第6話

 夕食は、いつもより遅めになってしまった。兄と変態魔術師のせいである。

 ミリアが給仕をしてくれている中、フェリシアは不思議な気持ちで並べられている料理を見ていた。もちろん、考えているのは料理のことではなく、何故か共に夕食を楽しもうとしているギルバートのことについてである。

「……あなたの仕事はどうなっているの?」

「姫の望む答えかは分かりませんが、きっちり調べておきましたよ」

 出会った時と何も変わらない優しい笑顔に、フェリシアはそう、とだけ頷いた。

(この男は〈災いの姫〉が、怖くはないのかしら?)

 フェリシアがギルバートの目の前で力を暴走させてしまったのは、ついさっきのことだ。

 あの後、サロンをもう一度確認してみると、窓ガラスはひび割れていたし、チェストの上に置かれていた花瓶は完全に割れていて、花瓶に挿していた花が無残にも床に転がっていた。それは、フェリシアを〈災いの姫〉たらしめる恐ろしい破滅の力によるもの。

 自分でも恐ろしいと思うのに、ギルバートは何の躊躇いもなくフェリシアを抱きしめた――〈災いの姫〉の力が暴走している中で。

 彼のシャツについていた血は、この薔薇のせいだけではないだろう。窓ガラスと花瓶が割れていたように、ギルバートの身体にも相当の負荷がかかっていたはずなのだ。そのことに、フェリシアは後から気がついた。

 赤の他人、それも魔術師が、どうしてフェリシアのためにそこまでするのか理解できない。というか、ギルバートがフェリシアに執着する理由も分からない。

「あぁ、仕事をしたからか、とてもお腹が空きました」

 フェリシアの目の前で、さも当たり前のようにテーブルについているギルバートは、新しいシャツに着替えている。

 着のみ着のままでこの城に侵入してきたギルバートには、当然着替えなどない。しかし、フェリシアの専属魔術師であるのに毎日同じ服を着せる訳にもいかない。だから、グースが勝手にヴェラント城に用意していた服を貸すことにした。

 さきほど薔薇の棘でボロボロになり、彼の血が染み込んだシャツは兄の物である。そして今ギルバートが着ている、無駄に首元の装飾が華やかなシャツも、グースの私物。ギルバートは、グースと体型が近いので問題なく着こなしている……というか兄よりも似合っている。

 そのせいで、給仕をしているミリアはしばしギルバートに見惚れていた。

 しかし、フェリシアのせいで怪我をしたというのに、どうしてこうも呑気に食事を一緒にとれるのだろうか。

「この料理は絶品ですね」

 フェリシアがまだ一口も食べていないというのに、ギルバートはおいしそうに鶏肉のオリーブ煮を頬張っている。オリーブと肉汁の香りにフェリシアの食欲もそそられるが、どういう訳か食べる気にならない。

「魔術師様にそう言ってもらえると、シェフのロッカスさんも喜びますわ」

 頬を染めながら、ミリアが控えめに微笑んだ。笑い合う二人の様子を見て、何故だかフェリシアの食欲はますます失われていく。

「じゃあ、ロッカスさんにおいしかったですとお伝えください」

 また一口、料理を口にして、ギルバートがにこりと言った。

 料理を作ることしか興味のないロッカスは、基本的に人付き合いが苦手だ。五十代前半の彼はフェリシアにとって、会ったことのない父を思わせる。料理の説明に食堂に出てくることはなく、厨房に閉じ籠ってひたすら料理の仕込みをしている。 そんな無口なロッカスに代わってミリアがいつも給仕をしてくれるのだ。

「姫は食べないんですか?」

 ギルバートが心配そうな眼差しを向けてくる。フェリシアはまだ、料理に手をつけていなかった。

(心配するべきはわたくしではないでしょうに……)

 フェリシアのせいで怪我をしたというのに、夕食の席に入り込んできて、今もギルバートは楽しそうに笑っている。

 怪我人だなんて思えない、まったく違和感のない動作。フェリシアに気付かせまいとそう振る舞っているのだとしたら余計なお世話だ。こちらも自分の力の威力がどれほどか分からないほど馬鹿ではない。

 どうにかギルバートを大人しくさせる方法はないものか。

「このトマトスープもおいしいですよ」

 人が色々と思案しているというのに、ギルバートはスープをすすめてくる。じっくりと煮込まれた、ロッカス特製のトマトスープはフェリシアの大好物だ。おいしいことくらい知っている。知っているからこそ、ロッカスはトマトスープを定期的に作ってくれるのだ。

 フェリシアはなんだか意地になって、トマトスープを一口、鶏肉を一口、サラダを一口ずつ口に運んだ。あたたかなスープは高ぶった心を落ち着け、鶏肉は噛むほどにジューシーな肉汁が口内に広がり、自然と頬が緩む。オレンジ色のロッカス特製ドレッシングに彩られたサラダは、シャキシャキと楽しい音を奏でる。

「おいしい……」

 思わず、フェリシアは感嘆の声を上げていた。

 兄は妹馬鹿ではあるが、使用人たちの人選に外れはない。もし兄がロッカスをヴェラント城のシェフにと選んでいなかったならば、この料理を口にすることはなかった。そう思うと、ロッカスを連れて来てくれた兄に感謝である。

