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とん、とん。オーク材の机は、シャーペンによるノックに柔らかい音を返した。この一週間で俺は高校で学習する一年分の数学および主要七教科の復習を強いられていた。テストまでは二週間と四日。長いようできっと短いモラトリアムだろう。
俺が今座っているのは屋上のベンチではなかった。かといって教室の椅子でもない。古臭いオレンジの合皮張り、机と同じ焦げ茶のオーク。座り心地はまあまあ。ちなみにオーク材と判別できるのは視線の左端に机の材質表示が貼られているからである。なかったら俺がオークかどうかなんてわかるわけないじゃないか。あれ、オークって何の木だ?
生徒も疎らで静かな、ここは図書室である。なぜ俺がここにいるかというと、端的言えば勉強するためだ。あのスーパー青春タイム――善明が聞いたら怒りそうだが――から俺は変革を遂げたのだ。イノベーションというやつだ。授業に出席してノートをとってみたり、一切の寄り道もなく家帰って勉強してみたり。クラスメイトは「お前さぼりすぎなんだよ」と肘鉄付きで迎えてくれ、今俺の前には貸してくれたノートが山積みになっている。ここで数学を貸してくれた山田くんに一言言いたい。ごめん、カラフルすぎて俺にはさっぱり要点が見えないよ。
ここ数日数学をメインに勉強してきたせいで飽きてきてるのか、無意識に英語のノートをめくった。基本的な事項は何とか頭に放り込んだが、テストで点の取れる知識ではないだろう。先が見えない勉強がこんなにも苦痛になるとは思ってもみなかった。善明もすごいけど、真理も一年近く同じ状況だったのに勉強していたという事実がすごいとおもう。自習勉強はペース配分が難しい上に、理解度が自分で確認しにくい。まったくモチベーションが上がらない。これ、意味あるの? という禅問答が気づけば脳内で繰り広げられている日も少なくない。所詮は俺の能力不足なのかもしれないが。
そうして授業と自習勉強に追われる毎日が一週間続いているわけだ。屋上へと行きたいのだが、あそこへ行けばきっと俺は一気に今の態勢が崩れてしまいそうで自然と足が遠のいた。もういいや、ってなるのが今は一番おそろしいことなのである。
というわけで、久々に真理に一切会わない日が続いている。担任が目をぱちくりさせて俺を見たときは愉快でたまらなかった。
こういうところは子供っぽいまま変化が無いらしい。俺、やればできるんだぜ。っていう主張をしたがるいやしい奴なんだよ、俺。
「すえひこ」
鹿野田女史から借りた英語のノートをぱらぱら捲っていると、こちらも久々な人間に名前を呼ばれた。出入り口に対して背中を向けていたので一切気付かなかった。真後ろで聞こえた声の主を、首を後ろに六十度ほど倒し確認する。
「おー美映じゃん、どうしたの」
「いや、あんたが真面目に勉強してるって言うから」
気持ち悪いものを見るような眼で、美映は俺を見下ろしていた。そんなに俺が勉強しているのはおかしいか。
「うちのクラスでも話題になっていたわよ。噂の底辺サボり魔が授業復帰したって。その上やたら勉学に励んでるって」
「わあ、俺ってば人気者」
「もう屋上には飽きたんだろうって」
「は?」
首を起こして体ごと美映の方を向く。見下ろされている感覚が消えた。美映は腕を組んで仁王立ちだった。善明がいたらおこるな。
それよりも、なんだって? 俺いつからそういうキャラに設定されたの?
