第1話 世を拓く熱き光、君に名を与えよう
私の目の前にあるこれは、なんだ?
見ているだけで冷や汗が垂れる。
触れれば激しい痛みがある、しかしそもそも触れているのか?
根源的な恐怖ともいうべき感情が、長く触れるべきではないと訴えている。
それに、今は夜のはずだが、電気も点けていないのにこれほど明るい。
光に色があるとするならこれは赤から橙といったところか。
このようなものに、私は何と名を付けるべきだろう?
そもそも、そう、それよりも問題は。
これを私は、彼は、本当に知らなかったか?
――――
「初めまして。僕、ヒゴ・エンネって言います」
……私のもとに彼が現れたのは、秋風の吹く冷えた午後だった。
9月も下旬、粘ついた湿気を乾いた冷気が流していくこの季節は、引きこもりがちな私としても過ごしやすい季節だ。温泉街たるこの町も、紅葉が始まろうというこの時期にあわせてキャンペーンの準備をしている。町が活気づくのはよいことだろう。
そんな喧騒を遠くに聴きながら、私は玄関先で少年と対面していた。
「トワ・クラ先生の事務所……で、合ってますか」
若々しい澄んだ、しかし力強い声。荷物は少なく、傍目には観光で山登りに来た少年としか見えない。日に焼けた肌は健康的だ。
「無論だ。看板は掲げていないが、役所で訊けばそう答えるだろうよ」
一瞬の観察ののち、問いに答える。
看板を掲げていないのは自宅正面の交番に地図があるからだ。恐ろしいことに、我が家は地図に“命名学者トワ・クラ邸”と書かれてしまっている。自宅、兼事務所で公営施設なのだから当然ではあるのだが……。
「よかった、ちょっと自信なくて。実は、相談したいことがあるんです」
上擦った声と、リュックサックを握った手の強張りに、熱意と迷いが見える。少なくとも、玄関先で応対するには多少手間取りそうだ。私は一歩下がり、
「理由もなく訪れられるよりはよほどありがたい。応対しよう、中に入りなさい」
ひとまず彼を応接間に通すことにした。茶を淹れるよう玄関先からプログラムを走らせる。妙なところで気の利く施設で、玄関のコントロールパネルを操作すると応接間の壁に仕込まれた装置からティーバッグやお湯が出て自動的に茶を淹れてくれる。
なお、いまいち気の利かないことに、急須は自分で入れておかないと機能しない。帰宅時に茶を淹れようとして全てこぼしたことのなんと多いことか。
応接間の壁から急須を出し、紙コップに茶を注いで二つ、机に置く。気温的にはホットで問題なさそうだが、すぐに手を出せば火傷しそうだ。向かい合ってソファに座ると、緊張しているのか居心地悪そうにしていた彼がまず口を開いた。
「まず、……そうだ、自己紹介しますね。」
「どうぞ。名前はさっき聞いた。」
「えっと……そう、16歳です。男で……」
見ればだいたいわかることを説明し始めた。明らかに知らない人間と話すことに慣れていない様子だ。相手を知らないこと……いや、自分を知らない人間が恐ろしい、といったところか。
まさに私の守るべきもの、なのだろう。未知を払う勇者として。恐れは否定されるべきではない、生きるために必要な感情なのだから。
ただ、傍から見ている分にはとにかくコミュニケーション能力のない少年だ。適当に相槌を打っているだけで、彼は
「学生……あっ、
「ほう、龍螺と来たか」
つい、声に出して驚いた。
龍螺高校は、この町ではなく麓の街にある大きな高校だ。入学には高い学力が要求され、エスカレーター式で龍螺大学に行く者も、よその優良大学に行く者も多いと聞く。隣接するこの山と広い敷地で運動についても優秀な学生が集まるそうだ。
目の前の彼は……なるほど、先の特徴と合わせて考えれば、「人と接する機会のない運動部員」といったところか。学があればこうまで個人情報を垂れ流すまい。一方で完全に部屋に篭っているような体つきでもない。恐らく陸上部か?
