第2話 先生

 私のお父さんが交通事故で亡くなったのは、つい一か月前のこと。

 元々母がいない父子家庭で育った私は、自他ともに認めるほどのお父さんっ子だった。友だちから、みんなのお父さんの愚痴を聞くことはよくあったけれど、私は一度もお父さんに対して不満を抱いたことはなかった。

 大好きなお父さん。私だけのお父さん。かけがえのない、大切な人。

 いつも私が一人で辛い時に声をかけてくれた。くじけそうになった時に励ましてくれた。泣きそうになった時に抱きしめてくれた。友だちよりも、学校の先生よりも、誰よりも私のことを理解して気にかけてくれる人がお父さんだった。お父さんさえいれば、他になにもいらないとさえ思っていた。

 そんなお父さんが死んでしまったのは、私のせいだ。

 通っていたピアノ教室の発表会の日、私は友だちと一緒に電車で発表会会場のホールに向かった。「娘の晴れ舞台だから絶対に観にいくよ」そう笑顔で言ったお父さんは、会社の有給を使ってまで休みを作ってくれた。

 私が弾く曲は、エリック・サティ作曲の『ジムノペディ 第一番』。ホールへ向かう直前の家でも、本番直前の控室でも、私は最後まで練習を重ねていた。ジムノペディのようにテンポが遅い曲は、少しでも不調和が生じるとすぐに気づかれてしまう。速ければごまかせることも多い――あくまでそこまで気にならないという意味で――のだが、私はテンポが狂わないようにすることがとても苦手だった。ピアノを触っていない時にも脳内でメロディーが流れ、指が勝手に鍵を叩くようになるまで、私は練習した。お父さんが初めて発表会に来てくれるということで、いつにも増して力を入れていたのだ。

 発表会の当日は、台風が接近しているということで、雨や風が強く吹き荒れる悪天候だった。叩きつける雨にワイパーは追い付かず、車を運転していると非常に見通しが悪い。豪雨のせいで、たった数メートル先の景色も見えなかった。そのことが原因だったか定かではないが、ホールへ車で移動していたお父さんは、対向車線のスリップした車と衝突事故を起こした。即死だったそうだ。

 発表まであと数分となった時、控室へピアノの先生が青い顔をして駆け込んできた。いつだって厳しい顔で私を叱りつけた先生が、その時ばかりは私にどう声をかけたら良いか迷っているようだった。手も幾分か震えていたような気がする。それを見た時、私はとてつもなく嫌な予感がした。

――もし私が「発表会には参加しない」と言っていたら。もし私が「お父さんは来なくていいよ」と言っていたら。もし私が「ピアノは習いたくない」と言っていたら――お父さんは死ななかったかもしれない。

 お父さんが死んでしまったのは、私のせいだ。私が、お父さんを殺したのだ。

 

 それから、私は親戚の人に引き取られた。お父さんの兄にあたる人物だった。彼はとても良い人で、死のショックから学校へ行けなくなってしまった私のために、家庭教師を雇ってくれた。それが、『先生』だった。

 先生は、人との距離を測ることに長けた人だった。決して踏み入ってはいけないところへ行こうとはしないし、逆に、こちらがどこまで踏み入って良いのかも上手く感じさせてくれる。心地よい距離感を保てていた。

 そのこともあって、私と先生は最初の二週間はまともに喋ることもせずに、プリントをこなすだけの作業を延々と続けていた。「こんにちは、今日からきみの家庭教師になりました」にこりともしない無表情でそう言った先生に、私はどのような印象を抱いたのだろう。過干渉なタイプではなさそうだな、とかそんなことを思った気がする。先生に対し、さして興味を抱いてはいなかった。

 そんな先生の印象が大きく変わったのは、とある出来事がきっかけだった。

 息抜きでもしようと自室を出て廊下を歩いている時、リビングの方から「本当にいいの?」という叔父さんの声が聞こえてきた。続けて「大丈夫ですよ、暇なんで」という先生の声も聞こえる。

