第2話

「何だって⁉ フェリシアに男ができた⁉」

「違いますわ、お兄様。専属魔術師を付けたの」

 ふうっと息を吐き、フェリシアは背の高い異母兄を呆れながら見つめていた。目を見張るような美しい容貌ではあるが、部屋に入って早々床に倒れ込むのはいただけない。もう二十二歳になるというのに――。

 ディラード王国第一王子である兄グースは、彼いはく可愛くて仕方がない妹の近くに自分の知らない男がいることで、かなりのショックを受けているらしい。

 せっかく整えられていた長い金色の髪は、今はもう見る影もない。動揺のあまり床に頭を打ち付けて暴れているせいだ。絨毯が傷むからやめてほしい。兄が頭をぶつけている絨毯は、フェリシアが暇を持て余して薔薇の刺繍を入れたお気に入りの絨毯である。こんな風に頭をぶつけられるために作った訳ではない。

 フェリシアの部屋には、この絨毯だけでなく、壁紙やカーテンにも薔薇の模様が描かれている。

 薔薇は、愛の神リアトルを示す花として、ディラード王国の国花にもなっている。それは、リアトルが降り立った時、何もない大地に美しい真紅の薔薇が咲き誇った、という伝説からきている。その伝説が信じられているのは、薔薇に魔力が宿っているからだ。

 魔術師は、薔薇の魔力を操って魔術を行使するという。そして、その薔薇を咲かせることができるのはリアトルの血を引く王族だけだ。

 一応、王族であるフェリシアの周りにも薔薇は溢れている。薔薇自体はフェリシアも好きなので、薔薇に囲まれた部屋は逆に落ち着く。この薔薇だらけの部屋は、ほとんど自分の趣味といっても過言ではない。

「どうしてそんな大事なことを僕に聞かずに決めてしまうんだい? フェリシアのことを守るのは兄であるこの僕の役目なのに!」

 ようやく落ち着いた兄は、乱れた髪を整えながら潤んだ紫色の瞳でフェリシアを見る。まるで捨てられた子犬のように哀しげな表情をする兄を見て、フェリシアは溜息を吐いた。

「そうね。黙って決めてしまったことは悪かったわ」

 あの男を専属魔術師とする、と決めてからすでに三日が経っていた。そして、それを異母兄に伝えたのはたった今。わざわざ手紙を出して報告することでもないと思ったからだ。というか、フェリシアが手紙を送った日にはこの兄がどんな行動に出るか分からない。立派に成人した今でさえ、毎日兄から無駄に長い妹への愛を綴った、ポエムのような手紙が送られてきているというのに。

 もちろん、フェリシアは兄のポエムには一度も返事をしていない。というか読む前に暖炉へ放り投げている。初めて兄から手紙をもらった時は素直に嬉しかったが、一行目からどろどろに甘い言葉が並べられていて、ゾッとしたのだ。それ以来、兄の手紙は速やかに暖炉で燃やして浄化することにしている。

「フェリシア、気をつけるんだよ! その男の目的はフェリシアの絹のような蜂蜜色の髪に顔を埋め、その滑らかな白い肌にすり寄り、あげく薔薇の花弁のように愛らしいその唇を奪うことなんだ‼ あぁ、なんということだ……僕の可愛い妹に手を出すなんて、絶対に許さないっ……!」

「……は?」

 兄は妹の非難めいた視線を無視して、ずっとフェリシアの身の危険を訴えている。その表現の仕方があまりにも気持ち悪いので、フェリシアはあえて耳に入れないことにする。

 兄に背を向け、窓辺に近づく。磨き上げられた窓ガラスに自分の顔が映る。兄は蜂蜜色だと言うが普通の金色の髪だし、可愛いとうるさいほどに褒めまくるが兄も十分整った顔立ちをしている。

 しかし、〈災いの姫〉だと言われる自分も、こうして見ると普通の少女のようだ。自分を見返す瞳が、血のような赤でさえなければ。

 フェリシアは、この赤い瞳が嫌いだった。

(お兄様はルビーのようだって言ってくれるけれど……)

 この色は間違いなく血の色だ。国を破滅に導く者の目だからだろうか。血に染まった世界を見ることになるからだろうか。

 これ以上自分の瞳を見たくなくて、フェリシアは窓を開けて潮風を招き入れた。後ろではまだ兄がうるさく喚いている。

 フェリシアの住むヴェラント城は、切り立った崖の上に建てられている。王都から街二つ分離れた、海辺の小さな街ヴェラントの東側。街の人間を見たことは一度もない。おそらく、誰もこの城の存在すら知らないだろう。それは、深い木々に覆い隠され、人を惑わせる魔術が施されているからだ。

 呪われたフェリシアの存在を知れば、どれだけの混乱を招くか分からない。

 生まれたばかりの王女のお披露目に来ていた貴族たちは〈災いの姫〉の存在を知っているだろうが、王女は死んだと聞かされているだろうし、国民は生まれた王女が〈災いの姫〉だなんて知らずに王女は死産だったと思っている。

 森の木々に囲まれ、崖の一番高い場所に立つこの城からは、のどかな街の様子も、遠く離れた王城リーデント城も見ることができた。遠くにそびえ立つ優美な城は美しく、その城を囲む王都シャーリッドの街並みは華やかだった。本来であれば親しみを感じるはずの王城にも、王都にも、フェリシアは何も感じない。王城にいたのは生まれてから七歳までで記憶は薄く、王都にいたっては一度も行ったことがないのだから当然である。

