第3話

 それから二人は建物を出ました。廊下の惨状に目を瞑って。

「ねぇ若ちゃん、ここはどこなの?」

 アイスリンはどこまでも駄々っ広い草原を横目に訊きました。

「ここで深く考えては駄目。そういう所なの」

 手を引く若菜の右手が少し強くなりました。

 アイスリンは小首を傾げました。

「なんで?」

 若菜は煩わしそうに振り向きました。

「だから! もうっ……さっきの人達みたいに排除されるからよ」

 アイスリンは更に傾げました。

「なんであの人達は排除されたの?」

「あーもう! 彼らは社会不適合者だからよ! そのクセ改善させる意思も無い!」

 ……だからよ。若菜は言いました。

「しゃかいふてきごーしゃ?」

 アイスリンの丸い目は、更に丸くなりました。

「……今のは忘れて。ムリに大人になれば代償を支払う必要があるから」

「代償ってなに?」

 アイスリンはまた首を傾げました。

「簡単なことが分からなくなるのよ」

 若菜は忌々しそうに言いました。

「なんで? 大人になったら頭良くなるんじゃないの?」

 アイスリンはキョトンと若菜を見詰めました。

「確にそうだけどそれは経験とか知識が付くからよ。それは時に足枷になるの」

 若菜は苦々しげに言いました。

「……そっか、とにかく何も考えなければいいんだね」

 アイスリンは呟きました。

 うん。若菜は大きく頷きました。そしておもむろにポケットから銀の懐中時計を取り出しました。

「私、行く所があるの」

 若菜は男物の懐中時計を弄びながら曇った笑みを浮かべました。その笑みはどこか見たことがありました。アイスリンは急に怖くなって若菜のカーディガンの裾を掴みました。

「どこに? わたしも行く!」

 アイスリンは言いました。若菜を真っ直ぐに見詰めて。

「ありがとう。でも駄目なの。自分の事は自分で何とかしないと──それが大人だから」

 そう言うと若菜は懐中時計をアイスリンに渡しました。

 アイスリンは不思議そうに少し蓋の歪んだ懐中時計を見ました。

「困った時はそれが助けてくれるよ」

 若菜が優しく微笑むと、ザァッと一陣の風が吹きました。砂埃が舞い、アイスリンはとっさに目を閉じました。

 ──助けてとか、言っちゃ駄目だよね。

 悲しい寂しい呟きは、アイスリンには届かず、風音に掻き消されました。

「若ちゃん……?」

 アイスリンが目を開けるとそこに若菜はいませんでした。

「若ちゃん!」

 アイスリンは叫びました。その声は草原に虚しく消えていきました。

 それから、アイスリンは何かから逃げるように歩き始めました。それは、アイスリンの心を根底から支配する不安でした。その不安は親鳥と離れた雛の気持ちでした。

 道無き草原はどこへでも行けるのです。目的地を持たないアイスリンにとって、そんな自由は未知への恐怖でしかないのです。

 そこで縋るようにハーフハンターの懐中時計を見ました。

 ──11時58分。

 そしてアイスリンは空を見上げました。するとお腹が鳴りました。

 どうしようもなく、アイスリンは大きな楠の下に腰を下ろしました。

 ザワザワと葉を揺らす風は心地よく、木陰はヒンヤリとしていました。背中の楠はまるで揺りかごのような安心感があります。

 アイスリンは空腹を忘れ、強い眠気に襲われました。そのまま抵抗すること無くアイスリンは横になりました。瞼は重く、すぐに夢の中へと落ちてゆきました。

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