02 アップルパイ好きの誰か

 オーナーはトレーを持つ手を引っ込める。

 眼鏡を見詰めると「かしこまりました!」と、どこか安堵した明るい声で言った。


 表情は変わらないが、口調や態度で分かりやすい。

 素直なんだろうな、と感心してしまった。実に騙されやすそうな猫だ。


「あ、和菓子じゃなくて洋菓子で」


 オーナーにぼくは追加注文した。

 死体がなにかを訴えてくる怪訝な眼差しで刺してくるが、食材提供をしたのはぼくだ。文句は言わせない。

 死体を無視してぼくはオーナーに注目する。


「かしこまりました」


 注文を受けたオーナーはなぜか右手の指揮棒を振り上げた。

 指揮棒の先でぼくの眼鏡の縁にちょいと触れる。


 眼鏡が――――溶けた。

 比喩ではない。


「世界を隔てる透明な硝子はどんな砂糖よりも濃厚で」


 歌うように吐き出される台詞に合わせてオーナーが指揮棒を操る。


「初恋に熟れた林檎を一層甘く甘くしてくれるでしょう」


 連動して眼鏡が水飛沫を上げた。

 ビー玉よりもツルンとした水滴が、雪よりも静かに辺りを舞う。


「優しい歯応えのパイ生地は、あの日の約束。忘れられない思い出は、彼女の残り香たるシナモンと一緒にたっぷりと」


 水滴は天井のシャンデリアの光を反射して宝石にも勝る艶やかな輝きをみせた。

 まるで、大洪水により沈没し、水底に閉じ込められたかのような錯覚。


「大丈夫。神頼みをするよりも、すべて残さず食べてしまいましょう?」


 散りばめられる水滴は一瞬にして凝縮し、オーナーの持つ銀のトレーへと集まった。


「こちら、殺人鬼の初恋アップルパイ」


 嬉しそうに声で微笑むオーナーが白手袋に包まれた指を弾けば、指揮棒は霧散した。


「その味は貴方自身が保証済みでごじゃいますね」


 彼は自由になった右手で、既に切り分けられている状態で出現したアップルパイをトレーからぼくらの眼前へと移動させる。

 漂ってくるシナモンの主張が、強くなる。


「すげーだろ?」


 呆然と固まるぼくに、死体は嬉々と眉をつり上げた。

 ぼくは答えない。

 答えられない。


「かはははは! 初めて見りゃあそうなるよなー!」


 無反応のぼくへ、死体は豪快に笑う。

 こいつは調理法にぼくが驚愕していると思っているんだろうが、実際は違う。

 死体の、化物の案内する料理店だ。

 覚悟はしてきていたし、なによりこれよりももっと凄まじいことをぼくはこの死体のせいで幾度となく経験している。

 今更、この程度では驚かない。


 ぼくが息を飲んだ理由はだ。


 偶然にしては、出来過ぎている。

 しかも先程のオーナーの言い方。

 あれは、まるでぼくの過去を

 死体にすら、ぼくはあの頃のことは語っていない。


 ぼくはオーナーを横目で窺う。

 多分、自分で想像するよりも険しい目付きになっているだろう。

 けれども、オーナーの様子に変化はない。被り物の頭は当たり前に動くはずもないが、生身だろう身体も動揺なし。

 流石は、化物の同類だ。


「ご安心ください。アタクシは他人様の記憶を覗ける類のモノではごじゃいません」

「へえ……」

「え、ええっと……。どうご説明いたしましょうか。そのー……」

「模写みてえなもんだろ」


 警戒を解かないぼくに当惑して唸るオーナーへ、助け舟を出したのは死体だった。


「食材はハニワ。オーナーの料理はそれを模写した絵画。オーナーにハニワを渡して、これ描いてくれって頼めばオーナーは寸分の狂いなく本物と同等に模してくれる。でも、オーナー自身は描いてくれって言われたハニワにどんな歴史があって、どんな人々の手を渡ってきたかは分からねえよ」


