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「Xについてこの式を解いて……」
青いベンチの右側に俺。左側に真理。逆様になった、使われなくなってだいぶ経つゴミ箱に善明。俺はベンチの上に体育すわりをして、先日衝撃的な現実を知ったきっかけでもある参考書を広げていた。一応傍らにはペンケース、とノート。一応、とつけたのはこの数日使ったためしがないからである。
「季彦くんさ、今更因数分解って馬鹿にしてるの?」
勉強を教えてくれと頼んだら、開口一番に辛辣な言葉が突き刺さった。優しいのと善人はまた別であるということがよくわかる。善明は本当に善い人だが優しいばかりではないわけで、どちらかというと厳しいのだ。逆に優しくないと言っているようだが、決してそういうわけではない。
「どうせ家じゃ勉強しないんだろう。基礎ぐらいは教えてあげるよ」
――というわけで、放課後勉強大会イン屋上が実現した。なぜここまできて屋上かというとただ単に真理を巻き込みたかっただけだ。この男、屋上以外のあらゆる教室は使用したくないという馬鹿馬鹿しい我儘を平気な顔で言い放つので、最初から屋上を選ばせてもらった。ひとつ残念なのは、屋上に机がないことだろうか。あ、あと風が少し強いこと。今日はあまり風が吹いていないので絶好の屋上日和だ。
「与えられている数値を代入する」
早くも面倒くさくなってきてしまって、俺はへのへのもへじを2xの隣に量産していた。やはり勉強する環境というのは大切なのかもしれない。
「……真理くん、君からも何か言ってくれないかなあ。彼、季彦くんやる気が見られないよ」
「もういいんじゃない、彼が二年生をもう一度経験することになっても僕たちと卒業できなくても、結局僕たちにはなんの実害もないじゃない」
「真理くん、君もうあきらめちゃったの?」
「仕方ないじゃないか」
読みかけの本をしおりも挟まずに閉じて、ひとつため息。ため息というよりうめき声のような声だった。うええ、と。いやそうな顔をする。
「毎日毎日学校に来る、屋上にくる、お昼を食べる、学校から帰るっていうほぼ僕と同じ日課をこなしているのに学力の差がこんなに出るなんて思わなかったよ。しかも笑顔で呪文ってさあ」
ばしっとベンチが悲鳴を上げそうな勢いで、本を本の山に返す。少し軋む音が聞こえた。真理がこんなに荒んでいるのを俺はかつて見たことがない。
とはいえ。俺と真理の付き合いはまだ一年半と少し。善明はもう少し短い。しかしここにいる三人は出身中学も出身地もばらばらだから、それでも大差はない。でもいま一番荒んでいるのは俺に違いない。参考書にも学友にも馬鹿にされ、何もできないジレンマに苛まれ、とまあ最悪の事態だ。
「もういいよ、本当。俺もう一回二年生やるよ」
手に持った参考書を投げやりにベンチの上へ置いた。俺の言葉に善明も真理もあからさまにあきれた顔を見せた。善明に関しては若干怒っている、ようにも見えた。そんな二人の気持ちもわからないでもないが、今一番困っているのはこの俺だ。昨日までの自分を首絞めてやりたいけど、それに懲りて今真剣になっているかといわれればノーとしかいえない。今まさに諦めたばかりだ。しかし十七年間で培われた性格はそう簡単にはなおせやしない。そんなの九割方出来ているビルを更地に戻して倍の高さのビルを建てるくらい大変だ。不可能ではない、のだろうけど。
昨日、俺は同じ言葉を担任にも吐いていた。
「進級できないのならできないで構わないですよ」
呆れた顔をして俺を見ていたが、口から出たのは説得の言葉でも叱咤激励でもなかった。まだ罵倒されたほうが俺としては“契機”か“理由”になったかもしれない。細く長い溜息を漏らした大人に、俺はいよいよ興ざめしてしまった。期待されていないことはよくわかっていたけど、あからさまに期待されていない事に気づいてしまうと、やはり面白くはない。少し前、教師が真理に言った「お前はやればできるんだ」という言葉を暗に期待していたのかもしれない。期待していたのは俺だけだったわけで、教師は俺になんの期待もしていないのがよくわかった。