飽きた飽きないで物事を取捨選択するような人間ではない。決してない。そもそも今回は屋上のメンツによるところが大きいのだ。何も知らない有象無象にとやかく言われたくはない。ちなみに有象無象はよく真理が使うので意味もきちんと把握できている。念のため。
「え、まあ、そう思いたいならそう思ってればいいんじゃない?」
――害はないし、と付け足した。
「人の噂は七十五日というけど、悪事千里をはしるともいうのよ。屋上の偏屈やよしくんは真に受けて幻滅するかも」
「あー、まあ二人とも悪い意味で素直だからな」
「よしくんは善い意味で素直よっ」
んもう、と憤慨した様子の美映は、何度か深く呼吸をするとガサリとスーパーの袋を持ちあげた。俺はわけがわからず、首をかしげた。そして美映はふんと得意げな顔で俺を見下ろした。
「ミルクいちごパンでらっくすよ。カゴメスーパーで最後の二つを入手してきたわ」
「お、おお……まぼろしの」
本当はまぼろしでも何でもなく、売れ残るから量を入荷してくれない商品というだけだ。俺と美映はこのパンを長いこと愛食しており、購買にこれが売っているのは非常に助かっている。
そういえば美映と善明と出遭ったきっかけもこのパンだったか。
その話は後回しにするとして、いま美映が俺に示した名前はミルクいちごパンでらっくすだ。この商品は白とピンクのパン生地にミルククリームが入っているというものなのだが、でらっくすの場合ミルククリームのほかに練乳ソースが入っているのだ。あと若干大きい。通常版デラックス版ともども見た目のせいか何か風水的な要因なのか売り上げが芳しくないらしい。そんなこんなで入荷数が僅少なミルクいちごパンでらっくすを二つも確保してきた美映を、今ばっかりは猫っ可愛がりしたいくらいだった。いや、うん、しないけど。
パンについて熱く語り過ぎたが、美映は顎で出入り口を示した。
「外で食べない? ちょっと、ちょっとでいいから話を聞いてほしいの」
「相談事なら任せなさい。なんでも言ってくれて構わないよ」
俺は超特急で荷物をまとめると、さっさと出入り口に足が向いていた。がさがさとビニール特有の音を立てながら美映も後ろについてきた。美映が俺に相談なんて、善明のことだろうか。普段の彼女からは一切想像できないしおらしさに俺は多少の違和感は感じたが、人間生きていれば色々あるものである。
図書室の外はだいぶ暗くなっていた。蛍光灯の明かりがぼんやりと照らす廊下。窓からさすのは夕日ではなく街灯の明かりだった。冬の日はこうだからあまり好きじゃない。俺は明るい昼間の方がずっと落ち着く。
「ああ、どこにいこうか」
「屋上」
「開いてる?」
「真理に開けといてもらった」
いいのか。放課後必要以上に屋上が開いていることは、あまり教師達は好ましくないらしい。普通に考えてそうだろう。そもそも真理の行動自体あまり面白くないらしい。それでもなぜそれが許されているのかは今のところわかっていない。
まあ善意で開けてもらっていることにとやかくいうつもりは一切ないけれど。
その屋上だが、今日はすでに無人になっていた。一階の図書室から四階の一つ上までは骨が折れたが、ミルクいちごぱ――違う違う。美映のためならこれくらい大したことないさ。
「ああ、なんか久々だなー! 解放感が素晴らしいスポットだよなここ」
「そうねー。壁と天井って圧迫感あるんだなって思う」
いつも真理が座る方のベンチへ俺が座り、隣のベンチに美映が腰を下ろした。前触れもなく美映がパンの袋を投げてよこし、俺は危うく落としそうになったが無事受け取ることに成功した。おお何時ぶりかなでらっくす。
「そんで? 突然なんだよ」
「悔しいけど、季彦と真理しか相談する相手が見つからなかったの。真理に相談するのはしゃくだからあんたに相談しようと思って」
破裂音に似た効果音でパンの袋を開け、ピンク色のパンに齧り付く。
