兄と妹（オリジナル版）

禁忌

　後に、ヨーロッパと呼ばれるようになる地域にあった、本当に小さな村。そこに住むアウディとアンの兄妹は、今日もこっそり森に入っていた。

　この森は危険な動物が希に出るため、子供だけの立ち入りは固く禁止されていた。

「ねぇ、お兄ちゃん。今日はもう少し先まで行ってみない？」

　村の壁が見えるこの場所、何かあってもすぐ助けを呼べるが……アウディもこの場所に飽きていたのは事実だった。

「よし、行ってみよう」

　アウディは何かあった時に備えて持ってきた、錆びた小さなナイフを片手に握り、妹の手を引いてゆっくり森の奥に進んでいった。

　木々が濃くなり、太陽の光がどんどん遮られていく。今や夜とほとんど変わらない。こんなに深い森だったとは、二人は予想もしていなかった……。

　二人がソロソロと進んで行くと、小屋というには少し大きく家というには少し狭い、粗末な建物が見えてきた。

「あれ、こんな場所に住んでいる人がいる？」

　アンが声を上げた。

　無理もない。「絶対に森の奥に行くな」と親から言い含められてはいたが、こんな建物があるなどとは、全く聞かされてはいなかったのだから。

「行ってみよう！！」

　子供の好奇心とは、時に警戒心を上回る。二人はその建物に無警戒で近寄っていった。

「あら、まぁまぁ！！」

　建物から出てきたのは、人の良さそうな笑みを浮かべた老婆だった。足でも悪いのか、手には杖がある。

「可愛い子たちね。今、お茶を淹れるから飲んでいきなさい」

　老婆に案内されるままに、アウディとアンは家の中に入っていった。これが、全ての始まりとも知らずに……

　老婆とお茶を共にして、時間はゆっくり過ぎてゆく。気が付けば､すっかり夜の時刻になっていた。

「まぁまぁ、ごめんなさいね。すっかり時間を忘れてしまったわ。今夜は泊まっていきなさい。今からだと、村に帰るのは危険だから」

　アウディとアンは顔を見合わせた。もし泊まったら、確実に親にバレてしまう……いや、もう手遅れだろう。こんな時間まで遊べるのは、この森しかないのだから。

　どうせ怒られるならと、二人は老婆の申し出をなんの疑いもなく受けてしまった。これが最初の失敗だったと気が付くには、まだ時間が必要だった。

　三人でささやかな夕飯を取りしばしの歓談の後、アウディとアンは床に入った。窓から心地よい風が入るいい夜だった。

「さて……」

　皆が寝静まった頃、タイミングを見て老婆は一人部屋を出た。

「お茶と夕食に混ぜた『触媒』で準備は完了ね。あとは……」

　ほんの僅かな声で、老婆は呪文を紡ぐ。今そこに迫る危機に、熟睡しているアウディとアンが気が付く術はなかった。

『ん？』

　むわっとする土の匂いに、アウディはゆっくり目を開けた。いきなり目の前に飛び込んできたのは、太い棒状のなにかで作られた格子だった

　なんだこれ？　と動こうとしたが、どうにも体の様子がおかしい。思うように動けない。アウディの頭の中は混迷の極地に達した。

「あらあら、お目覚めかしら」

　老婆の声が聞こえ、格子の向こうにその姿が見えると、アウディは精一杯叫んだ。しかし、人の声は出ずにブゴーともブフォーとも言えない「音」しか出なかった。

「あら、気に入ってくれたみたいね。これが今のあなたよ」

　老婆は手に持っていた折りたたみ式の鏡を、これ見よがしに開いて見せる。……豚だった。隣には同じように豚がいる。状況から考えて、アンである事は明白だった。

「あえて頭は人間のまま、体を完全な豚にしてあげたの。その方が楽しめるでしょう？」

　老婆はこの上なく上機嫌で笑った。この時にいたって、初めてアウディは森の奥に行っては行けない理由を悟った。もう、手遅れではあったが……。

　しばらくして、アンがゆっくり体を起こしたが、錯乱状態に陥り体を檻にガンガンぶつけ始めた。これが普通だろう。アウディが冷静でいられたのは、妹がいるからである。お兄ちゃんはいつもこうなのだ。そうするよう、物心つく前からインプットされのである。