 私は扉の前で立ち止まって、中の会話に耳を傾けた。

「でもさ、やっぱり悪いよ。こんなに長い時間拘束しちゃってるのに......」

「そんな長い時間でもないですよ」

「いいや、十分長い。朝から晩までじゃない」

「まあ、院生っていうのは意外に暇なものなんですよ。特に親しい友人もいないし」

「そうは言ってもさ......」

「久しぶりに高校の勉強もできて楽しいんです。ほら、証明とかって楽しいですよね。パズルを組み立てていく感じで。言い方は悪いけど、この仕事はぼくにとって暇つぶしみたいなものなんです」

「ほしいものとかないの?」

「ないですね。実家暮らしなんでお金はかかりませんし」

「いくら実家暮らしっていったって、服とかいろいろあるでしょう? 少しだけでも受け取ってもらわないと僕も困るよ」

「本当に大丈夫ですって」

 先生は軽い調子で笑った。叔父さんはそれに「でも」と食い下がる。彼が先生に何を言ってもひらりとかわされてしまうようだった。

 会話の中で、どうやら二人は家庭教師のバイト料金について話している。おそらく、先生は私に無償で勉強を教えていた。そんなこと、思ってもみなかったことだ。親を亡くした私に、高校へさえ行けなくなってしまった私に同情しているのだろうか。そう思うと、胸の奥がツキンと痛んだ。

 私が先生に興味を抱いていないのと同じように、先生も私に興味を、同情心を抱いていないものだと思っていた。そう思っていたからこそ、心地よく過ごせていたのに。これじゃ台無しだ。

 くすぶる嫌な気持ちへ追い打ちをかけるように、叔父さんは溜息を吐いた。

「いやあ、正直言って、僕、あの子のこと嫌いなんだよね。いつまでも『お父さん、お父さん』ってめんどうじゃない? 君にも悪いと思ってるんだよ、あんな子を押しつけちゃってさ。だから少しでもお金を受け取ってもらわないと良心が痛むんだ」

 心底うんざりしたような言い方だった。「本当、こっちまでジメジメしてきちゃうよ」笑いながら吐かれた言葉は、鋭さをもって胸に突き刺さる。

 叔父さんのことは嫌いでも、好きでもなかった。いつもニコニコしていて、本心がつかめないような人。でも、私みたいな人を引き取って家庭教師までつけてくれる、そんな良い人だと思っていた。

 鼻がツンとして思わず涙が溢れそうになる。やっぱり、私の味方はお父さんしかいなかったんだ。

 しょうがない。しょうがない。私なんてそう思われて当然の人間なんだから。何度も言い聞かせるけれど、私はどうしても溢れる涙を止めることはできなかった。

 もうこれ以上ここにいるのはよそう。そう思って、ドアに背を向けた時だった。

「そういうこと言うの、やめたほうがいいんじゃないですか」

 強く制止するような声ではない。むしろ、どうでもいい世間話に相槌をうつような声だった。

「まあ、人間そんなに早く立ち直れるものでもないと思いますよ。亡くなったのが唯一の身内であるならなおさらですし。事故からまだ一か月も経ってないんですよね? なら、いきなり立ち直れなんてのも酷でしょう」

「それはそうかもしれないけどさ......」

「......とりあえず、彼女はしばらくそっとしておいてください。大切な人を失った悲しみは本人にしか分かりませんから。あと、給料はいりません」

「あ、ちょっと!」

 先生がこちらへ歩いてくる音がして、私ははっと意識を取り戻した。どこかへ隠れなければいけない。そう思ったけれど、行動する前にドアは開いてしまった。

「......」

 無言で目が合う。あちらから私の姿は見えないようだったが、先生と私はバッチリと目を合わせてしまった。急いで濡れた頬をぬぐう。目元が赤くなってしまうほどに強くこすった。先生の瞳は、今、私をとらえている。こんな情けない姿を見られたくなかったけれど、いくら手で涙をぬぐっても、その涙は頬を流れ続けた。

