4.いつか、優しくなれるように
西暦2219年。
なんて聞くと、百年も昔の人は思うのだろうか。その頃には人類は火星などに移住する計画が順調に進んでいて、車は空を飛んでいて、地球の資源問題は解決策が見つかり、すべては科学の力でうまくいっている、と。
そんな夢物語のような希望を未来に託して、現在の状況に蓋をして、身勝手で無責任な
西暦2219年を生きるわたしに言わせれば、人類は百年前から何も進歩していない。
火星に移住など夢のまた夢の段階だし、車は相変わらずアスファルトの上を走っているし、地球の資源は数値上減りに減っているのは誰の目にも明らか。解決策なんて何もないまま人類の総人口は増え続け、世界規模で一人っ子政策が採用されたくらいに人口は飽和状態。
地球だけで生きるには人間は増えすぎた。
カラスが増えたらカラスを殺す。鳩が増えたら鳩を殺す。猿が増えたら猿を殺す。
じゃあ、人間が増えたら?
人類はその答えを出さないまま地球の資源を食い尽くす段階まで来てしまっている。
未来、の天井が見えているこの
希望の見えない星の未来。未来に生きる人間の姿。
誰の心にも影を落とし始めた暗い未来は、それとなく誰もが予感していて、だからこそ見ないフリをしているものなのだ。
わたしもそう。少し前は遠い未来より目前の
「……はぁ」
軽く溜息を吐いた自分にコホンと咳払いをして、ぼんやりしている人ばかりの共用スペースのソファから立ち上がって廊下に出る。
…ここにはぼんやりした人が多い。この病棟にいる人全員が『
わたしも、そうだけど。
夜になったらまたセヴィリーに会える。あの美しい世界に行ける。その限られた時間で話すことを整理しておこうと思考に没頭していたら、いらないことまで考え始めて、気が滅入ってしまった。こういうときはパソコンでネットサーフィンでもしてたら気も紛れるんだけど…。
病棟のフロア案内の電子掲示板を眺めて、エレベーターで上階に行ってみた。
ネカフェのようなスペースのある有料の空間は、すでに満席状態。みんな考えることは同じということだ。期待はしていなかったけど、さて、困った。どう時間を潰そう。
腕組みして考えていると、ぐう、とお腹が鳴った。
…どうせ物の味なんてしない。だけど何も入れないとそれはそれで体調が悪くなるし、
仕方ない。売店で口に入りそうなものを探そう。
今度はエレベーターで一階に向かい、売店のコンビニに入る。
悩みに悩んだ末飲み物と野菜サンドを購入。病棟外の木製ベンチに腰掛けてなんとか、飲むようにしてサンドイッチを胃に押し込んで、さらにジュースを流し込んで自分をごまかした。
その後、パソコンができないなら、と消去法で図書室に行った。
そう広くはないけど狭くもない場所にはそれなりの本が取り揃えてあったので、名作だという古い漫画を片っ端から読み漁った。
そのうち治療の定時刻が近づいてきて、わたしは飛ぶように
待ちに待った時間だ。
昼間と同じようにカプセルに横になり、半透明な蓋でこちらとあちらを仕切られる。
深呼吸を繰り返していると、そのうち薬が効いてきて、わたしは自然と、目を閉じる。
§ ✜ ≠ ✠ ❀
パチ、と目を開けると、薄い緑色の空が見えた。浮かんでいる三つの月も。少し視線をずらせば、翡翠の樹木に支えられた円形の建物も見えた。
「やぁ。おはよう」
その声にわたしはぱっと起き上がっていた。「セヴィリー」彼、または彼女は相変わらず美しく、わたしにはもったいないようなきれいな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
言いたいことが。伝えたいことがたくさんある。
限られた時間で話せるように、わたし、昼間に頭の中を整理してきたんだ。
うまく話せる自信はないけど、きっと泣いちゃうけど、でも、あなたに聞いてほしい。あなたになら、話したい。話したいのに。
何をどう言うべきか考えるわたしに長い腕が伸びた。細長い指がわたしの頬を滑る。「大丈夫?」「え、」「最後、泣いていたから」「え、あ、ああ」慌てふためく自分がなんだか滑稽だ。もう16なのに落ち着きの一つもない。すぐに顔や態度に出る。まったく、これじゃ子供だ。子供、なんだけど。
「あの、セヴィリー」
「うん」
「あの…えっと………その…」
いざ、口を開いて話しかけたのに、言葉は少しも出てこない。
セヴィリーはそんなわたしを見てあの笑みを浮かべる。無条件に優しく、相手を受け止める、肯定の微笑み。「コトリ、歩こうか」「…うん」差し出された手はひんやりと冷たいけど、火照った体には、この冷たさがちょうどいい。
ラベンダー色の川のほとりまで、樹木の道をゆっくりと下りた。
途中で何人かの美しい住人と行き違い、その度に交わされる挨拶に、わたしは頭を下げて返す。
それなりの時間をかけてやってきた川は、美しかった。
「うわぁ…」
この世界の空も樹木もきれいだと思ったけど、川の底に沈む水晶のような石がまたきれいだった。キラキラと輝く小石が川面の下から光を打ち出して、薄紫の水面をきらめかせている。
「どうしてこんなにきれいなの…?」
思わず手を伸ばして川面に指を浸す。冷たい。心地のいい冷たさ。「さあ、どうしてだろう」隣に立ったセヴィリーがおもむろにブーツを脱いだ。スラリと細い足がためらいなくラベンダー色の水の中へ沈む。
川べりに座り込んで水に足を浸すセヴィリー。
背景にはラベンダー色の川。薄い緑の草原。翡翠の樹木の輝く根。空に、三つの月。
どうやっても絵になるセヴィリーに見惚れてしまった。そんな自分に気付いてぶんぶん頭を振り、セヴィリーの真似をして草原に座り込む。こちらのものであるブーツを脱いで、ラベンダー色の川に足を浸す。
…もうちょっと、詰めて座ればよかったかな。なんて。なんて、浮かれすぎだ、わたし。
川の小石が拾いたいな、と手を伸ばして、底には届かないな、と肩を落としたとき。隣にいたセヴィリーがためらいなく服を着たまま川に入った。ザブン、と水の音。「え? セヴィリ、」彼、または彼女は長い髪も水に浸からせながら川の中に腕を入れる。
ポカンとしているわたしの前に濡れた拳が差し出された。「え?」「手を出して」言われるままに拳の下に手を差し出すと、開かれた彼の拳から水晶の小石が落ちて掌にのった。
…きれいだ。きれい。この小石も。これをくれたあなたも。美しくて、泣けるくらい。
「コトリ。笑って」
「、」
「コトリ」
笑って。わたしにそう言うあなたは笑っていた。とてもきれいな微笑みだった。わたしにはとうていできない、優しい顔だった。
わたしはきっと一生かかってもそんな優しい顔で他人を肯定することはできないだろう。
でも、その笑顔に近づくことはできるんじゃないか。そう努力することはできるんじゃないか。そう思って、わたしは、なんとか、笑う。笑顔を作る。口の端が引きつった醜い笑顔。あなたと比べたら月とスッポン。
それでもあなたが笑うから。わたしは、笑いながら、涙を流した。
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