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 私立第二第五高等学校、二年五組、席は廊下側二番目の列、後ろから二番目。第二第五とかいう気持ちの悪い名前には理由がある。第一高校と第二高校の二つしかなかった時代、生徒数が増え第一高校はそのまま第二高校だけが四つに分割された名残である。現在はその当時の生徒数が四つ分という比較的規模の大きい学校系列になっている、らしい。ちなみに第四が無く、第二、第二第二、第二第三、第二第五の四つである。第二第二というのは一瞬喧嘩を売っているのかと思ってしまった。四がない理由は単純に不吉であるかららしい。

 そのうちの最も成績不振であるこの第二第五で、俺は高校生生活を送っていた。季彦という名前はよく、金持ち臭いとからかわれるが金持ちだったらこんなところには来ない。学力水準が低いので、俺の名前をばっちり間違えずに呼んだ人間は教師を除いて今のところ二人だけ。キヒコやらリヒコ――季と李の誤認――やらヒコだけはあっているのだがいまいち日本人の名前になっていない。実際はスエヒコである。なんとか彦、イコール、金持ちといった面白おかしい思考回路を皆さんお持ちのようなのは把握した。

「季彦くん、季彦くん」

 その間違われなかったことのない俺の名前を呼ぶのは、三組の評議委員であり彼もまた一年生の時からの付き合いがあるヨシアキ君その人である。善に明るいという善いことをするために産まれてきたような名前の彼は、実際素晴らしい人間だった。逆名にならなくてよかったということを全力で主張したい。

「なんだよ善明大先生」

「なんだよじゃないよね季彦くん」

 にこやかにほほ笑む爽やかな、なかなかの美少年。俺は同じようににっこりと笑顔を投げ返す。そんな二人の間にひゅるりと風が吹き抜けた。

 そう、吹きぬけたのである。

 元来室内で風が吹き抜けるのは強風で窓を開け放っていた時ぐらいで、多少の風ではカーテンが緩やかに戦ぐ程度だ。ひゅるりなんていう擬音語が当てはまるような風は吹かない。

 簡単なことである、ここは教室ではない。抜けるような青空が頭上に広がった、屋上という一種のフィールドである。

「マサミチくんもマサミチくんだよ。君はいいけど、このすっとこどっこいのちゃらんぽらんは進級すら危ういんだ」

「すっとこどっこいなんてまだ使う人居たんだな」

「季彦くんはこの際もう喋らなくていいよ」

 ひどいなあ、とつぶやく。にこやかな笑顔の裏に何かどす黒いものが見えた気がして、口をつぐんだ。こういう優しさの塊みたいな人が一番実は怖いんだ。鬱屈しているのだろうか、可哀想に。

「そんな目で俺をみないでくれないかな季彦くん」

 青筋の浮いたこめかみを押さえながらひとつ咳払い。可哀想なものを見る目をしていたらしい。

「だからマサミチくんたら」

 善明が振り向いた先、青色の古いベンチに仰向けに寝転がるもう一人の男子生徒。顔の上に乗せられたのは“色でひける花の名前がわかる本“という辛気臭い本だった。こいつは俺の親友というやつだ。一度も同意はもらったことはないが、多分最近はやりのナントカってやつだと信じて疑わない。名前はマサミチ、真の方の真理とかいてマサミチ。こいつはこいつで、マリだとかマコトだとかに間違われている。まだ日本人らしいあたり俺よりずっとましだ。そんな真理は本を、腹の上に乗せていた右手で取り払うと、俺たちをじろりと見渡した。就寝中であったらしい、目の焦点が合っていない。

「よしくんもさあ、先生からの頼みを断れない口だよね」

 しかしおはようよりも欠伸よりも先に言い放ったのはこれだった。善明は疲れ切った終電のサラリーマンみたいな顔で長すぎる溜息をついた。

「まあったく、誰のせいですかねえ」

 最近こんなやり取りを毎日のように行っているので、流石に善明もぷちっといきそうだ。そうなると最終手段に出なくてはいけないので、遠慮していただきたい。最終手段、それは暴力という名の愛の鞭だ。あ、逆か。

「あ、ああそうだ。善明さあ。何か伝達を頼まれて遠路遥々ここに来たんだろ」

 真理はのそりと起き上がって、正しいベンチの使い方を実践にうつす。ただ普通に座っただけだ。ブラフが過ぎてしまった。

 その空色にしては濃く、海色にしては薄い青色のベンチは真理の特等席だった。二つ並んだベンチの右側には真理、左側には数冊の本が積み上げられている。図書室の本だったり、図書館の本だったりいろいろだったけれど綺麗な新品を呼んでいるところは見たことがない。

 その真理はきちんと腰を落ち着けた時点で初めて欠伸を洩らした。善明はすでに肩を竦めるか溜息をつく以外のモーションは放棄したらしい。無気力にだれる両腕が哀愁を誘った。

