*2
街灯から歩いて数分。三階建てのアパートの二階の部屋へ彼は案内してくれた。単身用のワンルームだ。部屋はあまり物が無くてすっきりとしている。
道中、彼はそわそわとしていた。保護する目的とはいえ、見知らぬ女を招くことになってしまって落ち着かなかったのかもしれない。だって、わたしも落ち着かない。
借りたフェイスタオルで髪を拭く。服を換えるほど濡れなくてよかったと思う。
彼は廊下の途中の小さなキッチンに立って、コーヒーを淹れている。マグカップが不揃いなので、恋人の心配はなさそうだ。厚意で雨宿りさせて頂いてる身としては、けんかの火種になってしまっては申し訳ない――なんて、気を使ってみたりする。
大人しくしてるには居心地が悪くて、立ち上がる。ふらふら歩き回っては部屋を物色して、玄関脇にある全身鏡に目を留めた。裾にカラフルな小花柄をあしらった白地のワンピース。お気に入りで、買ってもらったばっかで――
「コーヒー、できたよ」
「あ、うん」
収納できる小さな丸いテーブルの上。赤いマグカップから、コーヒーの香りと湯気が立ち上っている。両手で包み込むように持つと、一口頂いた。
「なにも思い出せないの?」
「そんなことはないと思うよ。わたしは柳 紗衣。サエって呼んで」
空中に紗衣と漢字を書くと、彼は首肯した。
「サエちゃん」
呼ばれるとくすぐったくて、わざとらしく笑ってみる。
「ボクはリョータ」
指先でテーブルに『良太』と漢字を書いてくれた。
コーヒーが冷めてしまうまで、ふたりでお互いの話をした。リョータはわたしより二つ年上で大学生なこと。コンビニのバイトをしていて、今日もその帰りで遅かったこと。
たまにわたしが話しを止めてしまうものの、リョータは突き詰めたりしなかった。――記憶がない、なんて口にできなかった。
初対面で図々しくお世話になっているのに、妙にくつろいでしまっている。まるで気心知れた友人とカフェでお茶でもしてるみたいだ。きっと、リョータの濃やかな気遣いによるものだと思う。
リョータは疲れているのか、身を乗り出すような格好でテーブルに寄りかかる。時計はすでに深夜を示しているから、付き合おうとして無理に起きていてくれたのだろう。頭がぐらぐらと船を漕いでいたけど、やがて腕に顔を埋めるように寝てしまった。
彼にすぐ後ろのベッドを勧めようと立ち上がったけれど、諦めてリョータの横に腰掛けた。どれだけ我慢してたのか、不自然な姿勢にも関わらずリョータは深い眠りに落ちてしまっている。
無防備な寝顔を見ながら欠けてる記憶について考える。
家のこと。あの場所にいた理由。なぜ記憶が欠如しているのか。
そうしているうちに、カーテンの隙間から朝陽が射してきた。
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