「さあさ、朝ご飯にしましょう。今用意するから待ってなさい」

　老婆は檻の前から立ち去った。隣のアンを見ると立ち尽くしている。泣ける体なら泣いているだろう。

『これは大変な事になったぞ……』

　心の中でアウディは呟いた。実際、大変なのはこれからだった。

「……」

　供された「朝食」は、いつのものかも分からない残飯そのものだった。

　アウディとようやく落ち着いたアンが顔を見合わせていると、老婆がガンと杖で檻の格子を叩いた。

「あなたたちはもう私の子豚なの。なんでも貪り食べないとダメよね？」

　いつもの柔和な笑顔。しかし、その目は笑っていなかった。

　こうして、二人の尊厳はどんどん剥がされていく。なまじ人間の思考が出来るだけに、それはそれは苦痛に満ちたものだった……。

「フォゴー！！（トイレ－！！）」

　最初に訪れたものはこれだった。生きているのだから、当然生理現象はある。いっそ動物の頭なら、こんな事など悩まなかったはずだ。しかし、人間の頭がしっかり残っているために、このこと一つとっても大きな問題となる。

　二人とも変な味は感じたのだが、やはり朝食に供された残飯は傷んでいた。しかし、脅され半ば無理矢理食べさせられた結果、とんでもない腹痛が襲ってきた。

　しかし、叫べど叫べど老婆は姿を見せなかった。こうして、また一つ、尊厳の欠片が消えた……。

　翌日、食事はさらに酷くなった。明らかな悪臭が漂い、もはやそれは生ゴミというものだった。しかし、老婆には逆らえない。吐きそうになりながらも、二人はなんとか飲み下した。そんなものを三食きっちり食べさせられ、腹痛でのたうち回る。子供の二人には、あまりにも過酷だった。

