6
懐かしいことを思い出した。俺達が三人で昼食を食べてた時、美映が乱入して大暴れしたのも今ではいい思い出だ。被害は甚大だったが。ああ思い出したくない。うん、忘れるに越したことは無いな。
「季彦君、なにがあったのか知らないけど悩むのか笑うのかどちらかにしてくれよ。凄く気持ちの悪い顔になってるから」
「へ」
長ったらしい回想を終えて意識が戻ってきたところで、ここは屋上である。今日隣にいたのは真理だ。昨日まで俺が座っていたところにいた美映はここにはいなかった。善明も今日は姿を見ていない。勉強に一区切りついたので七日、いや八日ぶりに俺は屋上に来ていた。
「てっきり屋上には飽きたのかと」
「おいおい、真理までそんなこと言いだすのかよ」
「ふん、君なら言われても仕方ないんじゃない」
鼻で笑われて、正直凹む。いやたいそうなことではないのだけど、どうにも信頼が薄いというか。俺としては真理は信用できる奴だと思うし、頼ってる部分もあるのだが友人として逆は皆無だ。それはもうなに、俺ひたすら享受! みたいな感じだ。これは果たして親友というのか、むしろこれは友人ですらないのではないだろうか、とか。思ってみたりするけど無意味な気がするのも確かだ。
「まあ女心って難しいよなってはなし」
「ほうほう色ごとに夢中で忙しかったわけだな。ここで心配してやった俺と善明くんの時間を返せ、今すぐにさあほら」
「え、なに心配してくれたの? やだなあ、違うよ美映のことだよ――。……あ」
心配という二文字にすっかり気を良くして口がゆるっゆるになってしまったようだ。言うなとは言われなかったが言ってほしいことではないだろうに。美映、すまん。
「あの女がどうしたんだよ」
「あ、ああ。善明のこと」
意を決して善明の名前を出してみる。真理は驚くこともなく、馬鹿にすることもなく自分の足先の方へ視線を流すだけだった。
「あいつらああで複雑みたいだぜ」
「そう」
「そう、って」
真理の相槌は想像よりもずっと冷たかった。確かに馬鹿にしてないし冷やかしもしてない。でも、なんていうか、興味が一切ありませんとばかりに抑揚のない声だった。そ、と、うという二文字だけの短い相槌なのに、俺は真理の“どうでもいい”感じが伝わってくるようにおもった。
「くだらないよね。ヒトを好きになってみたり嫌いになってみたりって。そうおもわない? ああ、思わないか。君は思ってるほど曲がった人間じゃないからね」
足先から俺へ、スライドしてよこされる視線が初対面の時よりずっと冷たく感じて寒気すら感じた。外気のせいだけじゃないはずだ。
「あんなの誰かを傷つけて終わりだよ。たとえ両想いなんかになっても、待ってるのは別れだけじゃないか。大人でさえうまく扱えないものを、僕達みたいな子供が上手に抱え込めると思う?」
目をそらしたいとおもったが、真理の双眸はそれを許してはくれなかった。俺を凍らせるような、縫いとめるような視線が、ぐっさりと俺に突き刺さっている。自分の軽口をこんなに恨んだことは初めてだ。のんきに生きてきた証拠だろうな。
重たい、質量があるような眼差し。真理のなにか、深いところの重たいものがのっかっているのだろうか。
俺は、真理が屋上登校している理由も、真理が人とかかわることを避ける理由もしらない。それでも真理は、関心がない、のではないのだとおもう。なんとなく、って言ってばかりの俺だけど、やっぱりなんとなくそう思う。
――自分のいないところで自分の話をされるのはあまり得意じゃないんだ。
たぶん本当は誰よりも他人が気になるのだろう。人が嫌いなんじゃなくてたぶん怖いに近いのかもしれない。美映が、善明に嫌われることが怖いといった。その恐怖をずっと肥大化したような気持ちを真理は抱えてるのかもしれない。
「お前さ」
俺はたぶん確実な間違いを起こそうとしている。しかしその逆になる可能性も十分に持ち合わせているだろう。昨日よくわかったはずの、無知の残酷さ。優しさの残酷さ。そんなの、俺はただの高校生だから理解出来やしない。いつかはするのかもしれないししなきゃいけないのかもしれない。でも今はそんなのわからないって言って、だから、それで――だからこそ、言えてしまう言葉もたくさんあるだろう。
「お前って、怖いんだろ。俺も、善明も、美映も。本当は怖いんじゃないの」
