向けてもあの夜と同じように全く動じず、ギルバートはフェリシアを見て幸せそうに笑っている。フェリシアには何もできないと思っているのだろうか。

 白いシャツと黒いズボンに着替えている彼は、貴公子然としていて、とても魔術師には見えなかった。フェリシアの城に定期的にやってくる魔術師たちとは、明らかに雰囲気が違う。王宮魔術師たちは無口で無表情、城の魔術を確認する以外にフェリシアとは一切関わろうとしない。おそらく、〈災いの姫〉としての力を恐れているのだ。

 しかし、目の前で笑う男は、フェリシアのことを全く恐れていない。それどころか、親しみを持って接してくる。

 それが不思議で、同時に恐ろしくもあった。


 魔術師は嘘つきだ。

 感情を表に出さず、冷たい瞳でフェリシアを見つめる。

 この城に連れて来られた時から、魔術師への不信感と嫌悪感は強まる一方だ。

『〈災いの姫〉の力を抑えるためのヴェラント城が完成しました』

 フェリシアが幽閉されることが家族にとって、王国にとって最善策だといわれた。

 だから、フェリシアは覚悟を決めて魔術師の言葉に従ったのだ。これで、お母様とお父様が笑ってくれるなら――と。

 まだ七歳の幼子に、王宮魔術師はある術を埋め込んだ。その時の記憶は曖昧だが、魔術師たちの黒い笑みは今でも鮮明に思い出せる。

 王宮魔術師は、フェリシアを守るために存在しているのではない、とその時身に沁みて分かった。


 しかし、ギルバートからは、敵意も悪意も感じない。

 だから、側に置くことを決めた。とはいえ、フェリシアはこの男が魔術師であることをまだ信じられない。明るい空色の瞳は澄んでいて、フェリシアを見つめて太陽のような笑顔を浮かべている。

(本当に、この男は魔術師なの?)

 フェリシアの知る魔術師とは似ても似つかない。ただ偶然この城に迷い込んだ普通の男だったなら……そんな思いが一瞬浮かぶが、そんなことはありえない。この城にはフェリシアを閉じ込めておくための魔術がかかっているのだ。王家の者と魔術師以外、立ち入ることなどできはしない。

 フェリシアは右手に握るナイフに力を込めた。いくら優しげに見つめられたとて、相手は魔術師なのだ。油断してはならない。

「せっかく専属魔術師にしていただいたのに、姫とゆっくりお話しする時間がなかったものですから、我慢できずに来てしまいました。しかし、姫を驚かせてしまったようですね」

 すみません、と困ったように笑うギルバートを見て、フェリシアの良心が少しだけ疼いた。

 今日この時まで、彼を避けていたのはフェリシアの方なのだ。

 自分の都合で専属魔術師に任命しておいて、魔術師だからという理由で避けていた。

 それは、ギルバートがどんな人間なのかを知るためでもあったし、フェリシア自身の心の準備のためでもあった。

 そして今日、兄の反応を見て確信した。ギルバートは王宮魔術師と関わりのない人間だと。妹馬鹿なあの兄相手に、よどみなくフェリシアに対する褒め言葉を並べられる者は今までいなかった。兄が翻弄されている姿も初めて見た。それは、ギルバートの言葉が本物だったからだろう。

 王宮魔術師は魔術師嫌いのフェリシアのことをよく思っていない。だから、フェリシアを褒めるような言葉が次から次へと出てくるはずがないのだ。

 もちろん、フェリシアは褒め言葉の嵐に喜ぶでもなく呆れていたが、ギルバートを一方的に避けるのは間違っていたのかもしれないと考えを改めた。

 しかし、上下関係は分からせなければならない。

「わたくしの専属魔術師になる上での条件を、もう忘れてしまったの?」

 ただの馬鹿に用はない。フェリシアは冷ややかな眼差しをギルバートに向ける。背の高いギルバートに見下ろされる形になるのが悔しいが、威圧的な態度は崩さない。

「ちゃんと覚えていますよ。姫の言葉は絶対、姫に勝手に近づかない、話しかけない、勝手に動かない……ですよね?」

「えぇ、そうよ。では何故覚えているのに守れないのかしら?」

「それは……お兄様が帰ってしまったから姫に寂しい思いをさせているのではないか、と思いまして」

「……余計なお世話よ」

「私は、姫が心配なのです」

「わたくしは一人でも平気なの。魔術師の心配なんていらないわ」

 顔は平静を装っていたが、フェリシアの心は荒れ狂っていた。

(この男も他の魔術師たちと同じ……!)

 今まで、一体何人の魔術師がフェリシアを“心配”してこの城に来ただろうか。

 フェリシアを“心配”して来た魔術師たちは、〈災いの姫〉を好奇な目でしか見ていなかった。

 呪いを解いてあげる、この城から出してあげる、そう言って甘い言葉を吐く魔術師たちは皆口をそろえて言う――〈災いの姫〉として生まれたフェリシアが心配なのだ、と。

 誰もフェリシアなど見てはいなかった。誰も本気で救う気なんてなかった。

 魔術師たちの好奇の目に晒される度、フェリシアの心は深い哀しみと絶望に支配されていった。

 利用されるのが嫌で、感情を表に出さないようにした。氷のように冷たく、何にも心を動かされない人間になろうと思った――王宮魔術師のように。

 そうして十年間、王国のために、両親のために、と耐えてきた。我慢だらけの日々だった。

 心を許している兄にさえ、弱音を吐いたことはなかった。もちろん、優しく接してくれる使用人たちにも。

 それでも、感情を完全に消すことなどできなかった。ただ、隠すのがうまくなっただけ。

(魔術師に、わたくしを心配する資格などないわ!)

 フェリシアの心は、いつ爆発してもおかしくないくらいに不安定だった。

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