幼なじみ - 想いは時を超えて

塩沼 哲(しおぬま てつ)

第1話(完結)

 沙耶ちゃんに似ている・・・。窓ガラスに映る女性の顔を見て、ふとそう思う。


 地下鉄の車内。時刻は夜6時半を回ったところ。

 前に座っているスーツ姿の男性が幸せそうな寝息を立てている。よれよれスーツのこの男性は、仕事を終えた解放感で良い夢でも見ているのだろうか。混雑した騒々しい車内で、家に辿り着くまでのひと時の安息を楽しんでいるのかもしれない。

 でもまああれだ。伸ばしている足が邪魔だ。


 電車がガクンと揺れ、身体が左側に引き寄せられる。

 右側に立っている女性の腕が僕の肘に当たる。柑橘系の爽やかな匂いが微かに漂ってくる。

 もう一度窓ガラスを見る。

 左手に持った本を真剣な眼差しで読んでいるその女性・・・ やはり沙耶ちゃんに似ている。


 沙耶ちゃん ―― ものごごろが付いた時からずっと一緒に過ごしていた幼馴染だ。隣の家に住んでいた。親同士がとても仲良しだったので家族ぐるみで遊びに行くことも多かった。

 彼女とは幼稚園、小学校、中学校、そして高校までが同じだった。一緒のクラスになったことも2回ある。小学校4年生の時と高校3年生の時だ。

 当時のことを思い出す。

 小学生の時はいつも彼女と一緒に登下校をしていた。中学1年生の時もそうだった。

 中学2年生になったあたりから何となく恥ずかしくなってきて、夏休みを境に別々に登下校するようになったような ――

 「ぐひっ!」

 突然の音に僕は驚く。前に座っているよれよれスーツの男が鼻を鳴らしたようだ。

 「ぐひっ、ぐひっ!」

 更に鼻を鳴らしながら、男が音に合わせて自分の身体をビクンビクンと跳ね上げる。

 突然、右足のくるぶしに衝撃が走る。

 「いたっ」

 僕は思わず声をあげる。彼の伸ばしている足に思いっきり蹴っ飛ばされたらしい。

 と同時に、隣に立つ沙耶ちゃん似の女性も小さく声を漏らして顔をしかめる。

 彼女と僕がほぼ同時に下を向く。

 よれよれスーツの男は変わらず平和そうな顔で健やかな寝息を立てている。なんて幸せそうな顔なのだろう・・・

 いや、そんなことはどうでもいいのだ。足が痛いのだ。


 足元を見る。

 彼の右足が僕の右足のすぐ横にある。スーツと同じくらいよれよれの黒いビジネスシューズ。

 なるほど、この靴に蹴っ飛ばされたわけだな。よれよれなのにギラギラ輝いて見えるのは何故だろうか。

 左足は ――、

  な、なんということか! 女性が履いているハイヒールの隙間、両足10センチほどの間にぴったりとはまりこんでいるではないか!! 一体全体どうすればこの狭い隙間に入り込むことができるのだ!!!

 女性の狭い空間に捻じ込まれた男の・・・(黒光りした)・・・靴がギラギラと輝いて見えるのは、 この男の欲望を表しているのかもしれない。もしくは僕自身の欲・・・

 「ぐひっ!」

 男がまた鼻を鳴らす。

 「ぐひっ!ぐひっ!」

 これは危険である。

 右隣に立つ沙耶ちゃん似の女性は両足を一歩ずつ後ろに下げ、男の黒光りした欲望から離れる。

 それにしても、ここまで強く蹴っ飛ばされたのは久しぶりである。寝ている男の不可抗力とはいえ、普段の僕なら少しばっかりイラッとすることだろう。しかし今日は不思議と許せてしまう。

 ―― なぜだろう?

