とりあえず生にしよう


「……はい、はい、申し訳ありませんでした。はい、はい……」

 ああ、このまたこのやりとりか。

「はい、はい。すみませんでした……はい、こちらの……はい」

 電話越しの声が、少しずつ遠くなっていく感覚。

「申し訳ありません。はい、その件ですが、はい……はい、はい……ああ、はい……」

 何か、雑音が混じっていく電話の音。怒声と、それから、何だろう、この音。

「申し訳ありま」

 途中で、声が出なくなった。電話の向こうの声も、聞こえない。

 

 あとは、簡単だった。


「おーい、無事かー?」

「……無事そうに見えるか」

「全然」

 どうやら自分は休憩室に運ばれたらしい。目覚めると、そこには同僚の気だるそうな顔があった。

「ああいうクレームにはいちいち対応するなって前も言ったし言われてたじゃん? よくもまあ、対応するねえ」

「仕方ないだろ。目の前で電話が鳴ったから切るにも切れないし」

 身体を起こしながら、同僚の言葉に反論する。まだ頭が痛いし、耳鳴りも残っている。

「だからってナンバーでもう覚えただろ? あの番号から来るのは頭の悪いクレームだけだって」

 同僚がそう言うが、番号を確認するよりも先に電話を取らねばならない、という感覚からつい電話を取ってしまったのだ。せめてあと数秒、ワンテンポ置いてから取ればよかったものを。

「ほれ」

 そう言って、同僚が俺に向かって何かを投げつける。胸に当たって膝に落ちたそれは、小さいパック入りのクッキーだった。

「それ食って元気出せよ」

「……それが出来れば苦労しないさ」

 パックをぴりぴりと開けながら、同僚に言う。相手の方も同じクッキーを頬張って「そりゃそうさね」と笑っている。よくもまあ、そんな風に笑えるな。

「ま、こんな毎日クレーム来るような場所に就職して、お互い苦労しますなあ」

「そうだな」

 クッキーを口に入れる。若干湿気ているのか、歯ごたえがあまりない。それともそういう作りのもの、なのだろうか。

「あーあ、もっとホワイトなところで働きたかった」

「別にうちがブラックってわけじゃないだろ」

「んー? そうかなあ。ここしか知らないし」

「……それは俺も一緒だけど」

 もっと他の場所を知ったら違うのかなあという呑気な同僚の声に「さあな」と返すので精一杯だった。考えたくない、と、思いながらも気持ちはどこか別の場所を求めている。

「さて、と。そろそろ戻るわ。お前もある程度落ち着いたら戻って来いよ?」

「ああ」

「んまあ、クレームもある程度は聞き流さないとこっちがやってらんねえよ。無理すんなって」

「別に無理してねえし」

「そうか? 顔に無理してますって書いてるけど」

 そう言って、同僚が、俺の頬を両手で挟み込んで顔を自分の方に向けさせた。「ほーれみろ」と、にやりと、笑っている。

「今にも泣きそう」

 あ、無理。

 一気に目頭が熱くなって、それから、視界が歪んで、耳鳴りもまた酷くなって、耳も熱くなって、後は、まあ、泣いた。

「うっわー、お前泣き顔超ブサイク」

「うるせえ」

「お前もうちょっと可愛く泣けないの? あー、ほら、鼻水出てる」

「うるぜえ」

 与えられたティッシュで鼻を押さえながら、ぼとぼとと涙をズボンに落とした。すぐに出るつもりだったのに、これじゃあ休憩室から出るに出られない。そんなことを、同僚が嘆いていた。

「ま、お互い何も考えずテキトーに就職しちゃったからこうなっちまったのかもねえ。何が悪いってこんな就職難にしてくださった世の中様様ですわ」

「ぞ、だな」

 そうだな、と言ったつもりが、しゃっくりが混ざって汚い声になっていた。ああ、何やってんだ、俺。

「適当に泣いたら顔洗っとけよー。あとクッキーまだあるから食っとけ。まあ、何だ……仕事終わったらテキトーに飲み行こうや」

「うん」

 子どもみたいな返事をしたことに若干後悔している間に、同僚は休憩室から出て行った。あーあ、俺、何やってんだろう。

 ある程度涙が落ち着いたところで洗面台で顔を洗う。目の腫れは、少し誤魔化せるだろうか。まあ、出たところで仕事はしないといけない。

「……今日は飲んでやる」

 小さく呟いて、今日はどこの居酒屋に行くか考えながら、休憩室を出た。あ、クッキー忘れた。

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