「お父さんの職業は警察で、けっこう偉いみたいで、お給料が……」
興味を惹かれた部分を華麗にスルーして、もはや個人情報の域を超える情報を流し始める。いい加減頭が痛いが、ここには私以外誰もいないし私も聞いてやしないので、依頼主の個人情報は保護されている……ということにしよう。もっとも、この状況でこうまで喋ってしまう彼がよそで自身の個人情報を守れているかは疑問だが。
とはいえ、そろそろ語り口も落ち着いてきたと見える。
「……という、感じで。あっ、あと漢字といえば名前ですけど、ヒゴは熊本の肥後で、エンネは燕の音で燕音、です。こんな感じでよろしいでしょうか……?」
「あぁ、あぁ、充分だ。よぅくわかった」
たっぷり30分、いったい何を演説していたのかはほとんど記憶にないが、自己紹介が終わったらしい。最後にはご丁寧に字解までしてくれたようだ。肥後という警察官に知り合いがいなくてよかった。
なお、私ことトワ・クラは外国の血らしく、漢字で書くことはない。
「私の自己紹介は必要かね?」
「あ、いえ、クラ先生のことは学校で聞いてきましたので大丈夫で……」
「トワ、で結構だ。家族も先生と呼ばれる職業なのでな。申し訳ないがファミリーネームは控えてくれ」
「あ、す、すいません!」
指摘すると、ようやく落ち着いたのにまたひどく狼狽してしまった。こうまでしどろもどろになると申し訳ないというより話が進むか心配になる。どうも、私と波長が合わない気がしてならん。
赤面して拳を握りしめる彼に、ひとまず、茶を飲むように勧めた。
……茶というのは、とても大切な文化だ。酒のように酩酊もせず、コーヒーほどには覚醒しない。落ち着くための飲料としては申し分ない。
「で、落ち着いたかね」
「はい……すいません」
よく謝る。この歳で謝り癖とは、まったく龍螺の教育にも呆れたものだ。しかし、あの学校はそもそも誰かが教育をする、という方針ではなかったような気もする。となればこれは生まれつき、か。
「君と会ってから40分といったところか。そろそろ本題に入ってほしいのだが」
「はい、申し訳ないです、えっと……何から話したものか……」
「……順を追って話してくれ」
ここまできてもう一度頭を抱えるのは勘弁してほしい。まだ書き始めたところとはいえ、この件を記録すべきあの手帳もページ数は有限である。私も彼に任せきりにするのは諦めよう。
「まず、僕、こないだよくわからないものを見つけてしまって」
「どこでだね」
「山の上です、けっこう上の方……この町から1㎞くらい登ったところです」
「高さでか?距離でか?」
「高さです、学校の先生がそう言ってました」
この町の標高はおおよそ700m。1㎞となると、もうほとんど山頂に近い。
「なぜそんなところに?」
「僕、陸上部で……高地トレーニングの一環なんです。登山道沿いですけど」
意図せず陸上部という予測の確認がとれた。登山道から離れてトレーニングをしていた学生が行方不明、という事件は先月も見たが、事件の教訓は活かされている、と見るべきか。
しかし、登山道沿いでよくわからないもの?