 アップルパイをフォークで摘みながら死体は語る。

 なぜハニワで例えたのか小一時間ほど問いたいが、取り合えずこの猫頭はこちらが渡したものから過去や記憶を読み取れるわけではないらしい。

 死体が言うのなら、真実だろう。


「オーナーは渡されたそいつの食材からもっとも強い想いを料理として反映させる。食材持参の理由はそれだ。ここはそこらに落ちてる石ころや空き缶、それこそ死体すら調理すんだ。時には食材提供した本人にまったく関係ねえ料理だって出てくるぜ。それでも、この店は絶対にうまいもんしか出さねえがな。いっただきまーす」


 死体はアップルパイを口に放り込む。

 咀嚼すればするほど頬が落ちそうな、だらしのない顔付きに変化する。

 嚥下し「うまい!」と力強く嬉々と感想を述べた。


 ぼくはアップルパイへ視線を落とす。

 もっとも強い想いを料理として反映する――か。


 確かにあの眼鏡は、ぼくが伊達眼鏡をかけ始めた理由は、〝あいつ〟だ。

 アップルパイ好きの〝あいつ〟のせい。


 それなら――――

 ここでアップルパイが出されるのも、不思議じゃないか。


「食わねえならもらうぜ?」

「食べるよ」


 もう半分ほどアップルパイを平らげている死体に即答して、ぼくはいつからか出現していた自分用のフォークを手に取った。


「おいコラ。いただきます、言え」

「……いただきます」


 三角に切られたアップルパイ。

 典型的な編み目模様。横から覗ける林檎はぶ厚く、そのキャラメル色の果実は甘さをたっぷりと含んでいるのが一目瞭然。


 介錯するように、フォークをアップルパイへと落とす。

 さく、と。

 皮膚を貫いた触感の後、しっかりとした肉厚により刃先が止まる。

 少し力を加え、林檎を斬った。

 一番下のパイ生地も切れたようで、フォークが皿にぶつかって高い音を響かせた。

 一口サイズに斬り殺したアップルパイの一部をフォークで持ち上げる。


「…………」


 脳髄まで痺れさせるシナモンが、悪戯に笑いかけてきた。

 目尻が熱を持ち、せり上がってくるものを一蹴する勢いで口の中にフォークを押し込む。


「――――ッ」


 噛む前に、既に口内を蹂躙してくる風味。

 シナモンと林檎の甘さが手を取り合って乱暴に内側から鼻腔へと問答無用に駆け抜けていく。

 歯を動かせば、パイ生地は淑やかにその存在感を主張しただけですぐさま退場。柔らかくも噛み応えのある果実が、本来の果汁よりも甘味を増した体液を吹き出した。


 主役は林檎。

 そしてそれを引き立てる、シナモン。


 林檎は胃を。

 シナモンは肺を支配してくる。


「うん……おいしい」


 吐き出す二酸化炭素すらシナモンの香りになっている気がした。

 あーあ、最悪だ。


〝あいつ〟の好きなものが、〝あいつ〟の思い出が詰まったものが、まずいはずがないよな。


 納得し、痛感し、ぼくは再度フォークを動かした。



 それからは、あっという間だった。

 アップルパイを食べ終えたぼくらは食後の――――

「七つの知恵の泉に沈んだ予言の書の文字を丁寧に丁寧に拾い上げて餞別し、一から細かくブレンドいたしました!」

 と、自信満々で興奮気味に差し出された、サッパリとしたミントティーに近いお茶を堪能して店を後にした。


「んじゃ、帰っか」


 夕暮れに染まる森ではなく、夕暮れに染まる荒廃した街中で死体は背伸びをしながら言った。


 深い赤はあの森で見た色と変わらない。

 あの料理店のオーナーやこの動く死体を含め【三足みつあし猫猫ねこねこだん】と称されるこいつらは、愛らしい呼び名に反してその正体は世界に暗躍する異物だ。

 俗に怪現象、心霊現象と呼ばれるものの原因はすべてがこいつらの仕業。

 妖怪、UMA、能力者、都市伝説、七不思議など、謎や噂として囁かれる正体不明の正体。

 そんな【三足猫猫団】は、境界線が曖昧となる黄昏時を好む。


「いい店だったろ?」


 崩壊していながらもとまらずに、確実に落ちていく太陽からぼくは顔を逸らした。

 にんまり、と口角を上げる死体。

 ぼくは迷わずに答えた。


「返す言葉もない」



【END】

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