7

「あー、それで……美映のことだっけ?」

 気まずそうに切り出した真理が面白かった。自分の発言にたいして責任は感じているらしい。聞かなかったことにするのは容易なのに、しょうがないなみたいな顔をしていた。

「あいつ自分が善明に嫌われてるんじゃないかって言ってたんだよ」

「ふうん、わからなくもない悩みだね」

「え、そうなん。それってそういうもんなの」

「日本語を使ってくれよ頼むから」

 はあ、とため息一つで今度は古文の参考書を俺に投げてよこした。今度はオメガでなくてデルタだった。ギリシャ文字が大人気だな。

「あと二週間ないんだよなーテスト」

「勉強、してるんだろ」

「まあな。一年ぶりくらいに授業に出たぜ」

 ガッツポーズをしてみせると、うんざりした顔を返された。まあ、そうれはそういうもんだろうな。

「でもすごいな。僕にはできない」

「そうかあ? そうだよ、三年生から教室復帰するか?」

「……考えとく」

 そう言って自分が読みかけていた本を広げる。具体は避けたか。まあ無理強いする問題でもない。俺はごきりと首を鳴らして、ぐんと背伸びをした。

 背伸びの後には弛緩がまっているわけだが、今回はそれに移行する前に驚愕がやってきた。思い切り開かれた屋上の扉。こんなことやる人間を俺は一人しか知らない。真理も同じらしく、ため息が聞こえた。

「美映……噂をすればなんとやら」

「一度扉が外れないと粗暴さは治らないんだな」

 美映は肩で息をしてそこに立っていた。急いだせいかわからないが、白い頬が紅潮している。なぜか両の目に涙をいっぱい溜めて、口は真一文字に引き結ばれていた。

「すえひこ! キャッチ!」

 何か言ったかとおもえば意味がわからない。と思ったがすぐにわかった。美映は思いきりこちらに何かを投げた。目測とかは一切ないようだったが、とりあえず投げた目標は俺であるということは確かである。そんなに距離がないのでそれはもうすぐ近くに迫っていて、あせって立ち上がりそれを胸で受け止めるようにキャッチする。

 ぐっしゃぐしゃになったミルクいちごぱ――。

「ぐえっ」

それをほぼ完璧に黙認する前に、からだの前半身に思い切り衝撃をうける。胃のあたりを圧されて反射的にえづいた。

「み、美映?」

「は――」

 真理もぽかんとして美映を見ていた。一番ぽかんとしたいのは俺だ。

 美映はパンをやっとキャッチして油断していた俺に、体ごと体当たりするように抱きついたのだ。体格差のせいで美映の頭がちょうど胸のあたりにある。それもすこし頭突きみたいで痛かった。そもそも俺はどうしてミルクいちごパン――ぐしゃぐしゃだが――をもらった上に抱きつかれているのだ。あれか、善明から手頃そうな俺にお鞍替えですか美映さん。

 しかしそうでもないらしい。同じように疲れ切った善明が遅れて屋上の扉に現れた。やはり息が荒い。あ、というか授業中じゃないか今。

「ちょ、ちょっとタンマ」

 誰も何も急かしてないので存分に休憩してくれ。俺たちに掌を向けて、その場に崩れるように座った。

 善明の口元が赤くなっていた。血が出ているようにも見える。殴られた、のだろうか。

「あ、ちょっと美映!」

 善明は俺と美映の状況を視認するなり、血相を変えて叫んだ。状況が本当に飲み込めない。救いを求めて真理を見たが彼もまたよくわからないという顔で二人を見ていた。俺と目が合って、首をかしげる。

