第8話 ユキ
ユキは留学先のカナダから帰国すると、すぐ母親をたずねた。
再婚の知らせを事前に受けていたので、母の住む家へと向かったのだ。
ユキは、どこか腑に落ちなかった。
しかし、再婚については母の人生だからと割り切って考えるようにしていた。
母が住んでいるマンションは壁の色が黄色く滲んだ、どことなく不衛生なマンションだった。母が住んでいるらしき部屋の玄関前には幾つかのゴミとビンがあり、窓ガラスには壊れた傘がかけられていた。換気扇からは黄色い染みがいくつも見えた。
見るからに不衛生な部屋に少し躊躇したが、気を取り直してチャイムを鳴らした。
しばらく待ってみたが誰もでてこない。
留守かと思ったが、もう一度チャイムを鳴らしてみた。
すると、ドアの向こうから男のダミ声がした。
「はぁい」
気力がなく、声だけでガラの悪さを感じさせる声が返ってきた。
ドアがひらくと部屋に相応しい男が顔を覗かせ、
「なに?」
と無愛想に言った。
ユキは部屋を間違えたと思った。
その男は無精ヒゲと赤味がかった顔がなんとも嫌らしく、髪には寝癖もついていた。
しかもその男は昼間から酒の臭いをプンプンさせている。
ユキが母の名を告げ娘だと言うと男はユキを舐めるように見ていやらしく笑った。
悪寒が走った。
「おーい!」
男は部屋の奥へむかって呼びかけた。
すると奥からいかにも面倒くさいという態度の女性が出てきた。
母である。
髪は乱れ放題、しかめっ面で化粧もせず、上下ジャージ姿のまるで緊張感のない姿で出てきた。
母は玄関先にいるのがユキだと認めると、取り繕うような笑顔を浮かべた。
「あらユキじゃないの! 驚いた! いつ帰ったの?」
ユキは幻滅した。
私は事前に帰る日を知らせておいたはずだ。
娘が帰る日を忘れた?
母親というより、一人の下品な売女に見えた。
一応部屋に通され、座につくと、母は必死に話しかけてきた。
男のことを「この人」と呼び、再婚したことを悦ばしげにユキに伝えてきた。
男はユキを終始好奇の眼で見ながら、母との会話にも割り込んでくる始末だった。
その上、尊大で横柄で威張り散らした態度が余計にその男の矮小さを感じさせた。
驚いたのは、ユキを自分の娘だと言い張り、俺が面倒みてやる、と言い出した事だった。
これにはさすがにユキは頭がクラクラした。
三人で一緒に住もう、と言い出した時の男の笑顔からは厭らしさしか感じなかった。
ユキは怒りがこみ上げてくるのを必死に抑えた。
男については相手にするほどの人間ではない、と自分に言い聞かせた。
問題は母である。
ユキは怒りをぶつけるように切り出した。
私、ここに一緒に住めるの?
ええ、そうよ、ウチの人もそういってるし・・・。
家族三人で一緒に?
もちろんよ。
おばあちゃんは?
え?
おばあちゃんはどうするの?
おばあちゃんならあそこの家から動きたくないって・・・。
だから見捨てたの?
見捨てたって、人聞きの悪い……、違うわよ……。
おばあちゃんを見捨てて、この昼間から酒の臭いをさせてるおじさんと一諸になったんでしょ?
ユキ!
なんだと、この小娘!!
あら、おじさん、怒った? ごめんなさい。私、口は相当悪いの。
あなたにどう言われても、私にとってはあなたは他人だし、ただの厭らしいおじさんだわ。
母がほしいならどうぞ。
私ならおばあちゃんと一緒に住む事にしますのでご心配なく。今後一切関わらないでください。
どうぞお幸せに。
さようなら。
ユキはピシャリと言い捨てて、アパートを飛び出した。
母は色々言い繕ったが結局おばあちゃんを捨てたのだ。
おばあちゃんが自分の恋愛に邪魔だったのだろう。
母はあの脂ぎった男との生活を選んだのだ。
ユキはうんざりした。
酒の臭いに満ちて、薄暗く、換気されていないであろう部屋のよどんだ空気の中、堕落した生活をしている母。
ユキは溢れそうな涙を必死に堪えた。
同時におばあちゃんが心配で心配で堪らなかった。
母の様子だと半年以上連絡も取っていない。
ユキはおばあちゃんのことを想うと気が気ではなかった。
小さい頃からユキを可愛がって世話を焼いてくれたのはおばあちゃんだった。
そのおばあちゃんがたった一人であのアパートにいるなんて……。
もしかしたら……、いえ、まさか、そんなことはないわ。大丈夫。
おばあちゃんはまだ生きているわ。
電車の遅さが忌々しかった。
それよりも無理をいって家を空けた自分に腹がたった。
なんて自分勝手だろう……。
私が側にいれば、身勝手な母もあんな男につかまらなかっただろうし、あんなに私を可愛がってくれたおばあちゃんが母に捨てられることもなかった。
あぁ、心配。どうしよう。
ごめんなさい、おばあちゃん。
ごめんなさい。
ユキは色々と後悔していた。
これからはたっぷりとおばあちゃんとお母さんに孝行しよう、そう思って帰ってきた。
ところが帰ってみると、家族はバラバラだった。
たった三人のだけの家族なのに……。
ため息が何度も漏れた。
泣きたい気持ちを必死にこらえていた。
最寄りの駅につくとタクシー乗り場まで走った。
タクシーに駆け込むとアパートまで車を飛ばしてもらった。
車の窓に流れる風景を懐かしむゆとりさえ今のユキにはなかった。
転がり落ちるようにタクシーを降りるとアパートまで走った。
そして祈るような気持ちでアパートのドアを叩いた。
コンコン!
ピンポーン
コンコンコン!
おばあちゃん、私、ユキよ!
コンコン!
ピンポーン
おばあちゃん!
おばあちゃん!
すると中から小さく
「はぁーい」
と声がして、おばあちゃんがドアの向こうから顔を出した。
ユキは安堵した。
嬉しさが抑えきれず、おばあちゃんに抱きついた。
「おばあちゃん!」
ユキは嬉しかった。
変ってない。
おばあちゃんは変ってない。
変らない嬉しさが涙となって溢れ落ちてきた。
「どうしたの、あれあれ、この子は、ユキ……。どうしたんだい?」
ユキは涙で声が出なかった。
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