「は、なにを」
「だから親友っていう言葉を肯定したがらないんだ。善明の善良さがたまらないんだろう? 美映のあの自由さが恐ろしいんじゃないのかよ」
責めたいわけじゃない。でも俺だってひどいかもしれないが、真理だってひどいことをいった。美映の気持ちは、俺からしたらずっとずっと高みにあって届かないものだ。それをくだらないなんていうから。
違う。ただ、俺が我慢できないだけだ。ああそうだ、思えば気にいらない。俺らばっかり自分のことを話して、真理は一切俺たちに自分を見せてはくれない。そりゃあ、その辺の分別は無いわけじゃないから、本人の自由だってわかってる。俺たちだって頼まれてしゃべったわけじゃない。言いたいのは、あれだ、俺たちはそんなみみっちい友人同士なのかよ、ってことだ。考えてたらなんかむかついてきた。
「ああもうさ、お前面倒臭い! 難しいよ、お前。なんだ、そう、お前難しすぎるよ。俺はなんだ、一年半隣でくっちゃべってただけの有象無象か。善明もおんなじなのか。それとも善明になら言えるのか? どうせ言えないんだろうお前は」
俺を突き刺していた視線をたどるように、俺は真理を見つめ返した。泳ぎもしない、揺るぎもしない瞳は俺の少し後ろを見ているようにもみえる。
「そんなの」
そんな双眸とは裏腹に弱弱しい声。俺は遮ることはしなかった。
「そんなの自分が一番わかってるよ。なんなんだよきみ、親友とか言ったり面倒臭いとか言ったりさきみこそ面倒なんだよ馬鹿! ああ怖いさ、きみもよしくんもあの女も怖いよ、凄く怖い。怖くてたまらないから」
クレッシェンド記号でも着いていたんじゃないか。尻上がりに大きくなる声に、最初に大きな声をあげた俺の方が気押されてしまった。何も言い返せない。真理の顔があまりにも美映の、怯えた顔に似てたから。これは泣く前のひとの顔だ。泣きたいひとの顔をしている。
「ひとりになるって、怖いんだよ。なあ、人が離れていくって恐ろしいことなんだ。わかるか? わからないだろ。人と関わりたいのにその先が怖くて怖くてたまらない僕の気持ちがわかるのかよ」
乱雑な言葉に俺はすこしだけ、安堵した。きっとこれが真理の本当なんだろう。名前が真理なんていう、誰よりも正直そうな名前なのに一番たくさんのことを隠してるんだ。でも、本当は正直になりたいのかもしれない。
「あんたもよしくんも、何時俺を遠ざけるかわからないじゃないか。俺を見透かすような眼をしたあの女も――美映も、全部、怖いだけなんだよ」
はあ、と大きく深呼吸する。俺も釣られるように深く息を吸った。一瞬の沈黙。俺は口を開いた。
「お前に何があったかは、知らないよ。ひとりになる怖さなんて知りもしない。家に帰れば家族がいて、学校に来ればたくさんの知った顔が笑ってくれる。それって人気者とかそういう特別なもんじゃないじゃん。普通に生きてれば手に入れることって、難しいことじゃない。だからほんの少しの、ひとりなんて怖くない。俺はいままでそう思ってた」
なんだか持て余した足が落ち着かなくて、俺はベンチの上で胡坐をかいた。もうお互いを視界に収めることはしていなくて、俺は古い日にやけたコンクリの床と空をみているだけだった。
「でも俺にとってのひとりは、お前とはきっと違うんだろうな。この一年でなんとなくわかった気もするよ」
かりかりとベンチをひっかく音が聞こえる。そっと窺うと、真理はじっと神妙な顔で俯いて、拙い俺の話に耳を傾けていてくれた。
「頼むから、俺たち――いやこの際善明でもいい。頼むから信用してくれよ。なんかおかしいお願いだけどさ。一年半だぜ、十八か月お前の罵倒を俺は耐え抜いたんだぜ。すげーだろ」
ははっ、と笑って胡坐をかいた足をもう投げ出してしまった。落ち着かない、なんていうか、そう。こそばゆい。さらっとかっこよく素敵な言葉を俺にかけてくれた善明は本当に偉大だな。女の子泣かせたけどな。
「自慢になんないよ阿呆」
「阿呆で結構。これはもう武勇伝だ」
ぼそりと反論した言葉に俺は安心した。これでしわしわに萎れてしまったら困る。しおらしい真理なんて楽しくない。
「僕は」
ゆっくり、だったけれど弱弱しくはなかった。意志のこもった言葉が、ちょっとずつ屋上に落ちていく。
「君を馬鹿だとか阿呆だとか言ってばっかりだし本当にそう思ってるけど」