「おい、美映。愛しの善明君が死にかけてるぜ」

「季彦! 季彦!」

「そうだよ俺は季彦だよ。お前俺の名前はじめてキチンと読んだろ」

 無理やり体を離し、美映の顔を改めてみると泣きそうな顔で笑っていた。というより半分泣いてるに近かった。

「ああ、本当どうしよう! 季彦ー!」

 とりあえず言葉でないらしく俺の名前を連呼している。美映の肩をつかんだ両手を逆につかまれて、無理やり揺すられる。いや痛いです美映さん。

「すえひごっうぇ」

 ついにはぴょんぴょん飛び跳ねだした美映が、何度目かになる俺の名前の最中、がくんと後ろに引っ張られた。言わずもがな、引っ張ったのは善明である。まだ少し息が整わないが、さっきよりずっと落ち着いているようだった。

「おお、善明。ってか美映が凄く幸せそうな顔して苦しんでるよ! 襟から手を離してあげて」

 ぱっと善明は手を離し、気まずそうに美映の襟を直す。自然な流れで何度か両肩を払うと、自分の襟もついでに直した。

「はああ、なんなんだよもう」

 近くで見ると赤い口元はやはり腫れていて、

血がにじんでいた。

「泣くかと思ったら思い切り殴るわ、おれが何か言おうとするとまた殴りかかってくるわ、怒ってるのかと思ったら唐突に告白されるわ――オーケーしたらオーケーしたで今度は脱兎のごとく購買に走るわ今度は屋上……なにこのハードメニュー? それで何、追いついたら違う男に抱きついてると! なにこれ罰ゲームなの? それは俺の罰ゲーム? 美映の罰ゲーム?」

 誰にというわけではないが、一気に捲し立てるとまた息が上がっていた。殴ったのは美映で、追いかけてきたことによるあの体たらくというわけか。

「ん?」

 ベンチに座る真理が、右手を口元にあてて再び首をかしげた。

「何かいま大切なことを聞き逃したような」

「なんだよ真理……ん、あ、あれ?」

 言われてみると何かが引っ掛かる。俺はパンを持ったまま、真理は首をかしげたまま、ぽかんと間抜けな顔をしていたに違いない。

「ええっとよしくん」

「なに」

「善明君は、その女――失礼、美映にってそんな睨まないでよ」

 真理は善明を逆に睨み返して、ひとつ咳払い。俺はみてるだけ、それしかできない。なんかひっかきまわしてしまいそうであるからだ。

「美映に殴られて、で?」

「告白されて」

 何時ものことのような気もするのだが、様子をみていないのでその辺は突っ込まないでおく。

「殴られ―の、告白され―の……?」

「オーケーしーの」

「ええーっ」

 口を挟もうと思って挟んだのではない。脊髄反射だ。頭で考えるより先に驚愕の叫び声が口から漏れ出てしまったのだ。誰が驚かずにいられるだろうか。善明は照れてるのか怒ってるのか拗ねてるのか、あるいはすべてなのかわからない複雑な顔で俺と真理を見ていた。美映はいつも通り善明の腰のあたりに纏わりついていた。いつも通りのはずなのだが五割増しぐらいでオーラが輝いている。

「オーケーしたって、お前」

「ああ、あの話」

 善明ががしがしと後頭部を掻いた。どう言おうか迷っているようだった。

「あれだろ、ラブじゃないライクだって」

「ああ、そうだよ」

「いや本当きみ空気読めないよね……って話なんだけど。真理くんもそう思ってた?」

 真理は珍しい呆け顔の儘、二三、首を縦に振った。美映はいい加減落ち着いて座るかもう帰ってくれ。ちょっと真剣な話をするから。

「おれ、そういうすれ違いは辛いっていったでしょう」

 善明は俺の眼差しに気付いたのか美映を引き剥がし、隣に立たせて落ち着かせる。美映もキチンとそこに立ってにこにこしているだけである。お前は善明の犬か。

俺はベンチにパンとともに座る。ああ、なんか落ち着く気がする。

「そこは本当だったんだ。ただライクとラヴが逆、だった、わけで」

「はああ?」

 要は善明自身が持っている感情がラヴで、美映が持っていると思っていた感情がライクだったということ、か。

 その後の何とも歯切れの悪い長々しい善明の話を整理するとこういうことだ。

 中学に入り美映が本当に善明が好きだと気付いた頃から、美映は今のように好きだ好きだと喚くようになったらしい。想像は易いが、善明はそれがきっかけで逆に美映は自分のことがラヴではなくライクなのだと勘違いしたらしい。善明は驚くことに出会ってから一筋美映が好きだったというのだから耳を疑ったが、悪い意味で素直な善明ならわからないでもない。それでも片手じゃ足りないくらい片思っているというのは驚異的な記録だ。真理が可哀想なものを見る目で二人を見つめていた。たいそう複雑でしょうね真理くん。