「お肉を頬張る姫もかわいいなぁ」

 いい加減、「かわいい」という褒め言葉は聞き飽きた。これは嫌味ではなく、実際うっとおしいくらい異母兄グースに言われまくっているのだ。兄ならば許す……こともないが対処の仕方は分かっている。それに、兄はフェリシアの言葉に逆らったことはない。そういう面ではかなり我儘な妹だという自覚はあるが、兄の溺愛ぶりが気持ち悪いのだから仕方がない。

 しかし、ギルバートへの対処法は未知だ。その対処法が分かれば、ギルバートを大人しく部屋に帰すことができるかもしれない。

 少し強硬手段に出てみよう。妹馬鹿の兄相手に培った、絶対零度の眼差しと、王女にはあるまじき毒舌で。

「黙りなさい。わたくしが許可するまで口を開かないで」

「え、それじゃあ何も食べられないんですけど……」

「今、口を開いたわね? 今すぐわたくしの目の前から消えて。それから、部屋に戻ってさっさと寝なさい!」

 後半は、暴言でもなんでもなかったような気がするが、強制的にギルバートを部屋に押し込めるための口実はできた。

「嫌です! せっかくの姫との楽しい夕食なのに!」

「性懲りもなくまた口を開いたわね。そんなにわたくしに従うのが嫌なら、包帯でぐるぐる巻きにして崖から突き落とすわよ!」

 崖の上に立つヴェラント城で、この脅しは現実味を増す。

 怪我をしているんだから早く部屋に戻って休みなさい、そう言えたらどんなによかったか。自分の恥ずかしい部分をさらけ出してしまったせいか、ギルバートに対して素直になることができない。それどころか、どんどん白熱してしまって、後には引けなくなってくる。まるで子どもの喧嘩だ。

 しかし、相手は子どもよりもやっかいな変態だった。

「姫の手で私に包帯を巻いてくれるのですか? それは……かなり興奮しますね。是非ともお願いします!」

「嫌よ、気持ち悪い! 包帯を巻くのはザックよ。きっつぅ~く縛り上げられなさい! もう二度とそんな口聞けないように」

「いやいやいや、あんな全身凶器みたいな人に任せたら死にますって! 姫は知りたくないんですか、魔術師のこと!」

 鋼の肉体を持つ護衛騎士ザックの名が出て、ギルバートは初めて焦りをみせた。フェリシアになら殺されてもいいと言うくせに、他の者ではこうまで嫌がるのか。フェリシアが魔術師の情報を欲しがっていることを引き合いに出してまで拒んでいる。

「それなら、仕方がないわね」

 本気で包帯ぐるぐる巻きにして崖から落とされると思ったのだろうか。

 その実に素直な反応に、フェリシアは自然と笑みを浮かべていた。

「あぁ、やはり姫はそうやって笑っている時が一番美しい。もちろん、その宝石のような赤い双眸に睨まれるのも好きですけど」

 明るい空色の瞳が、真っ直ぐにフェリシアを捉える。相対するフェリシアの瞳は血の色だというのに、何故ギルバートは愛おしそうに目を細めるのか。妹を褒めることしか考えていない兄とはまるで違う、胸を熱くさせる何かを感じた。胸がきゅうっと締め付けられ、鼓動が徐々に早くなる。

 ギルバートと話していると調子が狂う。

 これ以上空色の双眸を見つめていたら冷静さを保てなくなりそうで、フェリシアは視線を逸らす。

 そして、フェリシアはザックを呼んで、ギルバートを強制的に部屋へ連れて行くように指示する。もうあれこれと考えるのはやめだ。

 どうせギルバートには回りくどいやり方は通用しない。

「ザックに手当をしてもらったら、図書室に来なさい」

 食堂から連れ出されるギルバートの背に、フェリシアは告げた。礼を言われるようなことなどしていないのに、ギルバートは嬉しそうに「ありがとうございます」と答えた。

 ギルバートが食堂からいなくなり、急に静けさを増した空間で、フェリシアは黙々と料理を口に運んだ。何故だろう、いつもより味が感じられないのは。ギルバートがいた時はとてもおいしかったのに。

(そういえば、誰かと食事を共にしたことなんて、今までなかったわね)

 兄は、ゆっくり食事を共にできるほどの時間がない。使用人達は、フェリシアが一緒に食事をとろうと言っても、その立場からか決してフェリシアの前で食事をとることはない。

 いつしか、フェリシアは誰かと食事をとることは諦めていた。

 フェリシアが幼い頃に諦めたことを、ギルバートはいとも簡単にやってのけた。本人は気付いていないのだろうが、フェリシアにとってこれは大きな出来事だった。

 本気でフェリシアを心配したり、自分が傷つくのもかまわず抱きしめたり、勝手に夕食の席にやってきたり……。

 その行動がすべて純粋にフェリシアのためだとは信じられない。打算や計算がないとも限らない。しかし、ギルバートの言動によってフェリシアの心は乱されて、いつもの調子が出ない。こんなこと、今までにはなかった。

 大嫌いな魔術師ではあるが、「ギルバート」という一人の男として向き合ってみよう。

 そんな決意を胸に、フェリシアは食堂を出た。

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