第32話 転機(4)

萌香はすぐに夏希の所に行った。


「栗栖さん、」

本当に彼女は出て行く仕度をしていた。


「本当に明日、出ていくの?」


「え、ええ。 お世話になりました。 ありがとうございました。」

夏希は深々と頭を下げる。


「そうね。 こんな監視されてるようなところイヤかもしれないわね。」


「え! そんな! そんなことないです! あたしなんかがこんな都会の真ん中のマンションに住めるなんて。ほんと夢みたいで! それに、斯波さんも栗栖さんも本当によくして下さって。」

夏希は全力で否定した。


「ほんっと・・女心わかってないから、」


萌香はクスっと笑った。


その意味が

夏希にはすぐにわからなかった。


萌香は夏希の前に腰掛けた。


「もし・・誤解じゃなかったら。 彼が私のためにあなたにここに住むように言ったことが、あなたを傷つけたんじゃないかと思って。」


夏希はハッとして顔を上げて萌香を見た。


「まちがっていたらごめんなさい。 ひょっとして加瀬さんは。 彼のこと、他の男の人たちとはちょっとちがう目で見ていたのかなあって。」


ドッキーン。


音が外にまで聴こえてしまったのではないかと思うくらい、心臓が高鳴った。


「そんなっ! あたしは!」


元々、気持ちを隠しておけない性質の彼女はあまりにもわかりやすく動揺した。


「なんかね。 あなたがすごく怒ったって聞いて。 いつもいつも素直で明るい加瀬さんがって。思ったら。」


そういう彼女が本当にかわいくて。

萌香は微笑んだ。


「ホント、女心わかってないなあって。」


「そんなこと…。」


ないです、とキッパリ言いたかったが、やはり正直者なので言葉を続けられなかった。



「いいのよ。 別に気にしなくても。」


「や、あたし。 ほんと! 別に、斯波さんのこと好きとかそういうんじゃなくって! なんか、初めてこういう人に会ったなあって。 いっぱい怒られて、怖くって。 でも・・優しくて。 優しくて・・」

夏希はひざの上でぎゅうっとこぶしを握った。


「私のため、だなんて。 彼の本心じゃないわ。」

萌香は彼女に微笑みかける。


「え…」


「本当はあなたのことが心配でたまらないから。 だから、ここにいて欲しいって思ったの。 だけど。 ああいう人だから。 そんなこと口が裂けても言えなかったんだろうって。」


信じられなかった。


「私も、加瀬さんといるようになって、毎日本当に楽しくて。 ずっと二人だったから。 こうやって年下の子をかわいがったりとか。 楽しいって。」

萌香はいつものように小さな声で言った。


『彼女いろいろあったから』


斯波の言葉を思い出す。


こんなキレイで非の打ち所のない彼女にいったい何があったのかは

全く想像つかなかったけど。


「心の底から笑うって、本当に楽しい。」


あたしは当たり前にしてきたことなのに。

そんなことを確認するくらい

この人は笑ったりしてこなかったんだろうか。


「だから。 私もあなたにここにいて欲しいの。」

萌香は夏希の目をまっすぐに見た。


「栗栖さん…」


「わがままだけど、」

さびしそうに微笑んだ。


たぶん。

本当の理由は

彼が最初に口にしたことなんだろう。


この人のことを

すっごく

すっごく

幸せにしたいって。


だけど、どうしていいかわからない不器用さが

痛いほど伝わって。


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