第11話

 暫く歩いていると、アイスリンは少し拓けた空間に出ました。見渡すと老木は倒れ、低い若木が生えていました。

 倒木に座って休憩していると、ふとアイスリンは懐中時計を見ました。

 ──6時35分。

 手で弄んでいると蓋が歪んでいるだけではなく、所々の小さな傷や、焦げ痕のようなものに気付きました。

 暫く考え込むと、懐中時計を開けました。

 蓋の内側には男性の名前がローマ字で刻まれていました。それを見てハッとしました。

 苗字が今の若菜と同じことや、傷だらけであることを考えると、これは若菜のお義父さんの形見で間違い無いでしょう。

 若菜のお義父さんは二年前の交通事故で亡くなったのです。

 あの時の若菜の狂いようを忘れられません。




 その日は台風の接近のせいで湿度が高かった。だから盆地であるこの地域を濃い霧が包んでいたのだ。

 若ちゃんのお母さんは生まれつき病弱らしく、妹ちゃんの出産前に入院した。

 そのため幼い弟ちゃんを親戚の家へ預けて家には若ちゃんとお義父さんの2人きりだったそうだ。


 夜中の2時を少し過ぎた頃、病院から電話が来た。それはお母さんの危篤の知らせだった。

 病院はこの小さな盆地内には無く、お母さんは隣町の病院に入院していた。

 お義父さんは近道するためにグネグネ曲がった峠道を使った。霧で視界が悪い中、結構なスピードが出ていたそうだ。そして車ごと崖から転落したのである。


 あの日、若ちゃんは自分を責めていた。

 若ちゃんにとって弟ちゃんはもちろん可愛いのだが、初めて血の繋がった姉妹に心が弾んでいた。なのに母子共に危険な状態となってお義父さんに当たったのだ。

「……私のせいだ……」

 私が父さんを急かしたから。若ちゃんは何度も何度も上ずった声でごめんなさいと謝っていた。




 懐中時計を渡す時の若菜の曇った笑みを思い出しました。

 アイスリンはその表情を知っているのです。

 それはあの日です。あの日、霊安室の前で見たのです。

「大丈夫?」

「……うん、ごめんね、心配かけて。大丈夫だよ」

 その時の笑みなのです。

 ──どんな気持ちだったんだろう? アイスリンは肩を落としました。

 二年前、何故大丈夫と言った若ちゃんを信じたのか? 何故あの時若ちゃんなら大丈夫だと思ったのか? 何故芋虫の時のように傍へ行かなかったのか? 若ちゃんだってわたしと同じ子供なのに!

 ただただ嗚咽混じりに泣きました。

 森は静かで、そよそよと柔らかな風が頬を撫でました。さわさわと葉が優しく鳴りました。

 パチン! アイスリンは両頬を叩きました。

「……今を、生きなきゃ……」

 グシグシと乱暴に目を擦ると、アイスリンは勢いよく立ち上がりました。

 そしてまた歩き始めました。

 もうすぐ森を抜けるはずです。

 大人の世界に若菜はいる。きっと自分もそこへ行ける。

 そう信じてアイスリンは真っ直ぐ前へ進みました。

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