 善明くん曰く、「だってそうだろ! 普通好きな男子に照れもなくべたべたできないだろ!」という理由でその結論に行き当たったという。まあ言われてみれば、そうかもしれない。美映のラヴアタック――なんか痛々しい命名だが――は逆効果にもほどがあったということか。

「季彦くんなら気付くかなって思ったけど、なんていうかまんま鵜呑みされたからあえて言わなかったんだよ……」

「うっわくだらねえー。おい善明、お前俺の後悔と美映の涙を返せ。今すぐ熨斗付けて返せ。なんだようわーくだらねえくだらねえ」

「そんなくだらないイベントのせいで僕は長々とこのサボり魔に心中を晒してしまったのか……」

「え? なに? なんで二人ともげっそりしてるの?」

 俺と真理はベンチに溶けるようにうなだれて、よくわからない気恥かしさに苛まれていた。だってそうじゃないか。俺も真理も、ついでに美映もはたから見たら結構こそばゆい日々を送っていたのだ。その根源が、こんなにもくだらない――ああくだらなくはないのかもしれないが、兎に角素敵な勘違いだなんて。大真面目に精神世界を語った俺達の過去を今すぐ消してきてくれないか。

「善明、お前はずっと屋上最後の良心だった。なあ真理」

「ああそうだね。そこは満場一致だろうな」

「え、いやあ照れるなあ。あ、でも、だった?」

 真理は残念そうに首を横にゆるりと振った。俺はなんだかもう泣きそうだったが、長い溜息で誤魔化した。

「でももうお前は、俺たちにとってただの彼女できたての浮かれた野郎でしかないのだよ善明くん」

「うん、珍しく意見があったね季彦君」

「ちょ、なんでそうなるのさ!」

 大方がやつあたりである。真理だってそうだろう。

「問答無用だ。最後の……最後のりょ、最後の良心なら良心らしく、お前、もう、嫌い!」

 自分でも何が言いたいのかわからかった。やり直したいことばかりだ。誰か早くネコ型ロボット発明してくれよ。

「美映もなんだかんだでこんな面倒臭い奴でいいのかよ」

「はっ、お黙り青春野郎。すえひこは精々そこの偏屈と仲良くしておいで!」

 この女……と言いかけて頑張って口をつぐんだ。流石に彼女が大好きでしかたない男の前で愚弄できるほど度胸は無い。

「……で、でも感謝してるんだからね。ミルクいちごパン、ぐしゃぐしゃになっちゃったけど、ちゃんと食べなさいよ。最後の一個、後輩からもぎ取ってきたんだから……」

 最後はほとんど聞き取れなかったが、まあ感謝はされているようだった。

 これはあれだ、今流行りの――って少し前にも同じことを考えた気がする。俺の脳は単一すぎていけないな。勉強しなかったツケか。

「美映、あんまりそういうことを言ったらダメだろ」

「はあい」

 語尾にハートマークでも付きそうである。ともあれ、二人とも俺と真理いう犠牲を伴いながらも幸せになれたようでなによりだ。嫌味ではない、念のため。でも隣の真理は苦虫をまとめて百匹くらい噛みつぶしたような苦い顔をしていたが。

 善明限定の素晴らしい笑顔を見せる美映に、居心地の悪い俺はなんとなくさっき思ったことをぶつけてみる。

「まったくお前は、善明の犬かよ」

「……わん」

 こいつ、認めやがった。

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