3.無条件の愛


 セヴィリーと呼ぶことにしたきれいな人は、わたしの手を取ると「では行こうか」と言うが早いか、居住区だという翡翠の樹木と円の建物が立ち並ぶ方へとわたしを連れて歩き始めた。


「少し歩いてみよう。何か、からだに違和感はある?」

「いえ。全然。軽い…。いくらでも歩けそうな感じ、です」

「それはよかった」


 …セヴィリーは、よく笑う人だった。

 わたしはその横顔を見上げて、美しい景色にふさわしい美しい人を見ていた。

 薄い緑の空に浮かぶ三つの月。それぞれの名前。鉱石の成分が溶け込んで薄い紫に見えるのだという川。セヴィリーはゆっくりと歩きながらわたしにこの場所のことを教えてくれた。

 ……足元がふわふわしていることに、違和感がある。

 いや。たぶん、現実世界のわたしの体が重すぎるんだ。

 いろいろなものが足枷になってわたしを地面に縛りつけようとする、その現実が、わたしの体を倦怠感や取れない疲れで包んでいるのだと思う。ここではそういったものは無縁だ。だから体がこんなに軽い。

 わたしはひんやりと冷たいセヴィリーの指の温度と感触を噛み締めながら、夢だ、と思う美しい景色を眺めることに忙しい。

 こんな夢の世界に自分が存在していることが信じられない。

 信じようと何度も硬質な翡翠の樹皮を踏む感覚を確かめるのに、ちっとも、実感がついてこない。


「私との話に、敬語はいらないよ。いつもどおりの自分でいて」


 落ちてきた言葉に、足元の翡翠の樹皮から視線を上げる。

 セヴィリーはとてもやわらかい表情でわたしを見ていた。翡翠。に近い色の瞳にまっすぐ見つめられてわたしの視線は泳ぎまくる。

 目と目を合わせるということは、相手が自分を見ていることを認めるということだ。また、自分が相手を見ていることを認めるということでもある。

 それは、少し、おそろしい。

 その目がどんなふうに自分のことを見ているのか。評価しているのか。値踏みしているのか。そんなことを考えて落ち着かなくなる。「ええ、と。敬語はなし?」「そう」「…わかった」浅く頷くと、セヴィリーも満足そうに一つ頷く。

 途中、セヴィリーではない、やっぱりとても美しい人と行き違った。「やぁ」「やぁ」マイペースなような、気さくなような、そんな挨拶でさえ視線が泳ぎ、うろたえ、へこっと頭を下げるので精一杯のわたし。

 そんなわたしをここの人達は笑わない。

 不器用で不格好なのに、美しい笑みを浮かべてわたしを肯定していく。

 ………無条件の優しさ。無条件の肯定。

 それは人が生涯求めて止まない『愛』というものに似ている気がした。

 そう思ったらとても、すごく、泣きたくなった。

 セヴィリーは優しい。

 セヴィリーだけじゃなく、きっとこの美しい世界に住む美しい住人は、みんなきれいで、美しい心を持っている。その姿形にふさわしく、住む世界にふさわしい命のかたちをしている。人間とは大違い。悲しいくらいに違う生き物…。


「コトリ」

「ん」

「この世界は、気に入ったかい?」

「…うん。とても好き。すごく、好き」

「それはよかった。じゃあ、私のことは気に入ったかい?」

「……、」


 好き、なんて言えなくて、こくこくと頷いて肯定すると、セヴィリーは笑って「よかった。じゃあ、テストは終了だね」と言う。

 そうだ、これはカウンセリングのための事前準備的なテストだった。テストというか、相性を見るというか、そういうもので。だから、一度お別れなんだ。

 足が止まったわたしに、一歩遅れてセヴィリーも立ち止まった。視線を俯けて翡翠の樹皮の足元を見つめているわたしは、嘘を吐くのがうまくないわたしの表情は、とてもわかりやすいことだろう。

 困らせてはいけない。セヴィリーにとってわたしは患者というか、人間サンプルというか、そういうものなんだから。彼? 彼女? にとってわたしが特別なことは何もないんだから。

 これが今生の別れのような気がして、理由のわからない焦燥感や悲しみがわたしの胸に飛来したとき。セヴィリーは長い腕を伸ばしてわたしの背中を緩く抱き寄せた。その手と同じひんやりと冷たい温度に包まれて、言葉が出てこない。


「泣かないで」


 そっと落ちてきた言葉が、余計にわたしを悲しくさせる。「私は君に笑ってほしいんだよ」知ってる。だって、それがあなたの仕事だもの…。

 結局泣いてしまったわたしを、セヴィリーはずっと抱きしめていた。強くもなく弱くもない力で。コトリ、泣かないで。笑って。わらって。ずっとそう囁いていた。意識が遠くなる、その瞬間まで。




§   ✜   ≠   ✠   ❀




 プシュッ、という音で、目が覚めた。

 瞼を押し上げると、ぼやけた視界に蛍光灯の白い光と白っぽい天井が見えた。それから、わたしを覗き込む白衣のおじさん先生の顔。「どうだったかな?」「…、」わたしは枕に顔をこすりつけるようにして滲んでいた涙を拭うと、治療カプセルからゆっくりと起き上がった。

 大丈夫。憶えてる。あの世界のすべてを。セヴィリー、あなたのことも、ちゃんと憶えてる。


「すごく、きれいな場所でした。きれいな人がいました…」

「ああ、そうだね。彼らはとても友好的だ。話し相手として申し分ないよ。

 では、琴里ことりさん。『ゆめしおり』で治療を続ける、ということでいいかな?」


 先生の言葉に、わたしは頷いた。あの美しい世界は少しの時間でわたしの心を鷲掴みにしていた。

 もう一度あの場所に行きたい。あの場所なら何度だって行きたい。

 美しい風景、美しい人達、美しい器にふさわしい美しい心が宿る、夢のような世界。

 あの場所が本当に遠い異星人の星なのか、最新技術のAIの結晶が詰まった世界なのか、なんてどうでもいい。

 セヴィリー。もう一度、あなたに会って、話がしたい。話を聞いてほしい。

 自分のうちに溜め込むしかなかったわたしの心を、あなたはきっと笑って受け止めてくれる。


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