 男の顔が幸せそうに見えるからなのか。それとも今夜これから合コンがあるからなのか・・・。

 考えるまでもないか。後者だ。


 そう、今、僕は合コンに向かうために地下鉄に乗っている。

 20分ほど前に仕事を終え、豊洲駅から地下鉄有楽町線に乗り込んだのが5分くらい前。沙耶ちゃん似の女性はその次の駅である月島から乗ってきた。


 今夜の合コンを手配したのは会社の同期で親友の川島という男だ。

 ここ1年間ほどは一緒に合コンに参加するメンバーがだいたい決まっていて、今回も同じメンバーで臨むことになっていた。同期の川島と、ひとつ後輩の西山、そして僕の3名である。

 男性陣の幹事は今回の合コンを手配した川島が務めている。

 女性側の幹事は川島が別の合コンで知り合った子らしく、何とかという名前の、海外に拠点を持つ航空会社で国際線の客室乗務員をしているとのことだった。その彼女が連れてくる他の2名も同じく客室乗務員だと聞いている。

 キャビンアテンダントたちとの合コン。

 ここ半年間ほどは、だいたい月1のペースで3人が順番に合コンをアレンジしていたが、今回のようにキャビンアテンダントたちと行える機会はそうそうあるものではない。

 金曜日の夜。とても楽しみである。


 待ち合わせ場所は東京国際フォーラムの有楽町駅側の入口付近。地下鉄で行く場合はB5出口を出て地上に出たあたりだ。

 待ち合わせ時間は18時45分。

 腕時計を見る。あと7分。結構ギリギリかもしれない。

 なにはともあれ、今夜のキャビンアテンダントたちとの合コンがあるからこそ、蹴っ飛ばされたことも許せてしまうのだろう。

 そして右隣に立つ女性が美しく魅力的なことも、もうひとつの要因かもしれない。


 ―― そう、沙耶ちゃんも美しく魅力的だった。


 彼女は僕の初恋の相手だった。

 彼女のことを異性として意識し始めたのは小学校3年生くらいの時だったと思う。小学校4年生で同じクラスになった時にはとても嬉しかったことを覚えている。

 そう言えば、一緒に登下校をしている僕らを見てクラスメートたちが囃し立てていたっけ。

 「お前たち付き合ってるだろ」みたいに単刀直入に言ってくる人もいれば、「ひゅーひゅー!」みたいな言葉なのか音なのかを繰り返しながら僕たちの周りを単にぐるぐる走り回っているだけのやつもいた。

 中にはメロディー付きで「いーけないんだー。いけないんだー。せーんせいにーいってやろー」みたいに言う、、というか、歌うやつもいた。

 ちなみにこのメロディー付きフレーズは異性交遊(的なもの)だけでなく色々なシチュエーションで使えるので、小学生たちの間ではかなり重宝されていた。

 当時の僕は「付き合う」ということがどういうことなのか分かってはいなかったけれど、そういう風にクラスメートたちから囃し立てられることに対して悪い気はしなかった。

 もちろん実際に付き合っているわけではなかったし、それまでと変わらず一緒に登下校をする幼馴染というだけの関係だった。

 もし幼稚園や小学校低学年の時と違うことがあったとすれば、それは僕が彼女に少なからず異性としての好意を持っていたということだろう。


 高校3年生で一緒のクラスになった時は全く別の感じがした。

 1学期の初日に張り出されるクラス分けの張り紙の中に沙耶ちゃんの名前が僕と同じクラスの中に書かれているのを見つけた時、僕はあまりの嬉しさに飛び跳ねそうになったのを覚えている。

 彼女の名前を見つけた瞬間、僕の心臓はいったん止まり、そのあと心拍数が一気に300くらいまで跳ね上がったような気がした。

 とにかくそれは、それまでの僕の人生の中で一番嬉しい出来事だった。


 高校1年生くらいからだと思うけれど、僕は沙耶ちゃんの事を考えるたびに胸がキューッと締め付けられるのを感じていた。

 よく、好きな人を見たり思い浮かべると胸がキュンキュンするって言うけど、それって本当なんだなって思っていた。

 いや、キュンキュンというか、もっとギューッと胸が締め付けられて、苦しいというか・・・ 切ないというか、うまく言葉にできないけれども、とても狂おしい感じがしていた。

