命名学者トワの手記

ナガレ=メイズ

開幕 書き出し、そして君に名を与えよう


……ふむ。

新しい手帳を手に入れたので、ひとまず書き出してみようと思う。

新しいものを手に入れたとき、最も大切なのは名前をつけることだ。

どれほどの注意があろうと、人は時にを忘れる。

物忘れなど自分はしないと信じていても、忘れられたものは忘れられたものだ。

忘れたものには気づけない。

あるいは時に忘れたことに気付くこともあろう。

しかし残念ながら思い出されているのはごくわずか。

君にはそう。

君の知らない、忘れていることがあるのだ。




自己紹介が遅れた。

私の名前は、トワという。

トワ・クラ。

とある島国で、政府から命名学者などという大層な名の職業を授かっている。

実のところ、命名学などというものはこの世界には存在しない。

単に、名づけを頼まれる学者、という程度に理解してくれればよい。

それを踏まえれば仕事は単純だ。

誰も知らないに名前をつける。

当然私もそれを見るまで、それを説明されるまで知らないモノだ。

だが、そこに名前をつけたとき、それは我々にとって既知のものとなる。

人が未知を恐れるのなら、私の仕事は恐れを払う勇者の所業と言えるだろうな。

もっとも、勇者を名乗るには少々線が細く、歳も食っている。

本当の勇者はもう少し若い者に任せよう。


私の事務所兼自宅は政府の公営施設で、とある山間の町にある。

それなりに賑わっている町で、私のような胡乱うろんな男も静かに受け入れてくれているが、命名学者の名前とともにこの町に封じ込められたような気もしている。

訪れる者はまばら、金は政府から雀の涙、使う場所もなし。

……改めて文字にするとひどい閑職かんしょく、ひどい待遇だ。

枯れたはずの涙が我が家の脇を流れる清流のように戻ってくる。

幸いにしてこの町には温泉があり、日々の暇をそこで潰すのは心地よい。

あるいは命名こそ私の娯楽であり、意味もなく時間をかけて命名するのは心地よい。

誤解を招くかもしれないが、私の仕事は月給制。

誰も来なくとも、たとえ月に数十人が来ようとも、給料は変わらない。

ならば一件一件を大切に、時間をかけて、のんびりと、時間をかけて、解決する……それが私の信条だ。

まぁ今年に入って来たのは8人だが。

今?

9月だな。


ところでこの手帳はとある雑貨屋……いや、隠すことでもないか。

私の弟の手作りだそうだ。

ふと思い立って紙漉かみすきを体験し、ふと思い立って大量に作り、

ふと思い立って製本し、ふと思い立って私のところに持ってきた、

と。

そういうことらしい。

この流れ一つでわかる通りとてもクリエイティブな男で、ひどく自由な男だ。

海辺の町で自身の手作り雑貨を売る店を営んでいるとのことだが、彼のセンスはよいようで悪いので多少心配だ。

凝った見た目以上に、中身が凝っていて使い方がわからない。

置物として以上の使い道は私にはなかなか思いつかない。

ありがたいことに、そんな彼にしてはこの手帳は実に素直な作りだった。

手作りの紙の書き味は私の万年筆によく馴染なじむ。

カバーはおそらく中に木の板を仕込んだ革製、多少重いがこれを持ち歩くわけではない私の仕事をよくわかっている。

ページ数も充分、これまでの調子ならば1年はこれで持つだろう。


ただ、これから書かなければならないことは我が愛すべき閑職が、激務へと変貌するその日々であろうと推察する。

私の目の前にあるは、いったい何なのか?

その備忘録として、この手記は残される。

果たしてこの1冊に、私は何件の問題を書き綴ることができるだろう。


さて、ようやく。

私のことと、私の手帳のことについては“書き終えた”。

ゆえに、この手帳にも名前が必要だ。

ここまで書かれた、そしてこれから書かれる全てを網羅した名前が必要である。

即ち『命名学者トワの手記』、それをこの手帳の名としよう。

我が手記とて、に戻りたくはないだろう。

願わくば、この手記を読んだ全ての人が、この名を忘れぬよう。


さぁ、次のページにはまず何を書いたものか……?

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