3
なぜ自分はこの路を選んだのだろうか。なぜ自分は現状を受け入れていられるのだろうか。なぜ自分はこんなところで簡素な数字を追っているのだろうか。
高校一年生の夏だった。俺は今よりもずっと子供で、カッコつけてくだらないことを考えることが好きだったように思う。中学で克服できなかったたくさんの劣等感が、折り重なってくだらない思考を量産していた。
確か中学三年のとき隣の席だった橘谷某は隣市の名門校に進んだんだ。俺と橘谷は親友とか仲間とかそういう深い間柄じゃなかったけど、消しゴムを借りたりシャーペンの芯をあげたりするくらいのごく普通の友人同士だった。そういうシンプルな関係のせいで余計に、自分との差を知らしめられた気がたものだ。中学最後の日、すごく落ち込んだ記憶がある。
――あと、そういう奴ほど、良い奴なんだよな。
今じゃこんなサボり魔な俺も、はじめはキチンと出席していたのだ。ときどき居眠りして怒られたりとか、そういう普通の生徒だったはずだ。
おそらく、きっかけは七月の暑い日、屋上であいつに出遭ったことだろう。
ぎらぎら、地球になんの恨みがあるのか灼熱の太陽光線がコンクリートを焼いていた。初めて俺は授業を更けて、暑いとわかりきっている屋上の扉を開けた。まぶしさに一瞬視力が落ちるのを感じて、強く目をつむった。そしてそろりと目をあける。二つの青いベンチ。倒れた鉄製のゴミ箱。ベンチは初めて屋上を見たときとは違う、日陰になる位置にずらされていた。ゴミ箱だけが熱に晒されている。
その青いベンチに座って、汗もかかずに教科書を読んでいる男がいた。傍らに辞書が数冊積まれていて、夏物の制服で露出している肌は気味が悪いくらい白い。俺は冗談抜きで幽霊が出たのかと思ったものだ。
そう、これが俺の真理への第一印象だ。
俺は頬に伝う汗で我に返り、空いている隣のベンチに腰掛けた。そのまま数分が経過し、なにをするでもなくゴミ箱と隣の真理を交互に観察して過ごす。ちらりと真理がこちらを怪訝そうにみた視線を捕まえて、負けじと値踏みするような視線を送り返してみる。
「君、授業中だよ」
「知ってる」
「サボりは感心しない」
「お前だってサボりだろ」
「失敬な」
軽い音で教科書を閉じる。表紙を見る限り同学年のようだった。自分の学年の教科書を律儀に読んでいるのならば、であるが。
「立派な屋上登校だ。そこらのサボタージュと同じにしてもらっては困る」
きっと睨まれて俺は視線をゴミ箱にそらし、肩をすくめた。しかし暑い。
「面白いことをする人がいたもんだ。暑くないの?」
「特には。日本の夏は湿度の問題をクリアすれば大して厳しいものではないからね」
教科書を辞書の山に乗せ、スラックスの足を組んだ。足元はキチンと靴下と上履きだった。俺は暑いので教師も黙認しているサンダル履きだった。ノーソックス。
「汗もかいてる様子はないし日焼けもしてないみたいだけど、なに、なんか魔法かなんか使えるの?」
我ながらばかみたいな質問だと思った。鼻で笑われる。むっとして隣を盗み見ると、思いのほかたのしそうな顔をしていた。あら、意外。
「魔法? そうだな、まあ使えれば製品化して特許を取りたいな。汗もかかず日焼けもしない魔法。女性に大人気だろうな」
くすくすと笑われて、妙に恥ずかしい。対抗するように逆に足を組んで、鼻息を荒くした。
「茶化すなよ。別に本気で思ってるわけじゃない」
「わかってるよ。生意気な子供みたいなやつだな」
「うるさい」
子供、といわれて無理やり閉じ込めていた劣等感が溢れだしてくる。自分が一番わかっているのだ。子供から脱出できないということは。
「おいおい、そう深刻に受け止めるなよ。八方ふさがりみたいな暗ーい顔して僕の隣に座らないでくれ」
困ったように言ってから、組んだ足を解いてベンチの上で体育座りをする。揃えた両ひざに真理は顎を載せて、まっすぐ前を見ていた。
「全部ただの体質だよ。新陳代謝が悪いのかもしれない。日焼けはしない、ひどくても赤くなって終わるタイプ」
「俺真っ黒になる」
「なんか、ぽいな」
「よくいわれる」
この日はお互い名前すら名乗らなかった。屋上登校という単語を追求することもなかった。あまり似てるところも無い俺と真理は、不思議と会話が弾んだ。それが俺は心地よかったのか、夏休みが明けて文化祭が近づく頃にはすっかり屋上の住人となっていた。
真理は俺の劣等感をうまく和らげてくれるのだ。口にした曖昧な言葉をきっちりと言語化してくれる。否定も肯定も平等にきっぱりと伝えてくれる。俺が真理に何かできていたかは今もわからないが、拒絶はされなかった。それから今日まで、俺たちは飽きずに屋上にへばりついている。よくよく考えると今、憎まれ口を叩き合ってることは、奇跡に近いかもしれない。俺があの日サボらなければ、真理が俺に声をかけなければ、こんな今はないのだから。
そして二度目の夏も通り過ぎて、気づいたら冬も終わろうとしていた。大きな問題を抱えたまま、ではあったけれど。
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