 だからこそ、高校生活最後の年に沙耶ちゃんと同じクラスになれたことがとても嬉しかったし、この1年間の中で何か素晴らしいことが起こるのではないかと、なんかそんな予感めいた明るい希望に満ち溢れていたのだった。

 でも実際には、クラスの中ではほとんど話をすることはなかった。

 彼女と時々目が合うことはあった。でも沙耶ちゃんは「女子グループ」の中にいたし、僕は僕で「男子グループ」の中にいた。

 ずっと彼女に話し掛ける機会をうかがってはいたけれど、好意を持っている人に話し掛けることが何となく恥ずかしかったし、それより何よりも彼女に何という言葉を掛ければいいのかが分からなかった。


 一度だけ沙耶ちゃんの親友である香純ちゃんから「沙耶のことどう思ってるの?」みたいなことを聞かれたことがあった。

 余りに突然だったので気が動転してしまい、なんと答えたのかは覚えていない。多分「ただの幼馴染だよ」みたいな感じで曖昧に答えたのだと思う。

 それからしばらくの間、おそらく1か月間くらいだったと思うけれど、沙耶ちゃんは何となく元気がなさそうに見えた。友達の香純ちゃんからは何度か睨まれた。


 高校3年生で同じクラスになって、沙耶ちゃんと初めて話しをしたのは9月に行われた文化祭の時だった。


 僕たちの高校では、土日の2日間で開催される文化祭の最後に、校庭でキャンプファイアーを囲みながらフォークダンスをするのが恒例になっていた。

 暑さが残る夜の校庭で行われるこのイベントは、とても雰囲気が良く、非常に楽しいイベントだった。

 ただ、フォークダンスに参加するには一緒に踊る相手を探さなければならなかったし、場合によっては初めて会う人に「一緒に踊りませんか」と声を掛けなければならないという過酷な試練が待ち受けていた。

 でもこのフォークダンスがきっかけで付き合い始めるカップルも少なからずあったので、恋人が欲しいと願う学生たちにとっては、ある意味チャンスなのでもあった。


 1年生と2年生の時は、僕は意中の人に声を掛ける勇気がなかった。単に外側からフォークダンスを眺めているだけだった。

 雰囲気が良かったので、それはそれで楽しかったのだけれど、3年生になってこのイベントも最期だと思った時、僕は友人の聡史と一緒に2人組の相手を探す決心をした。

 ちなみに聡史を誘ったのは、ひとりよりもふたりの方が声を掛けやすいだろうという安直な考えからだった。


 日が暮れて辺りはすっかり暗くなっていた。

 フォークダンスを踊る男女がキャンプファイアーに照らされて赤く染まっていた。

 その周りを取り囲むように見ている学生たちの顔も上気していて、やはり赤く染まっていた。


 聡史と僕は当たって砕けろの精神で最高に可愛い女子高生2人組を探すことにした。

 フォークダンスが行われている校庭の中はとても込み合っていた。ダンスの相手を探している人もいたし、遠巻きに見ているだけの人もいた。

 会場は音楽がガンガンと鳴り響いていた。それに合わせて、キャンプファイアーの赤い炎が空高く立ち昇っているように見えた。

 校庭の中は妖しい夏祭りのような非日常的な雰囲気で包まれていた。


 とにかく人が多かった。でも僕たちが理想とする最高に可愛い女子高生2人組はなかなか見つからなかった。

 今考えると「最高に可愛い」ってなんだよって思う。でも当時の僕らにはそれだけで十分だった。言葉ではうまく伝えられないけれど、心の中では分かっていたのだ。

 その人を見た瞬間に頭の中がゥワーァっと掻き乱され、その人を思い出すだけで胸がギューっと締め付けられるような女子高生は確実に ―― いや、必ずきっと、いや、どこかには存在していた。

