第12話 謝罪
ユキはタッパーに肉じゃがを詰めて、鉄の住むアパートに向かった。
おばあちゃんとユキの住むアパートからそう遠くはない。
歩いて二十分くらいだろう。
おばあちゃんの住むアパートに面した道を駅の方とは逆に進むと、川にぶつかる。
そこで川沿いに南に下っていくと線路下に古びたアパートが連なった一角にでる。
その一角に降りてドブ沿いのアパートの細い裏路地の奥にひときわ古汚れたアパートがあり、それが鉄が住んでいる所であった。
玄関の前には洗濯機が並び、ベランダはなく、窓から洗濯物が所狭しと干されている。
雑然とした木造のアパートの二階の奥の部屋が鉄の家だった。
アパートの周りには猫が幾多も屯して、ユキの様子を伺っていた。
ユキはその猫達を避けるように階段を上ると、ミシッ、ミシッと錆付いた鉄筋が音を立てた。
階段を上がってすぐの部屋では大声で夫婦喧嘩をしている声が聞こえた。
大声で罵り合う男女の声に、さすがのユキも怖くなってしまった。
真ん中の部屋は真っ暗で人の気配がしない。
そして一番奥の鉄の部屋の前に立った。
すると、中から小さな声で素っ頓狂な歌が聞こえてきた。
ひとつ人より慌て者~♪
ふたつ不義理にゃご用心~♪
みっつみんなが笑っても~♪
よっつ真面目にあらよっと~♪
不思議な歌だった。
思わず笑みがこぼれそうになるものの、どこか哀愁感があって、それでいて懐かしかった。
その歌を聞いたせいか、ユキは勇気が持てた。
そして鉄の家のドアを叩いた。
コン、コン。
鉄の歌がピタリと止まった。
家の中で気配を消したのだろう。
手に取るようにわかるのだが、それを一生懸命誤魔化そうとしていると思うと可笑しかった。
コン、コン。
どうやら、不意の来客には居留守を使うようだ。
ユキは諦めずにもう一度ドアを叩いた。
コン、コン。すいませーん。
思い切って声を出してみた。
するとドアが半開きで開き、鉄が顔を覗かせた。
相手がユキだとわかると、鉄は驚いた瞬間、また硬直してしまった。
ユキは慌てて鉄を正気に戻した。
鉄はとりあえず怯えながら家の中へ誘った。
「き、き、汚ねぇとこだけど……。お、お、お茶入れるから……」
鉄は不安だった。
また何か問詰められるんだろうか。
ここは周囲に声が聞こえるし、噂が広まるのも早い。
できれば大声を出すのは勘弁してほしかった。
幸いにもユキは入室を断った。
この機を逃すまいと鉄は慌てて部屋から飛び出し、外へ連れ出した。
この辺は障子に耳有りだからよ、と鉄は言った。
なるほど、夫婦喧嘩はいつの間にか収まり、聞き耳を立てているのが伺えた。
鉄は先導して歩いた。
ドブの臭いがする路地を抜け、川原に着くまで無言だった。
川原から風が通り抜けた。
後ろを振り返れば、ドヤ街が広がっている。
鉄は言った。
「この辺はゴミ溜め通りって言われてるところでよ、チェッ、チェッ。みんな何かしら事情をもった人たちが流れ着くところさ」
鉄がゴミ溜め通りを見る視線はどこか優しかった。
「鉄さん……。ごめんなさい……」
ユキは今にも泣きそうだった。
が、グッと堪えた。
泣いて謝ってはいけない。
涙で誤魔化すのではなく、ちゃんと気持ちを伝えて許してもらいたかった。
「私、おばあちゃんからちゃんと話を聞いてみて、ようやくわかったの。鉄さんがいなければ……。私、おばあちゃんと生きて会えなかったかもしれない、って。鉄さん、本当にごめんなさい。私、何も知らずに悪いこと言ったわ……」
鉄はしばらく黙っていた。
ユキが沈黙に耐えられず、さらに何か言おうとすると、鉄はようやく口を開いた。
「俺っちが悪かったんだよ。だからもう言いっこなしってなもんだ。チェッ、チェッ」
鉄の言葉が途切れた瞬間、グゥーーーッという低い音が鳴り響いた。
