第9話 疑惑

 ユキはしばらくの間、泣き、謝り、そしてまた泣いた。

 おばあちゃんはとりあえず家の中に誘い、座るように言った。


「ユキや、困るわねぇ……。どうしたの、おばあちゃんは大丈夫よ」


 おばあちゃんは昔と変らない調子でユキを慰めてくれた。

 ユキは安堵の気持ちが溢れて止まらなかった。


「本当?」


 おばあちゃんはユキの問いに笑顔で答えた。


「本当よ。それにね。毎日泥棒が訪ねてくるから」


 ユキは驚いた。


 毎日泥棒が訪ねてくる?

 どういうことだろう?


「泥棒? 泥棒が毎日来るの?」


 おばあちゃんはニコニコ笑っている。


 ユキは心配になった。

 悪い男がここにも入り込んでいるのか。

 老人の一人暮らしだと思って、何か企んでいるに違いない。


「警察には?」


 心配そうなユキを見ておばあちゃんはいたずらっぽく笑った。


「うふふ。警察なんて呼ぶものですか。とっても素敵な泥棒なの」

 

 ますますユキは混乱した。


「……その人、大丈夫?」


「そうねぇ……」


 おばあちゃんがその泥棒のことを考えるとき、愛情に溢れた表情をする。

 それだけにユキはその泥棒に敵意を抱いた。


「鉄さんはしょっちゅうモノを落とすし、壁にもよくぶつかるわねぇ」


 鉄?

 その泥棒の名前だろうか。

 これは一度警察に相談する必要がある。

 いや、その前に私が一度会ってみる。

 老人の一人暮らしを狙った悪徳商法か何かだろう。

 きっと私が追い出してみせるわ。

 今日から私がおばあちゃんと一緒に住む以上、変な人には出入りさせない。


 ユキは決意した。


 ユキはもうこれ以上、おばあちゃんに苦しい想いをさせたくなかった。

 老人の一人暮らしの家に毎日訪れてくる男なんてロクな奴じゃない。

 鉄という男に会って、少しでも妙な素振りを見せたら、すぐに警察に連絡してやる。

 ユキはそう思って気持ちをなだめた。


 それにしてもおばあちゃんが元気だったのは良かった。

 母の部屋とは違い、新鮮な空気に満ち、部屋も小奇麗に片付いている。

 アパートは母のマンションより古いが、居心地の良さは比べるまでもない。

 昔ながらのアパートだが部屋数だけは十分にあったので、ユキは玄関に近い、昔自分が使っていた部屋で荷解きをした。

 壁にはだいぶ古びた男性アーティストのポスターが未だに貼ってある。

 オーディオの電源を入れ、音楽をかけると、男性アーティストのアコースティックソングが流れてきた。

 ようやく日本に帰ってきた、という安堵感を噛みしめることができた。


 新しい生活が始まる。

 そんな気持ちがユキの感情を昂らせている。

 部屋着に着替え、居間にでるとおばあちゃんが食事の支度をはじめていた。


「ちょっとまっておばあちゃん、今日は私にやらせて!」


「またユキは年寄り扱いして。おばあちゃんが腕によりをかけてご馳走をつくるんだから、あんたこそゆっくりしといで」


「やだ! 私がやりたいの! お願い!」


 ユキは譲らなかった。

 おばあちゃんは嬉しそうに笑った。そしてユキの気持ちを汲んで、ユキに任せてくれた。

 ユキは今日は特別な日、また二人で一緒に住める最初の日だから、と息巻いて晩御飯の買い物にでかけた。


 ユキが譲らなかったもうひとつの理由は、この買い物道を歩きたかったからでもある。

 小さい頃のユキの手を引いて、ゆっくり、ゆっくり買い物をしてくれたおばあちゃんの姿を今でも覚えていた。

 私、結婚したら、いつかおばあちゃんみたいな人になりたい、とずっと思っていた。

 おばあちゃんが無事でよかった。

 河原を歩きながらつくづく思った。

 これからはおばあちゃんと二人で生きていくんだ。

 母親の裏切り、おばあちゃんにまとわりつく怪しい男「鉄」。

 帰ってくるなり色々なことがありすぎて目が回りそうだったが、おばあちゃんが無事だったのが救いだった。

 私がおばあちゃんを守る、という決意を胸にユキは帰路についた。


 帰宅すると部屋の奥から人の話声が聞こえてきた。

 ユキは鉄だな、と察して、玄関口側の自分の部屋に忍び込み奥の部屋の様子を伺った。


 幸いにも鉄は大きな声だった。


「だから俺っちよぉ、班長みてぇにこうなんというか、鉄がよ、いや、鉄といっても俺っちのことじゃねぇよ、その鉄筋が綺麗に切れるようになりたいんだな。班長は溶接も切断も上手なんだぜ。あれが本当の職人だよ。なぁばぁちゃん」


「そうねぇ」


「ところが三平の野郎、まだ新人ペーペーのくせに『工場なんか嫌だ、俺はもっと違う場所がいい!』ってほざきやがる。もちろん向き不向きもあらぁな。それなら、俺っちだってわかるんだ。でも三平の野郎、地味だ、女にもててぇだのって言いほざくんだ。かっこよくねぇって。でもよぉ、仕事に対して責任のねぇやつは、どこいったっておんなじだろう? 政治でも芸能界でもシェフでもアーティストでも俺っちみてぇな工場でもだ。なぁばあちゃん」


「そうねぇ」


「給料の良し悪しはあるかもしんねぇし、その、なんだ、若い女の人がいるとかそういうのも、華やかというか、そういうのもあるかもしれねぇけどさ……。俺っちは、チッチッ、どんな仕事でもこう黙々とこう、なんというか、地味だけど、こう……」


「仕事は責任感を持って取り組むことが大事だって事? 華やかさよりも責任感の有無だ、って言いたいの?」


「そうそうそう、、ばぁちゃんは頭がいいや、ばぁちゃんだなぁ。時折よ、おれっちも感心するんだぜ、チッチッ、ばぁちゃんには遠くおよばねぇなってな。へへへ。へへへへ」


 おばあちゃんの笑い声が聞こえる。

 なんだか久しぶりにあんなに愉快そうなおばあちゃんの笑い声を聞いた。

 それだけにユキは鉄に対して苛立ちと敵意を強く覚えた。

 おばあちゃんにまんまと取り入っている。

 許せない、と思った。


 ユキは感情を爆発させるように部屋から飛び出して、鉄とおばあちゃんがいる部屋に乗り込んだ。

 ユキの登場に鉄は必要以上に驚いた。


「ば、ば、ば、ばぁ、ちゃん、誰?」


 鉄は硬直している。

 ユキはますます怪しいと思った。


「あぁ、孫ですよ」


 おばあちゃんは素知らぬ顔で言った。

 まるで鉄のリアクションを楽しんでいるかのようだった。


「お、お、お孫さん?」


「そうよ、あらどうしたの鉄さん?」


「お、お、お、俺っち……」


 鉄はユキの冷たい視線とおばあちゃんの好奇の眼にさらされてか、直立不動の態勢で震えていた。


「お、俺っち、緊張しちまうんだよ!」


 あまりに意外な言葉にさすがのユキもキョトンとした。


「じょ、じょ、女性の人と、綺麗な女性の人が近くに……いるだけでよ!」


 おばあちゃんは大笑いした。

 ユキも思わず噴出してしまった。

 おばあちゃんは少し怒った顔で私だって女性だよ、と言った。


 それでも鉄はまるで凍ったように固まって身動きできなかった。

 ユキはとてつもなく美人だったのだ。

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