「もう少し具体的な位置を教えてもらえるか?それと、時間も」
「はい。えっと、あれは先週の土曜日だから……あの日は、昼前にこの町を出て、登山道を歩き始めたんです。だから山頂についたのはだいたい13時前くらい」
先週の土曜、13時前。特に事件などの記録はない。
「いつものように、目印の木が見えたのでトレーニングに入ったんですけど。なんか、変な臭いがしたんです。でも、少しいい匂いだなって思って」
「においが出るもの、か」
動物の死体か?いや、いい匂いというなら腐ったものではなさそうだ。未知の花であるなら、私の管轄ではないが……
「それで、見に行こうと思ったんですけど、なんか、暑くなっちゃって。帰って来たんです」
「……む?」
待て。それはつまり、
「君は、その何かを見てはいないのか?」
「はい。何があったのかは、わからないです」
……結局、頭を抱えることになった。物のディテールが全く見えてこない。まさか30分自己紹介をした後の本題が、10分かからないとは。
その落胆した様子を見てとったのか、慌てた様子でヒゴ君は付け足した。
「あ、で、でも、僕、このところ毎日山頂に行っていて!ですから、えっと、少なくともこの3か月以上はあそこにないにおいだったんです!だから、その……信じ、」
「信じない、と言っているのではない」
私は立ち上がり、上着をとった。
「未知の匂いが、あった。ならば、それに名前をつけるのも私の仕事には違いない。匂いの源がわかればそれに越したことはないがな」
こうなれば、仕方がない。世の中、動かせないものだってあるのだ。自分の足で見に行かなければ名づけができないことなど容易に起こりうる。今まで運よくそんなことはなかったが、それも今日までだったということだ。
「案内してくれ。目印の木があると言ったな?」
――そうして登ること、2時間。
「なる、ほど……陸上部、は、伊達ではない、な……っ」
「だ、大丈夫ですか……?」
息を切らせてついていく私を上からおろおろと見下ろすヒゴ君。全く息を切らせていない。自身の加齢による体力低下が恨めしい。傾き始めた太陽に、気温も下がり始めている。切実に帰宅したい。
「心配は、要ら、ない。それより日が落ちて来たが、は、目印の木はわかるか?」
「大丈夫です、登山道から見える位置ですし、あそこだけ手すりのロープが切れているので……」
それが目印でいいんじゃないのか。
「一応、切れたロープは、役所に報告しておくよ……」
「あ、あそこです!」
目をやると、確かにロープが切れている。で、目印の木というのは、なるほど何か日常的に目印になるよう削っているのか?木の皮にいくつも正の字が彫られている。正直な感想としては、地主に怒られるのでやめた方がいい、といったところだ。
「オーケイ、目印は理解した、少し、休もう……」
そう言って登山道に座り込む。整備された道のなんとありがたいことか。
「あれ……ここ、草むらだった気がしたんだけどなぁ……」
なにごとか呟いているヒゴ君をひとまず視界から外し、暗がりの山を見る。まだ少し日が残っているためある程度は見通せる。日常的にこの山に登っているわけではないが、「山らしくないもの」はこうして見る限り見当たらない。木々、草、枯れ葉……落ちた葉も乾いていて、風が吹けば舞うほどだ。少し、風が強いか?
「トワ先生」
不意に神妙な声がかけられた。振り返ると、困惑した顔でこちらを見る少年。
「うむ?何か、見つかったか」
「いえ、ないんです」
「そうか……無駄足だったか」
早々に落胆する私に、またしてもヒゴ君は慌てて訂正する。
「いえ、そうではなくて。あったはずのものが、ないんです。といっても草むらですけど……」
無が、ある。なるほどそれは困った話だ。
「とりあえず、そこに連れて行ってくれ。君の目に映らないものが私の目に映ることもあるだろう」
「はい!こちらです!」
嬉しそうに小走りで先導するヒゴ君。ほぼ犬だな。呼吸を整えて見に行くと、彼は何もない木々の合間で立ち止まった。そこが、ない場所ということか。草むらがあったということだが、確かにそこには枯れ葉しか落ちていない。
「いや……暗くてわかりづらいが……」
何か、枯れ葉というには小さい。細い……黒い?たとえ枯れ葉であっても元は植物であり、葉としての機能が形に見て取れるはずだ。この葉は、欠損が多すぎる。虫食いだとしても、これほど全体的に収縮するものか?