「君たち、進級のかかってる期末試験、ちゃんと頑張るんだよ」

「よ、余裕だぜ! なあ親友」

「親友? ここに僕とよしくん以外に誰かいるの?」

 わざとらしくきょろりと辺りを見渡す。俺ら三人以外に人影はない。最近いよいよ泣きたくなってきた。

「まあ僕は特に危険視されていないしね。たまたま勉強したい場所が屋上だっただけだもの」

 さらりと酷い我儘をかましている。ところどころいらっとする発言だが、それは正しかった。真理は一年生の六月までしか教室には行っていない。それ以降丸一年以上はこの屋上に登校しているのである。それなのにテスト順位は、飛びぬけて、というわけではないが毎回上位である。自宅で勉強はきちんとしているからね、と笑顔で言われたが逆に疑わしい。

「君たちが親友かどうかなんてこの際どうでもいいよ。君たちが進級できるかが問題なんだ」

 弛緩した様に逆さまに倒されたゴミ箱へと腰を下ろした。

「おやおやおやおやお疲れモードですか善明くん」

 間延び、しているのとはまた違うのんびりとした口調。真理は独特のテンポを持っている。個人それぞれテンポが違うと言われれば、確かにそれは違いないのだけど、真理の場合は少し違う。何が違うというか、何か違う。これは俺の感じ方の問題なんだけれど、急いてもなく怠りもせずただ時間に身を任せてそこにいる、そんなふうに思う。のんびりしてるようで、きっちりしている、というのか。なかなかこれをうまく表現できたことはない。

 少し前までの俺ならば喜々として真似しだすところだが、生憎いまの俺は真似したいとは微塵も思わない。

「お疲れモードというよりお怒りモードだろ」

「季彦くん、原因は誰かわかっているのかな?」

 立てた人差し指をこちらに倒して、すでににっこりすることを否定した顔が左に少し傾いていた。ちらりと後ろを振り向いて、もう一度善明を見る。

「誰?」

 真理の視線は膝の上に広げられた気味の悪い分厚さの本へ向いていた。俺への興味はないんですかそうですか。俺がそうやって善明から興味をすらしていたら、すぐ横まで善明の顔が迫っていた。

「うぉっ」

「きみ、君なんだよ君。季彦くん、お願いだから授業に出ようよ」

「えー。ああー、ううーん」

 懇願されて俺は正直困ってしまう。特別理由もないサボり魔は、教室に戻る特別な理由が思い当たらない。なかば欠伸交じりの呻き声を漏らしていたら、愉快そうな顔で真理がこちらを見ていった。

「言語化しなさいよ」

「あっああ。ごめんよ善明君。俺のクラスの委員長でもないのに……ご足労お掛けします!」

 会釈とそう変わらないお辞儀をすると、善明はあきらめたようにまた溜息を吐いた。二月にしては鮮やかな青空に不満が混じった。

「今日はもう戻るよ。これから午後の授業も始まるからね。季彦くん、言っても無駄だとは思うけど、君のクラスの次の授業は理科室で化学の授業だよ」

「はいはいどうも」

 俺の適当な返事にさらなる返答はなくて、すっかり疲れきった顔を隠すように、屋上の錆びた鉄のドアはばたんと閉められた。

 はあ、と溜息量産機が去ったはずの屋上にまたひとつ溜息。俺は溜息吐くほど行き詰ってないので必然的に溜息を吐いたのは真理である。

「季彦君。後期中間のテスト順位学年で何番だったっけ」

「え? えーっと、八位だった」

 ひゅるり、とまた風が吹き抜けた。真理の顔が心なしか曇っている。

「それは下から数えて八位、という理解で構わないのかな」

 ちちち、と俺の腕時計の針の音。それくらいは、しんとした。

「大正解。さすがしんゆ」

「三百二十一位の親友は要らないよ」

「ひ、ひでえ!」

 ばっさりと切り捨てた後、傍らに積まれていた本の上から二冊目を引き抜いた。陽の光を淡く反射するブックカバーはまだ新しいようで、販促のミニコミが挟まっているのがわかる。

「せめて五教科ぐらいがんばったら?」

 ひょい、とその本は放り投げられて俺の懐に着地した。オレンジが眩しい、それは参考書のようだった。表紙には数学Ⅱとゴシック体で大きく書かれている。

「オメカ出版……」

「よくみなよ、オメカじゃないオメガだ」

 じっと目を凝らす。光っていて判別しにくかったが確かにCではなくGだ。

「そのオメガの参考書をどうしろと?」

「いやいやいやいや勉強に使うしかないんじゃない?」

「あ、そうか」

 真理の顔がみるみる苛立ちに青ざめていくのがわかった。人は怒ると赤くなり、苛立つと青くなるらしい。

 そんなくだらないことを考えながら、俺は手に持っていた参考書をぱらりと捲ってみる。要点がまとめてあり、xやらyやらが羅列されている。

「なあ真理」

 さっきの分厚い本に視線を戻した真理は、俺の問いかけにいまだに青い顔を上げた。本は一種の精神安定剤みたいだから、早々に読書に戻りたいに違いない。俺には関係ないけれど。

「なにかな季彦くん」

「これはいったい何を表した呪文なの?」

「おま……」

 真理は絶句して青い顔を通り越して白くなっていた。俺の指差した先に並んだ呪文。

 それからあっけにとられる真理の顔。

 まさか自分の知識がここまで遅れていたなんて、俺はこのときまで知る由はなかったのだ。



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