第4話
昔の若ちゃんはとんでもない子だった。
例えば、産まれて初めて海を見た日。
「学区を出よう!」
朝早くに鳴ったチャイムで私は叩き起こされた。急いで玄関を開けるとこれである。
赤い自転車の横の若ちゃんは、ワクワクした真っ直ぐな目でわたしを見ていた。
両親が共働きで今日も一人のわたしは正直ホッとした。でもそんなことが悟られると馬鹿にされるだけなので少々つっけんどんな態度をとる。
「ダメだよ。怒られちゃうよ。」
学区外に子供だけで行ってはいけない。先生やPTAの親御さん達は散々言っていた。
「大丈夫だよ。端尾川の河口までだから。」
バレないバレない。若ちゃんは後ろに乗るよう、わたしを急かした。
──河口って、山を越えた扇状地の先じゃん!
でもどうせ若ちゃんは折れないだろう。
わたしは渋々乗った。
それから、ひたすら川沿いを走った。土手の桜はまだ蕾だった。
若ちゃんの自転車は速かった。このまま飛べるんじゃないかって、五分の一は本気で思えるぐらい。
風が頬を叩いて少し痛かった。
「ほわぁー、すっごい」
『海は広いな大きいな』やっとこの歌詞が理解できた。
遠くの向こうで空と海を水平線が分けていた。
沖の方は穏やかなのに、時々バッシャーッと荒々しく波が防波堤にぶつかる。飛沫がとても冷たい。潮の香りがキツく、思わず顔を顰めた。
ふと隣りを盗み見ると、若ちゃんは海を見ながらドヤッと笑っていた。
「どーよどーよ、凄いでしょ!」
若ちゃんはさも自分のことのように胸を張り、わたしの肩を左手で叩いた。
「テレビで見たことあったもん!」
癪に障ったわたしはぶっきらぼうにそう言った。でも画面と実物とでは何もかもが全然違う。見ているだけで自分も、世界も、ちっぽけに思えてくるのだから。
気が付くと若ちゃんは防波堤の上に座っていた。
「危ないよ!」
今日は波がかなり強い。下手したらシャレにならない。
それでも若ちゃんはくしゃっと笑って、
「大丈夫だよ。ちゃんと気を付けてるから」
しかも、
「アーちゃんもおいで!」
左手を差し出している。
──その笑顔、ずるい……。
わたしは文句を垂れながら若ちゃんの隣りに座った。
「私ね、将来ピヤノで留学するんだー」
唐突に若ちゃんはそう宣言した。
何言ってんだコイツ。わたしはそんな目で若ちゃんを見た。
そして驚いた。真顔だったのだ。そこには一切の冗談など無かったのだ。
「そんでねー、ピヤニストになって死ぬまでピヤノ弾くの!」
若ちゃんは夢を語ると言うよりも、世間話をするように言った。
信じて疑わない瞳が揺らぐことはない。
「楽しいよー。好きなだけ弾けるんだもん!」
春の陽射しが波間に乱反射するように、若ちゃんの瞳は光っていた。
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