 一つ溜息を吐いて、フェリシアは視線を王城ではなく海へ向けた。穏やかな波を見ていると、少し気分が落ち着く。

 このヴェラント城は、フェリシアを閉じ込めるための鳥かごだ。

 しかし、何不自由なく暮らせるようにと配慮は行き届いている。城内はいつも清潔で、フェリシアが退屈しないように図書室や美術室まで完備されている。それに〈災いの姫〉と呼ばれるフェリシアのためにも、使用人たちはよく働いてくれる。王族付きになることは名誉なことだが、それが〈災いの姫〉となるとまた違ってくるだろうに。

 使用人の数は少ないが、フェリシアには有り難いことだった。


「失礼いたします」

 ノックの音がして、侍女のミリアが紅茶を持って入って来た。

 肩で切りそろえられた黒髪、芯の強そうな黒い瞳を持つミリアは、ハンカチ片手に泣きじゃくる兄グースを見て相好を崩す。十七歳のフェリシアから見ると、四つ上のミリアはとても大人に感じる。

「グース殿下、そのようにお心を荒立てずとも、私共がしっかりとフェリシア様をお守りいたしますわ」

 にっこりと笑うミリアに、兄は少し罰が悪そうに微笑んだ。

「あぁ、分かっているんだよ。君たちがいてくれればきっとフェリシアは大丈夫だろうって。でもね、やっぱり心配なんだよ。毎日こうやって会いに来られる訳じゃないから……」

 第一王子である兄は、もちろん王城に住んでいる。フェリシアのヴェラント城に来るためには、街二つ越えなければならない。馬で急いだとしても約半日はかかる。第一王子である兄は、父ヘルベルトについて公務に関わったり、会議に出たり、領地に視察に行ったりと、かなり忙しい。最近では王立騎士団の指揮も任されるようになったらしい。こんなのが騎士団長で大丈夫なのか、とフェリシアは兄ではなく王立騎士団が心配になる。

 とにかく、王都に仕事を抱えている兄は王都を頻繁に離れる訳にはいかないのだ。

 昔のように毎日兄と会えなくなるのは、フェリシアだって寂しい。〈災いの姫〉であるフェリシアを心配してくれるのは、兄グースだけだ。父は一度も会いに来たことはないし、母はフェリシアを心底嫌っている。

 しかし、会う度に激しい兄の反応を見ていると、もうずっと離れていてもいいかな、と思ってしまうのである。

「お兄様、紅茶でも飲んで落ち着いてください」

 テーブルに並べられた紅茶とお菓子。フェリシアが背の高い兄をエスコートして椅子に座らせると、兄はぶつぶつと何かつぶやきながら紅茶を一気に飲み干し、お菓子を口に詰め込んだ。ゆっくり紅茶でも飲みながら話をしようと思っていたフェリシアは、兄をじっと見た。一体何をするつもりだ、と。

「決めたぞ、フェリシア! 僕は今からその男に会う! 可愛い妹の側における男かお兄様が確かめてやる!」

 そう意気込んで、兄は扉に控えていたザックを呼んだ。

「フェリシアに近寄づいた馬鹿はどこにいる?」

 がっしりとした体格で強面の護衛騎士ザックが、兄の前に渋々跪く。焦茶色の短い髪、鋭い藍色の瞳をした彼は、今年で二十三歳になるのだが、どう見ても三十代後半にしか見えない。それとは対照的に、彼と一つしか変わらないグースは年相応に若々しく、金色の髪は輝き、紫の瞳は澄んでいて、いかにも王子様然とした美しい顔をしている。

 王子でありながら騎士学校に通っていたグースは、ザックの後輩にあたる。騎士学校で何故か兄に気に入られてしまったザックは、自分は王族と関われる身分ではない、と避け続けていた。その本心は、爽やかできらきらした容姿の王子様の世話係など気を遣うわいたたまれないやらで増々老け顔に見られてしまうからなのだが、兄はザックの意志など全く気にせず一緒にいたという。王族としての傲慢さと大胆さで、兄は逃げるザックを追い回し、無理矢理彼を落とした。二人の付き合いはそれから始まり、今では周囲に親友としてザックを紹介している。だからこそ、兄はフェリシアの護衛騎士に彼を推薦した。

 フェリシアの側にいる使用人達は皆、兄が選んだ信用できる者ばかりである。ミリアの母は兄の乳母だったため、幼い頃からグースはミリアにフェリシアのことを頼んでいたという。フェリシアの家庭教師であるビートは兄の教育係であった人でもあるし、シェフのロッカスもグースがその人柄と腕を見込んで紹介してくれた。

 だから尚更、勝手に専属魔術師を側に置いたことが心配なのだろう。フェリシアが何をしても、兄はきっと大袈裟に心配するのだろうが。しかし、誰かに心配してもらえるというのは純粋に嬉しいものである。それにしてもまあ、限度はある。

 ちらり、と確認するようにザックはフェリシアを見た。もう好きにさせて、というように頷くと、渋い顔をしたザックは一礼し、兄に「こちらです」と言って扉の外に消えた。その後ろを兄が追う。

「フェリシア様、よろしかったんですの?」

「えぇ。どちらにせよお兄様には紹介しようと思っていたから」

 ミリアの問いに、フェリシアは薄く微笑みを浮かべて答えた。

 あの男の名はギルバート。殺されかけても呑気に笑っていられる異常な精神の持ち主だ。

 兄は、あの男をどう思うだろうか。

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