　アウディはようやく思った。親の言うことは聞いておくものだと。しかし、もう遅すぎた……。

　五日目の朝を迎えた。

　憔悴しきった二人には、もはや、なにも考える力は残っていなかった。いっそ、殺して欲しい。それすらも考えられなかった。

「まぁまぁ、元気がないみたいね。注射してあげないと……」

　腐った食事を持ってくる事くらいしかしていなかった老婆が、庭にある納屋に入っていった。

　しばらくすると、どこにそんな力があるのか、一抱えくらいの小さいが重そうな炉と細長い鉄の棒の先に短冊形の鉄板がついた、なにか得体の知れないものを持ってきた。

　アウディは本能的に危険を感じ、身を起こして構える……気持ちだけは。アンは、もはや動く気力すらない。ただ、地面に横たわっているだけだった。

「さぁ、治療を始めますよ」

　老婆がパチンと指を鳴らすと、炉の中に真っ赤な火が点いた。ゴーゴーと凄い音がする。アウディの脳裏には、もはや嫌な予感しかなかった。そして、それは的中した……。

　老婆は長い棒の先に付いた、短冊形の鉄板を真っ赤になるまで炉で熱し、それをまず立ち上がっていないアンの体に押し当てた。

「ふぉごぉぉぉ！？（ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ！？）」

　半狂乱の声を発しながら飛び起きるアン。その暴れるアンにしつこく鉄板を押しつける老婆は、あくまでも笑顔のままである。焦げた肉の匂いがする……。

「じゃあ、次はあなたね。お兄ちゃんだから、「お薬」を多めにしておかないと……」

　老婆は熱した棒を両手に一本ずつ取った。

「ふごぉぉぉぉ！？（よせぇぇぇぇぇ！？）」

　もはや、「お兄ちゃん」ではなく「ただの豚」だった。妹の事など気遣っている余裕など、どこにも残されてはいなかった。

「はいはい、いい子ね」

　悪夢の時が来た。二本の焼きごてが腹の辺りに押しつけられる。

「ふ、ふごぉぉぉぉぉ！？（ぐああああああ！？）」

　一瞬、意識が遠くなりそうになる。激痛は数秒間だったが、アウディにとっては永遠にも近い感覚だった。そして、悪夢は過ぎ去った。

「元気になったみたいね。元気がなくなったら、また注射してあげるから安心してちょうだい」

　老婆は人の良さそうな笑みを浮かべると、炉はそのままに建物に入っていったが、アウディもアンもその姿を見ていない。なぜなら、痛みで地面をのたうち回っていたのだから。

　アウディとアンが豚にされて一週間も過ぎた頃、村から様々な武器を持った男たちが訪れた。

「あらあら、そんな子供たちは知りませんねぇ」

「とにかく、家を改めさせてもらう！！」

　男たちはドカドカと家の中に入っていく。庭の檻で必至に鳴く豚になど気にも留めず……。

「ふごぉぉぉぉぉ！！（ここだ、ここにいる！！）」

「ごふごおぉぉぉ！！（助けて！！）」

　最後の理性と力を振り絞り、アウディとアンは全力で声を上げた。しかし、その思いは届かない。男たちは建物の中に残らず入ってしまった。強烈な絶望感が二人を襲った。

　冷静に考えれば無理もない。まさか、豚にされているとなど、誰が想像するだろうか……。

　いくら探しても、子供の痕跡はない。無駄足だったかと思った時だった。

「お前さん、孫でも遊びに来ているのか？」

　男の一人が老婆に聞いた。

「はい？」

　変な声で答える老婆、その目がふらついている。

「小さな外套が二つある……」

　当たり前過ぎて、老婆ですら見落としていた。確かに、玄関の外套かけに小さな外套があった……。

　先に動いたのは、男たちの方だった。老婆が呪術を使うより先に、その体を叩き斬っていた。崩れ去る老婆は、簡単に絶命した。

「よし、今日はここまでにしよう。少なくとも、この家に立ち寄り、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。それが分かっただけでも進展だ」

「ああ、さすがに疲れたぜ」

　男達が次々に武器を下ろす。

「さて、晩飯どうする？」

　もうそんな時間だ。男たちはずっと広大な森の中を歩いてクタクタだった。その時、外で激しく鳴く豚の声が聞こえた。

　男の一人が言った。

「よし、あの豚を頂こう。二匹いるからちょうどいいだろう」

　全員が乾燥食料には、飽き飽きしていたのだった。

「ふごごぉぉぉぉ！！」

　とにかく鳴き続けろ。アピールしろ！！

　アウディとアンは諦めずに声を上げ続けていた。あれだけいれば、勘のいい奴が一人はいるだろ！！

　それは、アウディの希望的観測ではあった。しかし、もうそれにすがるしかなかった。

「ふごぉぉぉぉぉぉぉ！！」

　アウディとアンにかけられた呪いは、術者が死んでも解除されなかった。

　正式に解呪しないと人間には戻れないという、非常に厄介な術だったのである。

　その術者である老婆が死んだ今、もう誰も元には戻せない……。

「ぶふぉぉぉぉ！！」

「ごぉぉぉぉぉ！！」

　そんな事など、アウディやアンが知るはずもなかった。絶望感に負けず、必至のアピールを続ける。

　そこに、男たちが数人出てきた。全員屈強な連中だ。村の者ではない。傭兵でも雇ったようだ。

「ぶふぉ！！（やった！！）」

　喜んだのもつかの間、なぜか男たちはいかにも斬れそうな剣や斧を手にしている。

　な、なんで？？

　アウディは混乱の極地に達した。その間にも無理矢理檻から引っ張り出され、わけの分からないまま抑え込まれ……。

「うわぁ！？」

「な、なんだこりゃ！？」

　二匹の豚を殺した瞬間、それは探していた男の子と女の子の亡骸に姿を変えたのだった……。