美映は落ち込んでるという感じではなかったが、どこか不安そうな雰囲気を漂わせていた。それも物珍しくて、視線を滑らせるだけでそっと観察した。美映も好きなはずのパンはビニール袋の中に入ったままで、両の手は持て余されていた。スカートから伸びた細い脚は投げ出されるようで、まるですさんでいる。美映の座り方は何時でも豪快なものがあるのは確かなのだが。
「最近思ったのだけど、よしくんて私のこと本当は嫌いなんじゃないかなって」
「はあ?」
「なにその顔……。馬鹿にしたような眼で私を見るのはやめて」
何を言い出すかと思えば、というところだろうか。面倒くさいとかうざったいぐらいは思っているかもしれないが、嫌い、なんて思ってはいないだろう。俺や真理なんかよりずっと長く善明と付き合いがあるくせにそんなこともわからないのだろうか。いや、逆にわからなくなることの方が多いのかもしれない。長く付き合っているから事見えなくなることがあるのかもしれない。
「私、よしくんには我儘ばっかり言ってきたし、べたべたするし……。女子なのに男子にきついことばっかり言うし、空気読まないし。そんな幼馴染は嫌かな、と思って」
「なに、何かあったの?」
唐突だ。美映にとってみれば長いこと悩んでいたことなのかもしれないが、俺からしたらまったく脈絡のない話だ。だって伏線すらなかったじゃないか。真理もなにか気付いた様子はなかったが――。
ああそうか、俺は一週間四人で会っていないのか。
その一週間に何かがあったというのだろうか。でも俺は一切誰とも会っていないわけではない。満たしてないのは四人そろって、ということだけだ。善明とは会っているし、その時なにか変った点は感じられなかった。ただの鈍感ではといわれてしまえば俺はなにも言い返せないが。
「んー。いや、ね。ずっと思ってたことなの。好きっていってもよしくんは笑ってありがとうっていってくれるだけ。長く一緒にいるとどうしてもお互いをよく知ってしまうでしょう? だから、よしくんにとって私は恋愛対象になりえないんじゃないかって」
「まあ、よくいうよな。どんなに可愛くても幼馴染は恋愛対象じゃないよなって」
俺が少し前に美映について感じたことだ。
「よく言われるわ。クラスの子にも言われたの。美映はどうしてそんなに善明君が好きなのって、長いんでしょ近所付き合いって」
ここで美映はやっとパンの袋に手を伸ばした。ぺり、というささやかなノリがはがれる音だけで封が開く。俺は聞く側に徹底しようと口を塞ぐかわりにパンをほおばった。美映が少しずつでも零す言葉を遮るわけにはいかない。なかなか女子の話を聞く機会もないしね。
「私にとってよしくんは本当に特別なの。家が近所で、引っ込み思案だった私を外に連れ出してくれたのが最初。それから今まで一緒にいる。私が付いて回ってるに近かったけど、よしくんは私を遠ざけたりしなかったし、一番に考えてくれた」
善明は少年時代から善良な市民だったわけだ。一時期ささやかれた昔は悪だった説はデマだな。美映の横顔は心なしか紅潮してるようだった。たぶん、美映にとって大切な思い出なのだろう。饒舌な彼女は楽しげにすら見えた。
まだ五時を回ったばかりなのに、空が少し暗くなり始めた。
美映は気にせず話を続ける。
「私にとって一番って意味は大きいの。私四人姉妹の三人目なんだけどね。すぐ下が生まれたのは私が三歳の時。ねえ、季彦って兄弟いる?」
「うん兄貴が一人」
「じゃあ自分のすぐ下に弟ができたとするじゃない? お兄さんは季彦とその架空の弟どちらに構うと思う?」
「普通に考えて弟だろうな。後に生まれたほうが可愛く見えるだろうよ」
なるほど。美映は十分にちやほやされて幼少期を終える前に、姉や両親の愛情の方向が変ってしまったわけか。俺のように男兄弟というのは先だろうが後だろうがあまり育て方は変わらないらしい。少なくとも我が家はそうだった。姉妹というのはどうなのだろう。
「愛されなかったとかそういんじゃなくてね。構ってもらえなかったのよ。もう美映ちゃんは一人でいい子にしてられるわよねって。でも三歳よ? 当時の私は憤慨したわ。だから妹が大嫌いだったの」
当たり前の感情だろう。まだとしごだったら救われただろうに。どうしてまた三年、賞味四年という微妙の間を作ったのか。それぞれの家庭には事情があるのだろうが。