「先生、何かわかりますか?」
「あぁ。何か、あるな。無駄足ではなかったようだ、ひとまず感謝する」
言葉のみで感謝を表したそのとき、不意に風が吹いた。風向きは山頂から町へ向けての北風。だが、風に乗って何か、妙な臭いがする。
「先生これです!僕が言っていたにおい!少しいい匂いでしょう?」
いい匂いかどうかはともかく、確かに日常生活では知らないにおいだ。いや、知らないにおい、だったか?何か違和感がある。だが、違和感の正体が掴めない。
「匂いを辿ろう。風上に向かえばわかるはずだ」
……山を登る。匂いはますます強くなる。この匂いにも、名が必要なのだろう。花の匂いではない。もっと何か、力強いにおいだ。たしかにいい匂いのようにも思えるし、かといって長く嗅いでいれば体に毒のような気もする。
「考えてもしかたないが。そろそろか?」
既に匂いは強烈なレベルであり、いい匂いなどと言ってはいられない。すると、先導していたヒゴ君の足が止まった。
「何か見つけ、た、か……」
問う、までもなかった。目の前に、それがあった。におい、熱。たしかに当初の報告通りだ。よく観察したいところだが、近づくほどに熱が私を苛む。これが熱を発していると考えるのが妥当だろう。そして同時に、これは光でもある。既に日は落ち、山頂近くで電灯もない。だというのに、ここは……まるで、昼間のようだ。
「トワ先生……これ、ご存じですか」
「否定だ。私はこれを……」
知らない、と言うことに一瞬の躊躇。否定という言葉には躊躇がなく、知らないことに躊躇がある。私はこれを、知っている?
「まさか。今、初めて見た」
触れようと近づくと、冷や汗が噴き出てくる。触れるべきではないと訴える本能には抗いがたい。それでも意思の力でゆっくりと触れると、強烈な痛みが走った。
「ヒゴ君。なんとなくそんな気はしていたが、触れない方がいいぞ。これは、私たちを食う類のものだ」
「食べ……生き物なんですか?」
「それも、否定だ。そもそもこれは、物か?無理やり触れてわかったが、こいつには実体がない。だが、こいつは……」
また、一陣の風が吹いた。枯れた秋風が我々を強く撫で――それは、大きくなる。
「少なくとも、何かを食って成長する。風を食っているのか、あるいは成長ではなく繁殖か?実体のないものが、実体のないものを食って、成長している」
熱、光とも広がっている。風を餌に成長するなど、仙人か何かか。実体がないという意味では似たようなものかもしれん。
「っ先生!あちらを!」
急に叫んだヒゴ君の指差す先を見やる。こいつの光によって照らされて……小さい、細い、黒い。枯れ葉ではない何か……!
「なるほど。あれはこいつの排泄物のようなものか?だとすれば随分な雑食だ」
不用意な自分に舌打ちをする。先の痛み、私も食われかけていた、ということだ。風という実体のないものも、枯れ葉や人間という実体のあるものも、何もかも食べて成長する。食ったあとは黒い何かに変換する。わかりやすいといえばわかりやすい。
また、風が吹いた。私たちの見る前でこいつはさらに大きくなる。
「これ……風と一緒に移動してます。山の上から、下へ……」
ヒゴ君がひとりごちる。有用な気づきだ、観察力はあると見える。風とともに移動しているとすれば、こいつの行き先は明らかだ。
「町を襲う、か」
「そんな!ど、どうしましょう!?」
落ち着きはなし、というべきだな。
「いいだろう。私に相談したのは正解だったぞ、ヒゴ君。これは私の管轄だ」
私はそれの風下に立つ。両手を合わせ、光放つそれを真っ向から見据える。
「……コトダマ師たるトワ・クラの名を以て告げる!」
私なりの
怯える彼に充分に聞こえるように。
「貴様がモノであることを厭うならば、我が声に呼応せよ!