 例えば・・・ 駅のホームとかだ。

 もしそこにいなかったとしても、少なくとも僕たちの頭の中には存在していた。

 そういう最高に可愛い女子高生2人組を僕たちは探していた。

 しかし、この校庭の中ではなかなか見つけることができなかった。とにかく人が多かった。探している間に何人もの人にぶつかった。

 可愛い女子高生はたくさんいた。しかし魅力的で最高に可愛い女子高生はどこにもいなかった。

 ふと人混みが途切れた時、そこにひとりの女子高生を見つけた。


 沙耶ちゃんだった。


 次の瞬間、僕の目からは今まで見えていた赤い色が消え去り、耳からは聞こえていた音楽が消え去った。

 沙耶ちゃんだけがはっきり見えて、それ以外の全てが色のない静寂に包まれたように見えた。

 それはまるで他に誰もいない薄暗い舞台に立つ美しく可憐な女優に、一筋のスポットライトだけが当たっているような、そういう静かで研ぎ澄まされた空気感に包まれているような感じだった。

 それをすぐ横から――


 はっと我に返る。

 目の前には沙耶ちゃんがいた。そしてその周りには先ほどと変わらず赤く染まった人々でごった返す校庭が見えた。

 音楽は相変わらず割れんばかりにガンガンと鳴り響いていた。


 沙耶ちゃんは親友の香純ちゃんと一緒にいた。

 彼女たちも僕達の存在に気付いたようだった。


 そのあとはまるでスローモーションを見ているようだった。

 僕は沙耶ちゃんに近付いて行き、彼女に向かって「一緒に踊りませんか」と言った。

 なぜそんな風にすらりと声を掛けられたのかは分からない。でもその言葉を言うことはその場ではとても簡単なことだった。それがとても不思議だった。

 夜、キャンプファイアーで赤く染まりながらフォークダンスを踊る人々。その妖しい雰囲気の中にいるという高揚感がそうさせてくれたのかもしれない。


 沙耶ちゃんは一度香純ちゃんの方を見てから僕に視線を戻した。

 次に聡史の方を見た。

 それから僕に向き直って小さな声で「うん」と答えた。

 僕は嬉しかった。クラス分けの時に沙耶ちゃんの名前を同じクラスの中に見つけた時と同じくらい、いやそれ以上に嬉しかった。


 一緒になった4人は暫くおしゃべりをしながら校庭の中をぶらぶらと歩いた。

 聡史が香純ちゃんのことを気に入っていることはなんとなく分かっていた。この4人の組み合わせは神様がアレンジしてくれたのではないかと思うくらい完璧だった。

 自然と組がふたつに分かれ、僕は沙耶ちゃんとふたりきりになった。


 フォークダンスに加わるのは後にすることにして、僕たちは校庭の端にあるベンチに座った。

 僕は沙耶ちゃに言いたい言葉があったけれど、それをなかなか言うことができなかった。

 会話が一段落して沈黙が訪れるたびにその言葉が喉元まで出てきた。でも実際に言葉に出すことができなかった。心臓が口から飛び出すのではないかと思うくらいドキドキして、今にも胸が張り裂けそうだった。