「だから何時でも私を一番に考えてくれるよしくんがその時からずっと大好きだった」
そういった美映の顔は、屋上の入口にある蛍光灯にぼんやりと浮かんでいるだけだったけれど、なんだか綺麗だった。彼女が善明に向ける思いは、こんなにきれいな純粋なものなのかと、俺はふわふわと意識の遠くの方でで考えていた。
「でも恋愛とは違った。なんていうのかな、親戚のお兄ちゃんが優しくて大好き、ってかんじかな。そうやって六年経った。中学に入って気付いたの」
くしゃり、とパンのパッケージを握る。俺のパンはあまり減らない。美映のパンは外気に晒されたまま歯形すらつかない。今年の暖冬のせいかあまり寒くは感じなかったが、やはり暖かいわけではないので無意識に肩をすぼめた。
「よしくんの私に対しての態度は、本当に特別なんだって。特別みたいでうれしい、から、私特別扱いされてるんだって変わったの。そこからかな、今みたいに恋愛に変わったのは」
ひとくち。美映がようやくパンをかじった。ひゅうと風が吹いた。
「なるほど、ね」
「だから嫌われるのは怖いの、ひとつの恐怖なのよ。最近、特に冷たく感じることが増えた。なんか、ちょっと昔とは違うわ」
「でも」
「わかってる。わかってるわ、先に変わったのは私よね。わかってるわよ、馬鹿」
美映は、馬鹿という言葉を俺にむけて言ったのか自分にむけて言ったのか。焦点の合わない笑顔が俺にそう思わせた。
「俺が言えることは少ないけど」
今度は俺の番だ。
「善明は美映のことちゃんと大切に思っているよ。でもあいつ言ってたんだ」
美映は不安を追いやるようにもう一口パンをかじった。口をはさむ気は無いらしい。本当、珍しい。
「好きだけど好きじゃない。ライクだけどラヴじゃない。だから、美映が好きといってくれる気持ちに、応えられない自分が辛いんだって」
何も言わない。辛そうに見えたけど、気丈な顔をしていた。
「善明はたぶん、本当に美映を大切にしてきたんだよ。もしかしたら最初に好きになったのはあいつかもしれないね。でも、なんていうのかな。お前はもうあいつにとって大切な家族みたいな存在になってるんだよきっと。だから、逆に自分の感情へセーブをかけちゃうんじゃないかな」
よく、わからない。自分でも取り繕ってるように聞こえる。慰めにすらなってないのではないだろうか。善明のことは善明にしかわからない。俺は善明について推論するしかないのだ。美映もそうだろう。みんな自分のことは自分にしかわからない。だから不安になるのだ。でもそれは今の言い訳になりえるだろうか? 俺にはよくわからない。
隣で無言だった美映は意志の強そうな瞳を細めて、そんな矮小な俺に笑顔を向けてくれた。いつもの見下すような笑いじゃなくて、まるで善明に向けるような柔らかい笑顔で、少しだけどきりとした。
「ありがとう、すえひこ。そっか、よしくん私のこと嫌いなわけじゃ、ないんだ。でも、そっか。うーん、これは脈なしかなっ」
へへ、と笑ってもくもくとパンを食べ始める。俺もそれにならって、半分以上残ったピンク色と白色にもう一度齧り付いた。すっかり真っ暗で、そろそろ下校の放送が流れるだろう。遠くで部活動の掛け声が聞こえているから、もう少し、大丈夫だろう。それでも星が見えないのは、たぶん昼間も曇っていたから。冬の夜に星が見えないなんてつまらないなあなんて考えながら、甘ったるい、でも柔らかくて優しい味を噛みしめた。
いつのまにか隣から聞こえてきた嗚咽には、なんの声もかけられなかった。こんなに人を好きになったことなんて一度もないから俺には理解してあげられない。こうやって美映を泣かせているのは無知な俺なのかもしれない。それともやはり善明の残酷な優しさだろうか。どちらにしても、高校生の中途半端な純粋さというのは酷なものなんだなと思った。
「美映、俺はお前が凄いと思うよ」
ただ一言がやっとで、俺は現実を遠ざけるように目をつむった。
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