貴様がここにあると謳うならば、我がコトダマに威を示せ!」
それは、動かない。
当たり前だ、それは生き物ではない、意思はない、心はない。
「貴様の名は“ヒ”!火の字をもってこの世に定義する!」
だが、この瞬間。
メラリと、私たち二人、そして国中の人々の心に、“火”という文字が焼き付いた。
「……“火”が風を食って成長するのなら、風が入らないようにすればいい。ヒゴ君!この近くにバケツはあるか、あるいはなんでもいい、水をくれ!」
「は、はい!」
走り出そうとしたヒゴ君は、思い出したようにリュックサックの中からペットボトルを取り出した。この程度の“火”ならば、この量の水で充分か。いや……
「他に持ち物は!」
「スコップが!」
「なぜだ!だがよし!」
犬の散歩セットを間違えて持ってきたんじゃないかという疑念を振り払い、スコップを受け取る。一言二言、スコップに声をかけると、ペットボトルの水を土にかけた。地面の一部が湿った泥に変わる。
「トワ先生、何を……」
「見ていたまえ。命名学者には、こういうこともできるのだ」
泥に突き刺したスコップが、唸りを上げる。
次の瞬間。大地は反転する。
「うわあああああああああああ!!?」
静かに見ていたまえ、と言うべきだった。だが、初見で驚かない方が無理かもしれない。片手持ちのスコップではありえないほどの泥が、その先端からひっくり返ったのである。
泥は“火”を押しつぶし、呼吸を止めた。さっきとは少し違う強烈な湿気のにおいが広がり、湯気が視界を埋め尽くす。それでも、熱と光は急激に消えていった。結果的には、正解だったということだ。
「ふむ。だが、失敗だったな」
“火”が消えたことで日の完全に沈んだ山道は真っ暗になってしまった。まだ驚愕から戻らないヒゴ君を見やりつつ、登山道から外れたここからどう帰るかを思案する。果たして、日付が変わる前に帰れるか……
……これが三日前。今回の顛末である。
結局、ヒゴ君のリュックサックに入っていた懐中電灯で難なく帰宅できた我々は、そのまま私の家の前で別れた。夜なので送ると申し出たが、
「もう子供じゃないんですから」
と笑って断られてしまった。至って落ち着いており、スコップに対する質問等もなかった。別れ際にようやく緊張が解けるとは失礼な話だ。とはいえ、もう二度と会うこともないだろう。礼儀正しく別れの挨拶をして帰っていく彼を見送り、その日は泥のように眠った。
しかし、少し時間をおいた今日、今回の件について私はまとめ直す必要がある。というのも、私はあれを……“火”を、知っていた。当然だ。人間にとって火がどれほど日常的なものか、今から考えれば当然に過ぎる。
それでも私はあれに“火”と名付け、水をかけて消し止めた。あのままにしておけば、火は吹き降ろす風とともに町まで燃え広がっていただろう。未知のものを未知のまま対処すれば、次に同じ物が現れたとしても我々は対処できない。それが本当に同じものかどうかわからないからだ。そして同時に、人は忘れるものだ。自分が何を知っていても、対処すべき瞬間に忘れていれば何もできない。
「そう。何もできないのだ」
実際のところ、名をつけるまで私はあの“火”を、どう対処すればいいかわからなかった。ヒゴ君もまた、私に水を指示されるまで、リュックサックの中の水を忘れていた。それを思い出すまで、そこに水はなかったのと同じことだ。ヒゴ君はそれこそ、水という存在を「思い」、無から有を「出した」のだ。そして火という現象に対する対処法も、名を思い出すまでは存在しなかったのだ。
「だからこそ、命名学者は存在する……」
……だが、火を忘れる、などということが物忘れの範疇に入るだろうか?
人が手に入れた原初の文明。
「あのとき、火に対する対処が結果として水になったのは、本当に論理ゆえか?」
火は風を食って成長するから風を止めればよく、そのためには水と泥で風の流れを切ればいい。あまりにも拙い論理だ。
「そもそも我々は、火をいつから忘れていた?」
確かに、私はこのところ火を見る必要がなかった。ヒゴ君が見る機会がなかったかは確認しなかった。果たして我々以外に、火を忘れていた人間がどれほどいたのか?電撃的に解決したがゆえに、不明瞭な部分は多い。本来なら、町において充分に聞き取りを行う必要があった。
「とはいえ、後悔もまた無意味、か」
あの日の風の状況と火の勢いを考えると、深夜には町まで火の手が到達していた可能性が高い。そのとき、町の人々が火を忘れていたなら、私の命名は間に合っていなかっただろう。ならば今回の行動は決して間違いではなかった。知ることで失うものがあることを、私は否定しない。
思い出してしまった今となっては、忘れていたときのことはわからない。
なぜ忘れていたかを思い出すことなど、できはしない。
ならばそう、今掲げるべき正しい疑問はこうだ。
「私たちは、いったい何を忘れている……?」
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