中村夢路

本編

 鈴の音が響く深い森。音をよく聴いてみると高さの違う、二つの鈴の音であることがわかる。

 音の主は幼い兄妹だ。低い音は兄、高い音は妹の鈴。兄の鈴は青の、妹の鈴は桃色の紐で括られている。両親から御守りとして貰ったものだ。

「森の奥深く、池の畔に竜神様の祠があるんだって。行ってみようよ。」

 夏休み。祖父母の家へ遊びに来た兄妹は家の裏の森を散策しに出かけた。

 鬱蒼と茂る木々の中を走り抜け、池を目指す。走るたび、ポケットの中の鈴がちりりと音を鳴らした。

「お兄ちゃん、待って…きゃっ!」

 木の根に足を縺れさせた妹は派手に転んだ。鈴は何処かへ消えてしまった。

「つまづいちゃって…足捻っちゃったみたい。」

「わかった。少しだけ待ってて。お母さん達呼んでくるから。」

 妹は木の幹にもたれながら地面に腰を下ろし、兄の帰りを待った。

 木々の間から差し込む光は徐々に少なくなる。鳥が夕暮れを告げ、蝙蝠が頭上を飛び交い、梟が鳴き始めても兄は戻らなかった。

 不安で泣き疲れた妹はいつの間にやら眠っていたようで、自らの名を呼ぶ母の声で目を覚ます。

 頭上には焦る父の顔、泣く母の顔。

「良かった…無事だったのね。…お兄ちゃんは?」

 己を抱きしめながら泣く母の言葉に妹は唖然とした。

「お兄ちゃん、いないの?」

 兄は家へ戻っていなかった。

 村総出で隣町まで捜したが見つからなかった。まるで、神隠しに遭ったかのように跡形も無く消えてしまったのだ。

「あの森には昔から神隠しの言い伝えがあってな…」

 祖母は言ったが、誰も耳を貸そうとはしなかった。この御時世にそんな非科学的なことが起こってたまるか。所詮は言い伝えだろう。

 明くる朝、妹は前夜のことを憶えていなかった。

 森へ行ったことも、転んだことも、竜神様の祠も。当然、兄のことも。


 或る日のこと。

 大学の夏休みに暇を持て余していた私は友達に連れられて航空ショーを見に来ていた。

「ごめんね、無理矢理誘っちゃって。一人じゃ来づらくてさ。」

 友人は両手を合わせて、申し訳なさそうに言う。

「ううん、良いの。興味あったんだ、これ。一度行ってみたいと思ってたから丁度良かったよ。」

 観客のざわめきの中で私達はショーが始まるのを待った。会場のすぐ後ろは工場地帯であり、煙が喉に痛い。

「皆様、大変長らくお待たせいたしました!ただいまより航空ショーを開催したいと思います!」

 威勢の良いアナウンスの声が耳を劈く。

「今年のテーマはドラゴン!ドラゴンを模した沢山の飛行機が大空を飛び回ります!」

 次々と飛行機は飛び立ち、空に円を描くかのように旋回していく。

 彼方あっちへ行って、此方こっちへ来て、くるくる回って、一回転。

 歓声があがる。

 ところが、一機の飛行機が観客席の方へ真っ直ぐに向かって来た。幸か不幸か衝突は避けたが、避けた先の工業地帯に突っ込んだ。工場は二、三度爆発音を上げ、赤々と燃えだした。