 沙耶ちゃんも何か言いたそうな顔をしていた。

 それが何なのかは分からなかった。時々思いつめたような表情になるのだけが少し気になった。

 時々そよいでくる夜風がとても気持ち良かった。

 風が吹くたびに微かなレモンの香りがした。

 沙耶ちゃんが使っているシャンプーの匂いだった。僕は彼女のこの香りが大好きだった。


 20分ほど経った時、校内放送が流れ、フォークダンスがもうすぐ終了するという内容を告げた。

 お互いにまだ話したいことがたくさんあったけれど、僕たちは高校生活最後の踊りの輪に加わることに決めた。


 フォークダンスはとても楽しかった。

 沙耶ちゃんの肩や手に触れるたびにドキドキした。

 彼女と踊っている間、僕は不思議な感覚を感じていた。温かくて何か大きなものに包まれているような感覚だった。静かで優しくて、そして安心感があった。今考えると、それは生まれて初めて感じた幸せというものだったのかもしれない。

 しかし、沙耶ちゃんと一緒に踊れた時間はほんの数十秒間だけだった。

 フォークダンスの相手はすぐに変わってしまった。

 数十秒おきに相手が変わっていく。相手が変わるたびに沙耶ちゃんが離れていく。

 彼女と次に踊れるのはしばらく先になってしまうだろう。そう考えると、とても苦しくて切なかった。


 そんな矢先にフォークダンスは終了してしまった。

 僕はもう一度沙耶ちゃんと踊りたい、もう一度触れたいと思ったけれど、彼女の姿は近くにはなかった。


 唐突に激しいリズムの音楽が流れ始めた。

 どこからか太鼓が大音量で鳴り響き、キャンプファイアーの炎の勢いが増した。


 初めてこれを体験する人はきっと驚いたことだろう。

 フォークダンスの後、この勢いを増した炎の周りを太鼓の激しいリズムと共に大人数で走り回るというのが本当の意味での文化祭最後の恒例行事だった。


 半数くらいの人がフォークダンスが終わった時点で踊りの輪から離れてしまうので、この全力疾走の中に沙耶ちゃんが残っているのかどうかは分からなかった。

 僕は沙耶ちゃんを探したかったけれど、この場から離れる人と逆に加わる人でごった返す中で一人の人間を探すのは難しいだろうと判断して、全力疾走の中に残ることに決めた。

 おそらく走っている最中に見つけられるだろうという希望的楽観もあった。


 太鼓のリズムはどんどん速くなっていった。見上げると空が赤く染まっていた。

 周りで走っている人たちは声にならない叫び声を上げ初めていた。

 気持ちがどんどん高揚していくのを感じた。いつの間にか僕は周りに同調し大声で何かを叫びながら走っていた。

 聞こえてくるのは太鼓のリズムと一緒に走っている人たちの叫び声だけだった。

 何人もの人にぶつかった。勢い余って転倒している人が見えた。

 炎の熱さを感じた。見えているものは赤い光と、もみくちゃになっている人々だけだった。とにかく走り続けた。大音量で鳴り響く太鼓のリズムと激しい音楽は僕の気持ちをどこまでも昂ぶらせた。

 また誰かが転んだ。それでも気にせずに走り続けた。人とぶつかりながら、もみくちゃになりながら、何が何だか分からなくなりながら、それでも僕は走り続けた。

 太鼓の音がどこまでも大きくなり、リズムはどんどん激しくなっていった。もみくちゃになり、昂ぶった気持ちが更に昂ぶり、走って、それでも走って、赤い光がだんだんと・・・ 叫び声と、また誰かが転んで、太鼓のリズムと・・・ 訳が分からなくなりなりながらも、それでも走り続けて、止まらなかった、なんだ? 世界と自分とを隔てている境目がなくなって、全てがぐちゃぐちゃで、混ざり合っていくようで、気が狂いそうなほどの昂揚感と陶酔感を感じて ――