 それから私は、気まずい思いをしながら先生と一緒に自室に戻った。部屋には沈黙だけが流れている。二人きりの時間がこんなにも居心地悪く感じたのは初めてだった。

「......ごめんなさい」

 最初に沈黙を破ったのは私だった。

「あんなこと、聞かせてごめんなさい」

 いくら他人事とはいえ、聞いていて楽しいものではなかっただろう。世間的に見れば、叔父さんは可哀想な子どもを嫌う悪者になってしまう。だからこそ、先生は叔父さんに反論したのだ。決して同情などではなく、大人としてとるべき行動をとった。多分、きっとそうだ。

 私の言葉を聞いて、先生は何も言わなかった。いつも通りの無表情のまま、ただ添削し終えたプリントを渡して「これ、赤のところやり直しね」と一言だけ。

 部屋には、再び沈黙が流れた。ペンが紙を滑る音しか聞こえない。だから、先生がいきなり「俺はさ」と言った時には心臓が破裂しそうなくらい驚いた。私の解答に赤ペンをはしらせながら、まるで世間話でもするような気軽さで言う。

「俺は別に嫌いじゃないよ」

 一瞬なんのことを言っているか分からなかった。数秒経ってから、ようやく叔父さんの話だと理解する。叔父さんは私のことを「嫌い」だと言ったけれど、先生は「嫌いじゃない」と言ったのだ。

 私は何を言うべきか分からなかった。「ありがとうございます」? 「気を遣わないでください」? 先生は解答用紙から顔を上げて、ポケットに手を入れた。そして、何かを取り出して机に置く。

「ほら、食べてみて」

 そこにあったのは、小さなイチゴのチョコレートだった。先生は、少しだけ口角を上げる。

「前に言ってたでしょ? このチョコは昔に食べてまずかったから、それ以来食べてないって。今食べたら美味しいかもしれないよ」

 パッションピンクのパッケージが目に痛い。蛍光色の花に囲まれたチョコのマスコットキャラクターが、こちらに向かって微笑んでいる。誰が買うのか分からないほどに毒々しいチョコだ。

 先生、よくそんなこと覚えてたな。最近どこにも売ってないのに、なんでそれを持っているんだろう。少し笑ってるし。いろいろ思うことはあったけれど、結局行きついたのは、これが先生の優しさだということだった。先生はなんでもないような顔をして、こんなことをする。さっきの私をかばうような言葉だって、きっと紛れもない先生の優しさだったのだ。

「......チョコ、食べてみます」

 私はチョコを手に取った。普段なら絶対食べないような、アメリカンテイストの毒々しいチョコ。口に含むと吐き出したくなるくらい甘い味が広がっていったけれど、それをまずいとは思わなかった。

「私も、嫌いじゃないです」

「やっぱり。味の好みって年齢によって変わるからね。大人になったら『嫌いじゃない』から『好き』に昇格するかもしれない」

「......『好き』は多分ないですけど」

「本当にそうかな。昔の『嫌い』が段々薄れていって、今『嫌いじゃない』になったんでしょう? それなら、きっと未来では『好き』になってるよ」

 先生はそれだけ言うと、再び解答用紙に目を落とした。真剣に赤ペンを握る姿は、一見似ても似つかないようなあの人の姿に似ていた。

 一人で辛い時に声をかけてくれる。くじけそうになった時に励ましてくれる。泣きそうになった時に抱きしめてくれる。

 一つ一つの行動がそっくりな訳じゃない。あの人は私に直接優しさを与えてくれた。腕の中に私を隠して、全ての敵からなにもかもを守ってくれた。けれど、先生は違う。励ましても、抱きしめてもくれない。その代わりに、見えない優しさで包んでくれた。注意していなければ気づかないほどに、まるで空気のように、自然と存在している。

 思い返せば、私が先生の優しさに助けられたことは何度もあった。

 とある雨の日、私はお父さんのことを思い出して我慢できないほどに体調が悪くなった。けれど、私はそのことからお父さんを連想されるのがどうしても嫌で言い出せない。そんな時、先生はただ用事ができたと言って帰っていった。

 普段からほとんど喋らなかったのも、必要以上に距離をつめてこなかったのも、全てが先生の優しさだった。私が何も言わなくても、私の全てを分かっているように気持ちを汲んでくれる。私にとって先生は、お父さんと同じくらい大切な人になった。

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