おふくろの味

A(C)

おふくろの味

 匂いが僕に話しかけてきた。いつ雨が降ってもおかしくなさそうなアスファルトの匂いの中に、ふいに紛れ込んできた油の匂いだ。腹が減っていたわけではなかったはずなのに、ソイツが人差し指を立てて僕を招くから。東京の何処とも知れぬ路地に、スーツが一人迷い込んだ。

 配管を三度くぐるとボロボロのコンクリートとトタンを踏んだ先に銅製の扉が見える。すっかり緑青にまみれたその扉には、白いペンキで「キッチン」とだけ。ノブには「ご自由にどうぞ」のかけ看板。小さいモノだが、僕を安心させるには充分だ。ドアノブがガチャリと回すと、ちょうつがいがキーキー鳴くのだ。ゆっくりと中を覗いてみれば、カウンターの一番奥には、読売を広げる男がいた。

  

 「ああ、客か」


 新聞をカウンターに投げ出しておもむろに取り出したのはコック帽。そのまま立ち上がってキッチンでフライパンを振り出した。



「え、まだ注文してないですけど」      「うちは、注文受けてないから。」


「なんだ、食わないのかい」            「そういうの初めてでして」


「そうかい」                          「楽しみだ」


「食うんだろう」                      「いただきます」


「待ってな」                          「待ちます」


「んん」                              「ふふ」


             匂いが僕を抱きしめるのだ。


「あ」                                「ん」


「なんだい」                          「知ってる」


「静かにしてな」                      「いや、解った」


「そうかい」                          「母さん。」


「母さんの、ハンバーグだ」            「面白いことを言うやね。」


「ハンバーグなんてどこも一緒さ」      「いいや、これは母さんの匂いだ」


 青髭のうっすらとした頬が上気しているのは、きっと油を敷いたフライパンのせいじゃない。目尻に光る涙は、きっとたまねぎのみじん切りのせいじゃない。

 それでも手だけはパキパキと動き続ける。タネができて焼き目がついている間に、まっさらな平皿に茹でたブロッコリーと冷凍のベジタブルミックスを盛っておく。飾り気のない真っ白な平面に肉塊が鎮座する。


「はいおまちどう」


「ケチャップはかけなくていいの、母さん」


「…忘れてた、今かけるよ」


 カゴメのケチャップを逆さにして冷蔵庫に入れるところまで変わっていない。不運な音を鳴らしてケチャップを吐き出した時に、顔をしかめるのも変わっていない。


「美味いよ」


 涙は流れなかった。舌は結局覚えていたのだ。あの食卓の空気を。午前六時のビニールランチョンマットが敷かれた小さな食卓に、母は僕が食べ終わるまで決してつかなかった。今も男は僕に背中を向けてフライパンの手入れをしている。

 そういえば、温かいハンバーグを食べたのは初めてかもしれない。

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おふくろの味 A(C) @Xavier_AC

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