 そして次の瞬間、何も分からなくなった。

 全てが消失した。

 世界も自分も。


 全てが真っ白だった。


 僕は今まで感じたことがないほどの恍惚感に包まれていた。



 ガクン。

 突然身体が左側に引っ張られ、はっと我に返る。

 電車が再びブレーキを掛けたようだ。

 右隣の沙耶ちゃん似の女性の左肘がもう一度僕の右肘に当たる。


 ふと思う。あの時の感覚、あの時の陶酔感や恍惚感を思い出す為に僕はナイトクラブに通うようになったのかもしれない。

 そう、僕はクラブという空間が好きだった。

 大音量で鳴り響く音楽。暗い室内で光り輝くライトやレーザービーム。非日常的な空間。そういう雰囲気の中で感じる感覚があの時の感覚に似ているのだ。


 右側に立つ沙耶ちゃん似の女性は相変わらず本を左手に持って読んでいる。

 外国語の本のようだけれども何語なのかは分からない。英語ではないような気もする。


 でもなぜ、その女性が沙耶ちゃんに似ていると思ったのだろうか。

 それは良く分からない。

 高校生の沙耶ちゃんは黒髪だったし髪型も全く違う。化粧だってしていなかった。

 背の高さはどうだろうか。

 それも何とも言えない。ハイヒールの高さを差し引くと沙耶ちゃんくらいの背丈になるような気もする。けれども、やっぱり何とも言えない。

 女性の顔をまじまじと見たわけではないし、ガラスに映った顔がちらちらと見えるだけなのだ。

 それではなぜ沙耶ちゃんに似ていると思うのか・・・

 多分、彼女の雰囲気だろう。顔立ちだけではなく、立ち方や首のかしげ方、本を持っている手や指の感じ。そういったもの全てをひっくるめて、沙耶ちゃんに似ていると感じたのだ。

 でも、沙耶ちゃんのはずはない・・・。彼女がここにいるはずはないのだ。


 あの日、あの文化祭の最終日。あのキャンプファイアーの日。あのフォークダンスの日。あの全力疾走で真っ白な感覚に包まれた日。そして・・・



 唐突に世界が揺れ、右肘に痛みを感じた。

 何が起きたのかを理解するのに数秒かかった。

 僕は校庭の中ほどにいた。誰かとぶつかって勢いあまって転んでしまったのだ。

 頭の中が真っ白になって恍惚感を感じてからどれくらいの時間が過ぎたのかは分からない。長い時間どこかにいっていたような気もするが、多分、ほんの数分間のできごとなのだ。


 太鼓の音は既に止んでいた。

 僕は立ち上がり、辺りを見渡した。

 既に走る人の姿はなく、校庭に残っている人の数もまばらだった。燃え残った木材が残り火でバチバチと音を立てていた。


 右肘にヒリヒリと痛みを感じた。転んだ時にすりむいてしまったらしい。

 制服のズボンに付いた砂を払い、さっき沙耶ちゃんと一緒に座っていたベンチに向かった。もしかしたら彼女がそこで待っているのではないかと思った。


 ベンチに着く。

 そこに沙耶ちゃんはいなかった。

 時計を見る。21時を回っていた。全力疾走が始まってから1時間以上経ってしまっている。

 もう帰ってしまったのだろうか。そう言えば校庭の中には香純ちゃんの姿も聡史の姿も見えなかった。こんな時間だし、既にみんな帰ってしまったのだろう。

 そう考えると少し寂しい感じがした。

 でも沙耶ちゃんとはまたクラスで会える。明日、月曜日は休校になっているけれど明後日からまた会えるのだ。それだけで嬉しかった。

 これからは今までと違い、きっと彼女と普通に会話ができる。そう思った。それだけで幸せだった。

 全身が気怠く疲れ切っていたけれど、心の中はウキウキしていて希望に満ち溢れていた。



 2日後の火曜日。

 沙耶ちゃんは学校に来なかった。


 朝のホームルームで担任から告げられたのは、父親の仕事の関係で沙耶ちゃんがナイジェリアに引っ越したということだった。

 それを聞いてみんな驚きの声を上げた。知っていたのは担任の先生と親友の香純ちゃんだけだった。


 彼女の父親が外務省(もしかしたら別の省庁だったかもしれないけれど)に努めていることは知っていた。単身赴任で色々な国に行っていることも。

 でも、家族ぐるみで海外に引っ越すのは初めてのことだった。

 ナイジェリアに行くことが決まったのは文化祭の1週間前だったと担任が言っていた。あまりに急な話で沙耶ちゃん自身も驚いていたらしい。しかも日本に戻ってくる予定はないという。

