ジムノペディ 第一番

櫻井雪

第1話 お父さん

「いいんですか? こんなところに来てしまって」

 私はおどけたように言った。

 もう陽は落ち始めている。赤くなった太陽の光が私たちの影を長くしていった。目線の先には、寒さなんてもろともしないサーファーや、手をつないで歩く恋人たち、犬と一緒に散歩する老人もいるというのに、まるで二人きりの世界に閉じ込められてしまったような感覚がする。

「いいんじゃない、別に。もちろん、きみが変なことを言いださなければだけど」

 肩が触れ合いそうな距離。そんな近くから聞こえた低い声に、私は自分の緊張やら羞恥やらの感情が伝わらないようにすることで頭がいっぱいだった。

「変なことってなんですか?」

 何も知らないフリをしてそう問うと、先生は喉で笑った。

「きみももう高校生なんだから想像くらいつくでしょ。ニュースになっちゃうようなことだよ。『イケメン家庭教師、生徒を誘惑!』みたいな」

「自分でイケメンって言わないでください」

「しょうがないじゃない。イケメンだから」

「いい歳した大人が恥ずかしいですよ」

 いつもの軽口を叩いて、私は遠くを見つめた。――大好きな先生と二人きりで海にいるのに、どうしてこんなにも悲しい気持ちになるのだろうか。押しては返す漣波を見ていると、なんだか無性に泣きたくなってくる。

 頭の中には、サティのジムノペディが流れていた。Lent et douloureux――愁いを帯びたメロディーは、ゆっくりと苦しみをもって、体の隅まで行き渡っていく。

 だめだ、こんなことを考えていちゃ。今、私は先生と一緒にいるんだから。

「優子」

 なんの前振りもなかった。突然かけられた言葉に、どきん、と胸がはねる。

 俯きがちになるのを隠しながら、私は砂に指で線を描いた。

「いきなりなんなんですか」私の口から出されたのは思いの外弱弱しい声で、ああ、失敗したな、と思う。震えてさえいなかったけれど、どうしても内にこもる思いは溢れてしまった。

 しかし、先生はそれについて言及することはなく、ただ一言だけ、簡潔に言った。

「どうしてほしい?」

 思わず砂をいじっていた手を止めしまう。丸、三角、四角。意味もなく描かれた模様たちが不格好なまま放置された。すぐ言葉を返すこともできず、私と先生の間には波音だけが置き去りにされる。

――ああ、また失敗だ。私ったら、なんて出来損ない。どうして、普通にふるまうことさえできなくなってしまったんだろう。

「だからなんなんですか、もう」いつもの調子で、おどけたように、私は笑顔を作った。私は悲しんでなんかいないよ。ほら、いつも通り笑っているでしょう? 自分がひどく滑稽なことをしている自覚はあったが、そうすることしかできなかった。でなければ、今にも彼に縋りつきたくなってしまいそうだったから。

 先生は普段の飄々とした態度はどこかへ置いてきてしまったように、真剣な顔をしている。無理やりあげた口角が、どんどん歪んでいくのを感じた。

「きみは俺に、どうしてほしいの?」

――どうしてほしい? どうしてほしいの? きみは俺に、どうしてほしいの?

 先生の言葉は脳内で反響し、何度も繰り返された。そして、繰り返すうちに段々と音程を変え、ついには不協和音になる。それに合わせて平衡感覚さえも失われていくような気がした。

 そんな中でも、あのメロディーは絶える間ことなく流れている。四分の三拍子のゆったりとしたメロディーは、長い歴史の中で、傷ついた人々の心を幾度となく癒してきたのだろう。たしかに祈りの曲であったはずなのに、今ではまるで呪いの曲だ。

 土曜日の半日授業が終わってから突然海に行こうと誘われて、私は黙ってついてきた。それだけだから、先生になにかをしてほしいわけじゃない。しかし、それは簡単に口に出すことができる言葉ではなかった。