ただそれが当たり前の反応であることも、十分理解していた。
寒気に白んだ溜息が、俺の視界にひとつ。思わず俯いた顔を上げた。溜息を吐き出したのは善明で、隣に座った真理は神妙な顔で遠くを見ていた。あまり肌に馴染まない雰囲気だった。そんな雰囲気を作ったのは自分であるのは間違いないだろう。
溜息から一拍の沈黙をおいて、善明は口を開いた。
「なにがあったか知らないけどさ。俺だってメリットとかデメリットを考えて勉強教えてるわけじゃないんだよ。真理くんはどうかしらないけど、少なくとも俺は君と卒業したいから言ってるんだ」
「……は、恥ずかしいことを言うね善明くん」
「俺は別に恥ずかしくないけどね。真理くんだって本当は応援してるんでしょ? オメガの参考書なんて君には必要ないはずなんだから」
ベンチに放り投げられた参考書。そういえばこれは真理に貰った――くれたつもりはないかもしれないが――ものである。
「別に。僕と親友だと豪語するこの男が馬鹿なのは嫌なだけだよ」
言いながら薄っぺらのノートで俺の後頭部を遠慮なく叩いた。鈍い音が頭の中で反響する。相反して乾いた破裂音が屋上に響く。それらが合わさって鼓膜を揺らすと、頭がぐらぐらした。
「暴力はよくないよ! 俺がこれ以上馬鹿になったらどうするの!」
「どうもしない。もうお前真性の馬鹿決定。ばーかばーか」
「ちょ、最初に馬鹿っていったほうが馬鹿なんだぞ! ばーかばーかばーか」
むかついたので傍らに置いて意味を為していなかったノートで思い切り殴り返してやった。珍しく感情的な顔をして睨んでくるから少し嬉しくなってしまってもう一発叩く。ちょっと、いや、だいぶ調子にのっている俺。後悔する間もなくノートの比じゃない痛みが、旋毛を襲った。しかし今回は少し様子が違う。一瞬、目の前の真理に殴られたのかと思ったのだが、違う。その真理本人も俺と同じように頭を抱えて痛がっていた。となると犯人は一人しかいない。
「よしくんさあ、僕まで殴らなくてもいいんじゃないの?」
「二人ともおふざけが過ぎるよ――ね?」
にこりと握りこぶしを振りかざしている善明に、俺と真理は必死に、というか懸命に首を縦に振った。
「わかってくれればいいんだよ」
前にも思ったが、やはり善明みたいなキャラが怒らせると一番怖いらしい。手が飛んでくるとは考えても見なかったので、結構驚いた。いまだじんと痛む旋毛を気にしつつ、大小様々なへのへのもへじがこちらを見つめ返してくるページを、再び開いた。
嗚呼、なんていう青春。夏休みの映画とかになりそう。本人たちはいたって真面目なのに、周りからしたらどこかこそばゆいシーン。こんな青春したかった、みたいなあおりが絶対ついてる感じ。
まあ今回本人たちもしっかり恥ずかしさを感じているけれど。
「それじゃあつづ――」
善明はここで噛んだとか、疲労で倒れたとかそういう内因で言い切ることができなかったわけではない。近いうち後者は実現する可能性があるが少なくとも今はそういった理由ではない。続きのきを言おうとしたタイミングで、屋上の扉が思い切り開かれたためである。その外因性のショックで、善明はきと発音しようとした微妙な表情筋の状態の儘フリーズしてしまった。扉は開かれた衝撃が強すぎたためか百八十度開閉していた。壁に思い切りぶつかり耳障りな金属の衝突音が屋上に、空に響いた。もしかしたら学校中に響き渡ったかもしれない。そう真理だって善明だって思ったであろう大きな音だった。
俺は鼓膜がまだかすかに振動しているのを感じながら、錆びついたブリキのようにゆっくり音源の方を向いた。予想通りとも言い難いが、予想外とも言い辛い。真理が隣で「うえ」と小さく洩らすのが聞こえた。