 それを聞いて更にみんなが驚いた。

 父親の仕事の特殊性(彼女は担任にそう言ったという)や自分の将来のことを考えて、家族みんなで引っ越すことに決めたということだった。


 最後に担任がこう締めくくった。

 「ナイジェリアは紛争が多くとても危険な国です。みんなで彼女の安全を祈りましょう」

 その言葉を聞いた瞬間、クラスメートたちの間に大きな動揺が走った。静まり返っていた教室がとたんに騒がしくなった。


 ナイジェリアは非常に危険な国。

 彼女がその国に引っ越すことを仲の良い友達と担任以外には伝えなかったのは、そういう理由があったのだ。つまり、高校生活最後の文化祭を何も心配することなく、みんなが心から楽しんで欲しいと彼女は願っていたのだ。


 「ナイジェリアに引っ越す。もう会えなくなる」

  沙耶ちゃんが校庭のベンチで言いたかったのはそのことだったのかもしれない。

 なぜもっと早く言ってくれなかったのだろうか。数日でもいい、もっと早く言ってくれていたら何かが変わっていたのかもしれない。

 それを香純ちゃんに言ったところ、沙耶はずっと君に嫌われていると思っていたから、と返された。幼馴染なのに一度も口をきいてくれない僕に対して彼女は何かを言いたくても言えなかった、のだと。