 黒曜石を思わせる黒い瞳に見据えられると、心の奥底まで見透かされているような気分になる。私が知らない私まで見つけられてしまうような、そんな気がした。

「......別に、してほしいことなんてありません」

 震えそうになる声を必死に支えながらそう言うと、先生は「いいや」と私の言葉を否定した。

「嘘でしょう? 今なら、なんでも叶えてあげるよ」

 囁くように告げられたその言葉は、毒か何かのようにじんわりと体の中に入っていって、心臓さえもしびれさせた。どくん、どくん、と胸の奥が大きく脈打っている。胸に手なんか当てなくても、それがはっきりと感じられる。

――なんでも叶えてあげる。そんなこと、急に言われたって分からない。今、私のすぐ隣に座っているのは大好きな先生。かけがえのない、大切な人。そんな先生にしてほしいこと......それってなに?

 風が海へ流れていく。その風に押されるようにして、私はいつの間にか言葉を発していた。

「キス、してください」

 上空でトンビが鳴いた声がして、それからようやく自分の言った言葉を理解する。体中の血液が顔に昇っていった。

 制服の袖をぎゅっと握る。もう、なにもかもだめになってしまった。こんなことを言ってしまったら、もう元の関係には戻れない。「冗談ですよ」笑って言えばいいのは分かっていたけれど、私の口は一文字を結んだまま動かなかった。

 いろんな感情が一気に押し寄せてきて、私はついに俯いてしまった。このまま海の泡になって消えてしまいたい。人魚姫のように綺麗に消えられるなら、もういっそ今死んだっていい。そう思った時、頬に大きな手が触れた。

「いいよ。しよっか、キス」

 顎に手がかけられて、そのまま上を向かせられる。十センチくらいの距離に先生の綺麗な顔があった。

――ああ、私にとって、先生って一体どんな存在なんだろう。他の友達とは違う、特別な存在。それははっきりと肯定することができる。一人で辛い時に声をかけてくれた。くじけそうになった時に励ましてくれた。私が言えないことも、いつも......

 吐息も触れる瞬間、私はとっさに先生の肩を掴んでいた。

「どうしたの?」

 先生の顔は、冷たいと感じさせられるほど真剣だったけれど、

――大丈夫、言ってみなよ。

 優しい声で、そう言われた気がした。

「先生......」

「なに、怖くなっちゃった? 大丈夫だよ、ここには学校の人なんていないから」

「そうじゃなくて......私、先生にキスしてほしかったわけじゃないんです」

 そう言うと、先生は少し目を丸くした。

「そうなんだ、てっきり本気で俺にキスしてほしいのかと思った。......からかわれちゃったかな。キスしてほしい、っていうのが嘘なら、きみの本当にしてほしいことはなに?」

「......抱きしめてください」

 そう言ったら、頭の中に流れていた雑音は一瞬で姿を消した。その代わり、先生の嬉しそうな笑い声が耳に入る。

「そんなの、どっちも変わらないじゃない」

 先生の大きな腕で抱きしめられると、すごく安心した気分になれた。いつもの癖でゆっくり彼の匂いを吸い込むと、シトラスの良い香りが肺を満たしていく。普段、先生は香水なんてつけない。今日に限って、悪い人だ。私も先生の背中に手を回して力いっぱい抱きしめる。

「優子、赤ちゃんみたいだよ」

 そう笑われても、私は腕の中の人を離したくなかった。

「先生、大好きです」

 なんの戸惑いもなく、その言葉はすんなりと出てくる。言葉にすると、それがずっと前からあったもののように心に馴染んでいった。傷だらけだった心が、その言葉で癒されていく。

 本当は「大好き」なんて簡単な言葉じゃ片付けられない感情だった。先生は今、私にとって誰よりも大切な人だ。

「先生、もう少しこのままでいていいですか?」

 溢れ出る涙を隠したくてそう言うと、先生は「うん」と軽く返事をした。

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