「あっ、失礼……。今のは腹の虫が鳴いたんだよ」
なんてタイミングよく鳴るおなかの虫だろう。
ユキは思わず笑ってしまった。
「お腹……、すいてるんですか?」
鉄は否定もできず、真っ赤になった。
「よければ……、肉じゃがつくってきたんだけど、食べない?」
ユキは鉄にタッパーを見せた。
鉄は観念した、という表情で言った。
「こいつは、腹の虫が鳴くわけだ。チェッ。どうも俺っちの腹の虫は行儀が悪くていけねぇなぁ。チェッ、チェッ、チェッってな。もちろんいただくよ、これ、ばあちゃんの特製かい?」
「違うわ、私がつくったの。あら、不満みたいね」
鉄はあわてて否定した。
そして肉じゃがを食べないと落ち着かないから、とユキに早く食べさせてくれるよう懇願した。
しかもタイミングよくもう一度腹の虫が大きく鳴いた。
「すごい! 鉄さんのお腹にはよほど立派な虫がいるのね!」
と、ユキは大笑いした。
鉄は赤面しながらもじもじとしていた。
クスクスと笑うユキの髪が風に流れて美しかった。
「じゃあ、鉄さんのお腹の虫にこの肉じゃがあげるわ」
鉄は奇声を発してタッパーを取り上げた。
ふたを開けると一目散に肉じゃがを頬張った。
そして一言うまい! と言った。
無我夢中な食べっぷりに、ユキは嬉しくなった。
鉄が貪りついてる側でユキは言った。
「鉄さんが来ないと、おばあちゃんが寂しいって言ってたわ。本当よ」
鉄は嬉しかった。
今まで鉄を必要だと言ってくれる人はいなかった。
仕事や泥棒の技術として必要とする人はいたが、人として必要としてくれるのはオヤジが死んで以来、おばあちゃんだけだった。
鉄は肉じゃがが詰まったふりをして咳き込み、涙を誤魔化した。
「鉄さんがおばあちゃんに会いに来ないって意地を張るなら……。私、カナダに帰る」
「お、お、脅しじゃねぇか! そいつぁ、どうも……。まいったなぁ……」
「脅しじゃないわよ。鉄さん。あのね、私、カナダから帰ってきて、母親がおばあちゃんを捨てた事、その母が変な男と一緒になったこと、おばあちゃんが母の借金のせいで死にかけた事、色々あって、動揺してる。もし、私が帰ってきたことでおばあちゃんが寂しい思いをするくらないら……。私のせいで……。カナダに……。帰るわ」
ユキはついに泣いてしまった。
鉄は慌てて言った。
「わ、わかったよ! また明日からいつも通りに遊びにいくよ! チェッ、チェッ、こりゃ本当の言葉だ!」
それでもユキは泣き止まなかった。
鉄は困った。
仕方がないので肉じゃがを黙って食べた。
風が静かに通り抜ける音と、鉄が肉じゃがを食べる音が、ユキの泣いている声を消そうとして頑張っていた。
「肉じゃが……。うめぇ」
ポロッと鉄は言った。
その言葉についユキは笑ってしまった。
「フフフ……。鉄さんて、バカね。泣いてるんだから……。食べるのやめるのよ、普通は。フフフ。本当にバカなんだから」
「そ、そりゃひでぇなぁ……。面と向かってバカっていっちゃあ、俺っち可哀想だよ、チェッ、チェッ、チェッ」
鉄は肉じゃがを食べ終わり、礼を言ってタッパーは洗って返すと言った。
しばらく景色を眺めた後、二人は帰った。
鉄はユキを家の近くまで送り、改めて肉じゃがの礼を言った。
それじゃ、と手を振ってニ、三歩歩いた時、鉄が後ろからユキに言った。
「ユキさん……。俺っち、嬉しかったよ、ありがとう!」
そう言うと鉄は手を振って暗闇の中に吸い込まれるように去っていった。
ユキは鉄の言葉で救われた気がした。
おばあちゃんは一部始終を聞いて安心した。
そしてユキが好意を持ってくれたことにもっと安心した。
ユキが鉄を評して『不思議な人』と言ったのは、おばあちゃんも納得したのだった。
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