 それからの数か月間は心の中にぽっかりと大きな穴が開いた気分だった。

 何をしても面白くなかったし、何を食べても美味しくなかった。受験勉強にも身が入らず、考えることと言えば沙耶ちゃんのことだけだった。



 それから3ヶ月後。雪がちらつく大晦日の日に従兄が僕の家に遊びに来た。


 社会人1年目の彼は、仕事を覚えるのが大変だけれども、給料を貯めて初めて海外旅行に行くことができたと嬉しそうに話していた。

 従兄はずっと英会話を勉強していたので、旅行会社の添乗員付きのツアーではなく、個人旅行としてシンガポールとタイに行ってきたのだという。

 「英語を話せれば、どこの国にだってひとりで行けるんだぜ」と彼は豪語していた。

 僕は内心、北朝鮮とか北極とか行けないところもあるんじゃないかなと思ったけれど、でもそれって凄いことだなと感じた。

 その瞬間、僕の頭の中で何かがはじけたような気がした。

 英語を話せるようになれば、ナイジェリアにだって行けるのではないか?危険な国だから旅行会社のツアーなどはないのだろう。でも個人で行くことならできるはずだ。


 その日から僕には目標ができた。

 英語を話せるようになるためにやらなければならないことをリストアップした。

 そのリストに挙げられた項目を細かく分析した結果、まずやらなければならないことは、今までと同じく学校の勉強と大学入試のための受験勉強だという結論に至った。

 今すぐに何かをできなかったとしても、将来を見据えて今できることから準備を始める。そう心に決めたのだった。



 それから2年と4ヶ月が経った。

 僕は大学2年生になっていた。

 春になり、大学構内で新入生を集めるためのサークル勧誘があちらこちらで行われている時期に、ひとつの小さなニュースが流れた。

 ナイジェリアで邦人と思われる家族3名がテロに巻き込まれて死亡したというものだった。

 でもそれは、アフリカにある遠い国の出来事だったし、その3名が本当に日本人であるのかどうかすら不明だったので、それ以上のニュースになることはなかった。


 僕は気が気ではなかった。その3名が誰なのかを切実に知りたいと思った。


 すぐに僕はナイジェリア大使館に問い合わせをした。

 電話に出た大使館の職員に今までの経緯を手短に話すと、その3名はやはり日本人であった、ということを丁寧に教えてくれた。

 ただ、名前までは分かっていないということだった。

 その職員は、現地の住民の話をまとめると、どうやら「トノナカ」という名字だったのではないか、とだけ言っていた。

 トノナカ。それは沙耶ちゃん名字だった。


 戸野仲沙耶、それが彼女のフルネームだ。

 僕は大使館の職員に「トノナカ サヤ」という日本人が今でもナイジェリアに住んでいるのかどうかを確かめて欲しいと伝えた。


 その2日後に大使館から連絡があった。

 その回答は「トノナカ サヤという女性が以前ナイジェリアに住んでいたことは確かだが、今は分からない」というものだった。

 日本にある大使館なのに自国に住んでいる日本人の所在が分からないとはどういうことだ?とも思ったが、ナイジェリア国内が紛争で混乱しているので、出入国管理をしている省庁もうまく機能していないという話だった。


 次に僕は日本の法務省にある入国管理局に電話をした。

 戸野仲沙耶が日本に戻っているかどうかを確かめたかったからだ。

 その回答は「日本には戻っていない」というものだった。

 「出入国の記録を観る限り、おそらく今でもナイジェリアにいるのではないか。しかしナイジェリアから記録を入手できないため詳細は分からない」という回答だった。


 戸野仲という名字は珍しいのだと思う。沙耶ちゃんの家族以外でその名字を持つ人に会った事はなかった。テレビなどでもそういう名字を見たことはない。

 その珍しい名字を持った、沙耶ちゃんの家族ではない別の日本人3名がナイジェリアという危険な国に行く確率はどれくらいあるだろうか。

 僕は絶望的な気持ちになった。

 テロに巻き込まれた3名は沙耶ちゃんとその両親に違いなかった。



 あれから9年が過ぎた。

 今でも沙耶ちゃんのことを思い出すことがある。でもそれは良い想い出としてだった。あの時に感じた深い悲しみは9年という時間が解決してくれていた。


 右隣に立つ女性が沙耶ちゃんであるはずはない。それは分かっていた。

 でも彼女に似ている女性に出会えたことがとても嬉しかった。

 あと数分で電車を降りるけれど、その数分間を大切にしたいと思った。

 唐突に涙がこぼれた。


 電車が有楽町駅に着く。

 僕は隣に立つ女性に心の中で「ありがとう」を言い、電車を降りるためドアの方に向かった。


 待ち合わせ時間まであと3分しかなかった。

 さすがに合コンで遅刻はできないだろうと思ったので、改札を出てからB5出口まで走ることにした。

 あと2分。ギリギリであるけれども、なんとか間に合いそうだ。


 人々でごった返す階段を速足で駆け上り、改札を出る。


 次の瞬間、先ほど右側に立っていた女性と同じ柑橘系の香水の香りを感じた。

 一瞬足を止めて周りを見渡す。


 すぐ右側の改札を小走りに走りながら出て行く女性が見えた。

 あの沙耶ちゃん似の女性だった。


 そのまま僕と同じ方向のB5出口方面に向かって走っていく彼女。

 ハイヒールで走りにくそうではあるけれども、その後ろ姿は沙耶ちゃんそのものだった。

 彼女の後姿は高校時代に何度も見ているのだ。見間違えることがあるだろうか。


 もしかしたら・・・


 いや、まさか・・・


 沙耶ちゃんのシャンプーの香りを思い出す


 そんなはずはない・・・



 彼女が読んでいた本 ――


 そんなはずは・・・


 ・・・


 いや、でも、、もしかしたら・・・


 もしかしたら・・・


 ・・・


 微かな希望を持ちつつ、僕は沙耶ちゃん似の女性が向かったのと同じB5出口方面に向かって走り始めた。



 (終)

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