あ、そこはずっと正直だったわけですね。
「親友だとか喚いたり、ばればれのフォローをしようとしたりされることは、別に嫌だとか思ったことはなかった、から。それも怖かったよ。よしくんが僕に対してとる態度は、すごく心地よくてもっとここから離れることが怖くなった。初めて見たとき美映が僕に向けた視線は、確実に自分に似たものを見つけたものだった」
素直じゃないんだから、と普段なら茶化すところなのだがあいにく空気が読めないわけじゃない。真理はたぶん、これだけのことをいうのに決死の覚悟をしているに違いない。
「それが、一番恐ろしかったのかもしれない」
自嘲的な笑い。でも辛そうに笑っているようにも聞こえて、俺は引きずられないように無理やり明るい声で言った。
「美映が、言ってたんだよ」
うん、と短い相槌が返ってくる。
「いつでも自分を一番に考えてくれる善明が大好きなんだって。特別扱いされることがあいつにとって特別だったんだ。それだって俺からしたらわからない。愛されるって、特別っていうのは、本当はずっと遠いところにあるものなんだな」
今度は俺が泣きたくなってきた。隣では孤独に怯え続けていた親友――認められたことはないけど――がいて、親友なんて言っておいてそれに気付けなかった俺が生意気に講釈垂れて。俺、本当馬鹿だな。馬鹿につける薬はないってうし、俺もう終わってるかも。死なないとなおらないんだよな馬鹿って。
「うん、俺死のうかな」
「なんでそういう流れができるの? おかしくない季彦君」
普段通りのきつい口調は素なのか。そうか、こっちはなおらないんだろうな。
「おれの気持ちダイジェスト聞く?」
「……遠慮しとくわ。いやでもやめてよ、きみやりかねないし」
「冗談だあって」
なんだか何事もなかったかのように会話を交わした後。屋上は静寂に包まれた。そろそろ午後の授業が始まるだろう。一時間の昼休み、こんなに長かったか。俺はぼうっと、青い澄んだ冬の空を見上げるばっかりだった。
「僕ってさ」
空気を震わせたのは真理だった。落ち着かない印象は拭えなかったけれど、さっきよりずっと落ち着いてたいるようだった。
「今、母さんの妹夫婦の家に暮らしてるんだ」
ベンチを引っ掻く音は止んだけど、今度は本を指先でなぞる微かな音が聞こえた。
「嘘みたいな話なんだけどさ、どこかのドラマみたいなね。母さんは僕を置いて男と蒸発したんだ」
「え、ええ?」
「中学三年の秋だったかな。よく覚えてないけど、その時ちょうどタイミングを見計らったように僕は大けがをしたんだ」
口調は重苦しいわけでもなく、昨日の夕飯の話をするような軽さだ。ただ内容があまりに重くて俺は思わず真理を食い入るように見てしまった。すぐ睨まれたから元に戻ったけどけど。
「僕中学は私立だったって前に言ったよね」
「ああ、確かもっと都心の」
「付属高校に進む子も多かったけど、もっとレベルの高い高校に進むことを目標にしてる子もたくさんいた。というよりそれを学校は暗に推奨してたんだよね。中学のレベルが高ければ確実に新規生徒の勧誘材料になるとでも思ってたんじゃないの」
ふん、と鼻で笑って肩をすくめる。中学から子供を取り込めば、全員ではないにしても六、七割の子供は高校もしくは大学まで抱え込むことができるだろう。経営は安泰といわないまでも安定はしているかもしれない。私立の仕組みはいまいちわからないけど。そして高校からの生徒や大学からの生徒も含めれば困らないんだろうな。
「ここに来ればどこどこの名門校に進学できる可能性があるって、ね。だからこそ内部競争が激しかった。僕はこの通り大して勉強しないでも困らない人間だったからね」
うざいこと極まりない中学生である。
「と、公言してたわけじゃないよ。なにその顔」
「え、いいや? なんでもないない」
首を横に思い切り振って、先を促した。
「……中学三年はもう戦争だった。わかる? まず校内で僕たちは争ってたんだ。模試の結果、志望校のレベル、定期テストの順位。全国にいるライバルより隣の席のクラスメイトが敵だったんだ」
今、俺がその環境に放り込まれたらきっと敵というより存在しないものみたいになるんだろうな。想像できる気がした。淘汰されて終わり、抵抗のすべなし。