 避難の誘導を観客の悲鳴がかき消していく。人の波に押されている間に友人とは逸れてしまった。

 私も逃げないと、と身体の向きを変えた時、私は誰かの足に躓き平衡を失った。

 鈴の音が聴こえた気がした。

此方こちらだ。」

 誰かに左腕を掴まれ、強く引かれる。声は若い青年だった。私と同じか少し上くらいだろう。

 腕を掴んだその人物は私の腕を引いてどんどん走って行く。いつの間にか喧騒は消え、静かな田舎へと辿り着いた。

 こんな所、会場の側にあったんだ。

 日は暮れかけており、辺りは茜色に染まっていた。

 彼は私の腕から手を離し、掌を握った。彼の手は大きくて、冷たかった。

 山と山の間にかけられた大きな橋は朱く寂び、書いてある文字、恐らく地名だろうが、それは文字化けしたかのように全く読めなくなっていた。

「君は僕を憶えているかい?」

 彼は振り返って問うた。

「いいえ。何処かで会いました?」

「いや、憶えていないのなら良いんだ。」

 少しだけ哀しそうな目をして笑う。

 何処かで見たような、見ないような。

 不思議な心地だ。

 手の冷たさも、その笑みも、この場所も。

 知っているような、でも矢張り知らないような。

「此処は何処なの?」

「此処は彼岸と此岸の間だ。」

「私は死んだの?」

「いいや、生きているよ。未だ、ね。」

「貴方は誰なの?」

 彼は答えない。代わりにこんなことを言った。

「足は、もう痛くないかい?」


 広い道に出た。

 いつの間にか辺りは宵闇に包まれている。

「君は未だ此方側に来てはいけない。」

 彼はポケットの中から鈴を取り出した。青い紐で括られた鈴だった。

「良いかい、この鈴の音が頼りだ。鈴の音が聴こえる方へ進むんだよ。絶対に逸れてはいけない。わかったね?」

「わかったわ。それで、貴方は、」

「ほら、もう時間がない。いきなさい。」

「…さようなら。ありがとう。」

 鈴を受け取ってちりりと鳴らす。不思議と手元からは音が聴こえず、沈んだ太陽を追いかけるかのように私を導いた。


 目を覚ましたのは白い病室だった。

 頭上には焦る父の顔、泣く母の顔。

 どうやら私は事故に巻き込まれた後、三日の間目を覚まさなかったらしい。

 ―ああ、なんだ。夢か。

 身体を起こそうとすると、ちり、と音を立てて鈴が落ちた。

 薄汚れた青い紐に括り付けられた鈴だった。

「その鈴、何処で…」

「えっと、これは…」

 なんと答えれば良いのか迷っていると、母は大粒の涙を落としながら言った。

「それ、お兄ちゃんの鈴でしょう?」

「お兄ちゃん…?」

 全て思い出した。

 竜神様も、転んだことも、兄のことも。転んだ時に私の鈴は何処かへ転げていってしまったのだ。何処を探しても見つからなかったのだと母は言う。兄の鈴は当然、兄と共に消えた。

「ああ、じゃああれはお兄ちゃんだったんだ。」

 彼は言った。「今は未だ此方に来てはいけない」と、別れる間際に「生きなさい」と。

 私はまだ、死ぬべきではない。生きねばならない。

 生死を彷徨った私は兄に手を引かれ、彼岸から此岸に帰って来た。

「また、守ってくれたんだね。」

 鈴を鳴らし、少し笑った。


 あの不思議な出来事から数年経った。私は大学もとうに卒業し、今は社会人として働いている。

 退院後、私はとても苦労した。私を航空ショーに誘った友人が泣きながら土下座をしに家まで訪ねて来たり、異常に優しくしたり、ことあるごとに構ってきたのだ。もちろん私は彼女のことをまったく恨んでいない。未だに仲が良い大切な友人だ。

 ちなみに、あの事故では死者が出なかったそうだ。一体何人救ったの?お兄ちゃん。

 お兄ちゃんの鈴は今でも身につけている。これがあるといつでもお兄ちゃんが見守ってくれているような気がして安心するのだ。

 後ろでちりりっ、と鈴の音が聴こえて思わず振り返る。お兄ちゃんの鈴よりも少し高い音。

 そこには桃色の紐の鈴を持った、あの時と変わらない姿の彼が立っていた。

「お兄ちゃ…」

 彼は人差し指を口元に当て、微笑んだ。

 そして、人混みに紛れて消えた。

 もしも此岸と彼岸が交わることがあれば、また彼に逢えるかもしれない。

 そして、いつか私が彼岸に往く時が来たら、きっと彼が迎えに来てくれることだろう。

「だから、それまで待っててね、お兄ちゃん。」

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中村夢路 @yumeji_nakamura

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