「ああ、よしくんこんなところにいたの!」
「こんなところとは相変わらず失礼な女だな。何度言えば君は大人しく扉を――」
比較的女性に対してはまだ優しい真理だが、登場した彼女にだけはどうしてか厳しい。彼曰く生理的に合わない女なのらしいが、俺としてはただの同族嫌悪だと思う。二人とも特定の人物に対して以外性格が極悪だ。主に
善明に対して二人は善人だ。俺については察していただきたい。
女――美映という。甘すぎるチョコレートのような色の髪は地毛らしい。よくクラスの女子に羨ましがられているのを見る。ボブの髪は何時でもふわふわとセットされている。色素が薄いのだろう、肌も白く少し雀斑も見受けられる。髪と同じ色の瞳は、平均から見ても大きい方だろう。ごく一般的な視点から見て、可愛いと呼ばれる部類の人間だ。
中身を知らなければ、という前提をここにはカッコ書きしておかなければならないが。
「お黙り屋上ひきこもり根暗男。私のよしくんをこんな湿っぽいところに拘束しないで頂戴」
美映は善明を盲目的に好いている。善明は残念ながらそういった気は更々ないのだが、まったく気にすることなく彼女候補と豪語している。今はまだ彼女候補だが、そろそろ勝手に彼女だと叫びだしそうで怖い。思い込みが激しいのも彼女の欠点の一つだろう。
善明は屋上の入口に仁王立ちになり、真理を睨み下ろしている美映にうんざりした視線をやった。
「いつからおれはきみのものになったんだよ。何か用があるなら聞くから仁王立ちは止めなさい」
「はあーい。特に用は無いんだけど、よしくん禁断症状が出そうだったから再充填に来たよ!」
小柄なからだは跳ねるように歩く。そういうところもなかなか可愛らしいのだがやっぱり俺も真理もピンとこないというか、まったくときめかない。善明も同じようだが、彼もまた普通ですみたいな顔してずれたところがあるからよくわからない。
「何時から常習性のある物質になったのかな、おれは。美映、今日は勉強教えなきゃいけないから空気読んで帰りなさい」
「えええ、やだあ。今日ばっかりはやだあ」
「いつもじゃねえか電波」
善明の腰のあたりに纏わりついて離れる兆しのない美映に、隣の真理が絶対零度の眼差しをおくる。呟いた言葉も相俟って、すごく怖いことになっている。
「真理くん顔がマジで怖いよ。あと彼女は電波っていうよりストーカーだよ」
こっそり耳打ちしてみたら案の定――なのが悔しいが――拳が飛んできた。今回はわき腹だった。
美映は善明と小学校の頃からの友人同士である。ただ入学前から家が近所で幼馴染に近いらしい。その善明が言うには小学時代にはこんな風にべったりというかべた惚れ状態でなかったという。善明はその理由を知らないと言っていた。善明が言うには美映のことを嫌いではないし、むしろ友人としては大切にしたいがどうしてもラヴは無いという。あくまでライクで、そういうすれ違いは少し辛いとも漏らしていたのを知っている。美映が本当に何も考えていないのなら、たぶん決定的な何かが無ければ何も変わらないだろう。もし美映の中に大きなものがあるのなら、善明が変るかもしれない。
と、俺があれやこれや考察したところで誰も喜ばないだろうからもう止めるけれど。
「美映、今日の夜新しいゲームを持って馳せ参じてあげるから大人しく家に帰りなさい」
苦笑いの善明の言葉に美映は瞳を輝かせた。
「ほんと? やったー、じゃあ先帰って待ってるねっ。後でメール頂戴」
「わかったよ」
もう一度美映はやったあと小さく笑った後、頑なに離れようとしなかった善明からあさっり離れ入口へと駆けて行った。屋上を後にする前に一度、こちらを振り返ってひらひらと手を振られたので適当に振り返す。善明用の素敵な笑顔ではなく、ぶすくれた対男子用の顔だったけれど。
まあ、悪い奴ではないんだよな、本当。
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