逆に真理はそこで浮いていたのかもしれない。なんとなくで難関を越えて行ってしまうようなやつだ。周りからしたらそれはもう眼ざわりだったに違いない。
「僕、嫌われてたんだよ。でも関係なかった。あんな奴らどうでもいい、僕には僕の味方が絶対いるんだって」
柔らかい冷たい風が吹き出した。風は真理の長めの前髪を揺らした。
「父親は僕が小学校に入学した年に病気で死んだ。母さんと二人でずっと、暮らしてきたんだ。母さんは僕がいい成績をとることを喜んでくれたから勉強も苦じゃなかった」
――だから許せなかった。
最後は、かすれるような呟きだった。
「知らない男が一緒に暮らすようになった。母さんはその男と結婚するつもりだといった。僕は、その時初めて怖いと思った。孤独をリアルに感じたんだ」
がり、とコンクリートの欠片を踏んだ。足の裏が、痛い。
「男と僕の折り合いが悪くて、いつからか母さんまで僕に冷たくなった。今思えば母さんも辛かったんだろうね。長いこと女手ひとりで僕を育ててきて、やっとよりかかれる相手ができたんだ」
――そして、長い秋の夜に僕はひとりになった。
にこりと、いや、にやりと真理は笑った。ゆがめた口元は愉快そうな感情をたたえていて。辛い思い出は一回りして、嘲りの歴史になったわけか。
「面白いくらいうそくさいでしょ? 昼ドラにしても遜色ないかもしれないよ」
けらけらと笑って言う。もう克服しているのか、それとも抱え込むことがうまくなったのか。おそらく、後者だろうが。
「それからおかしいのが、母さんがもう帰ってくる気がないって悟った次の日。僕は校舎の二階から落ちたんだ」
落ちた。どこから、学校の二階から。それって凄い高いような気もするけど、あれ。
「えええお前よく生きてたな! え、落ちたって、ええええ」
真理の肩を掴んで揺らす。あはは、とまた愉快そうに笑った。
「ね、よく生きてたと思うよ。奇跡的に腕を折っただけだったんだ」
俺が掴んでない方の側の腕をひらひらと振って見せる。心なしか真理は本当に面白そうな顔をしてるから、なんの話をしていたのかよくわからなくなりそうだ。今日の放課後の予定? それとも明日の昼食の話か?
「まさか自分からとか」
「違うよ、馬鹿にしないでくれる。僕だって小さい子供じゃないんだから」
一転して不愉快そうな顔で睨まれる。ですよね、すいません。
「簡単に言っちゃえば誰かに突き落とされたんだけど、ざんねんながら僕は誰に突き落とされたかわからないんだ」
「ひいい中学生こえええ」
「小学生が人殺す時代だからね」
不釣り合いなさわやかさで言った後、俺の手を肩からそっとはずし、ベンチに深く座り腕を組んだ。俺もならうように深く座りなおす。少し背中が痛いことに気付いた。
「だからさ、逆に怖くなっちゃったんだ。全部、さ。みんなが僕を殺そうとしてるんだって、僕を遠ざけようとしてるんだっておもった。母さんも遠くへ消えてしまった。信頼してた少しの友人たちも、二度と口を利かなかった」
首を傾けて、風の音を聞くような仕草で眼を閉じた。何を思い出してるのだろうか。それとも忘れようとしているのだろうか。
「こんな話を人にしたのははじめてだよ。ごめん、なんかぐだぐだになっちゃった。言いたいこと言えたのかもわかんないし」
「ううん、それでもいい。教えてくれて、ありがとな」
少しの空白。
「なにそれ気持ち悪ーい。ああ、でも、はは、君にはなんか言えるんだよね。やだなあ、僕も気持ち悪いよ」
「気持ち悪いとかいうなよ傷つくだろ」
「それでも君はここに来るんでしょう」
「あーあ悔しいですがその通りでございますよ」
いつもどおりだった。
でも――遠くで鳴っているチャイムも、ちょっとだけ辛そうに笑った真理の顔も、微かに聞こえる聞き覚えのある声すらも、全部が新鮮に感じた。何かが、確実に変わったような確信。それでも何が変わったのかはわからない。俺は美映の綺麗な泣き顔と、真理の暗い過去と言葉によって、無理やり先に進まされたように感じる。影響されるっていうのか、それもわからないけど、自分が何時までも流れをとめているわけにはいかないことはわかった。
そろそろ俺も、ずっと先を見なくちゃいけないんだな。
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